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今年はずいぶん長い夏になりそうです。
 
先回の記事で「連作ビリージーン」を終了して、しばらく記事アップをお休みします。
 
ポップ音楽の神話「ビリージーン」と「カルメン」の関連性を見つけてから
3年かけて、ようやくまとまった「検証記事」を書くことができました。
長々とした文章でしたが、沢山の方にお読みいただいてありがとうございました。
 
「私はマエストロになる」
というマイケルのこの言葉に励まされ、マイケルがポップとクラシック音楽の境界線も軽々と乗り越えたということを考察してみました。作品の解釈については
異論もあると思いますが
「クラシック音楽的な分析」という尺度を持ってマイケルの作品を味わう、という観点は、マイケルの芸術を楽しむうえでとても意味があることだと思います。
 
また時間が取れたら、「BAD」も同じような手法で検証したいんですよね。
 
マイケルがどうしてあれだけ「West Side Story」にこだわったか。
 
同じアメリカ人作曲家として少し先を歩んでいたレナード・バーンスタインに対する強い憧れ、尊敬の念。
 
人種的マイノリティーの若者たちの生と死を描いた社会派のストーリーに
尊敬の念を抱きながらも、激しい不満感も持っていたのではないかと思うのです。
 
それはプエルトリコ人たちの描写。
黒人の血が混じっている有色人種の役をジョージ・チャキリスが演じたことを
マイケルがすんなりと受け止めたとは思えません。
 
「差別」を描く映画で差別。
 
チャキリスは素晴らしいアクターだし、いいじゃない。
 
と私たちは思っていまうわけですが、マイケルの視点から見たらどうだったでしょう。
黒人版「オズの魔法使い」を作ったのだから、黒人版「West Side Story」を作ろう、
というのが「Bad」アルバムのコンセプトではないでしょうか。
 
それぞれの曲に描かれるのは、未来を見失ったストリートの若者たち。
命知らずのスピード狂。娼婦。ゆすりたかりをするギャング。スターの追っかけをする
グルーピー。白人エリート学校に通う孤独な黒人少年。安易に人を殺す者。またその被害者。
 
スラムで生きる若者たちの困難、その中に咲く恋。
 
その若者たちに「Another Part of Me」や「Man In The Mirror」で自己変革や社会変革を呼びかける。
 
「ビリージーン」と「WBSS」で組曲の概念を使ったマイケルは、いよいよ
「Bad」アルバムを、すべての曲が一つのストーリーで貫かれた「ポップオペラ」
にしようとしたのではなかったのか。
 
う〜ん、これを書きだしたらまた3年かかりそう^^
 
準備にも時間がいるので、いつになるかわかりませんが、「BAD」シリーズでお目にかかることがあったら、またよろしくお願いいたします。
 
またせっかくだから、マイケルのアルバム曲は全部訳をしてしまいたいと思います。
 
単語の数の少ない「詩」の訳は、さまざまな解釈が可能ですが、「楽曲分析」をふまえて解釈すればかなり「マイケルの第一義」に近づけると思います。
 
なんでもかんでも「裏の意味がある」とか「ダブルミーニング」だから素晴らしいとか
陰謀を暴こうとしているとかいう考え方は面白いのですが、
同時にとても危ないことだと思うんですよね。なんでも「イルミナティー」で片づけてしまうのは、物事の本質を見えなくしてしまいますから。
 
21歳で「マエストロになる」と心に誓ったマイケルの覚悟を作品の中に見つけていきたいと思います。
 
再開後も不定期のアップになると思いますが、よろしかったらお付き合いくださいね。
 
THIS IS ITの「Dangerous」リハの映像がアップされていました。
マイケルはこのリハには参加していないようですが、
実現されていたらまたまた素晴らしいパフォーマンスになっていたでしょう。
 
裁判のニュースが辛くて「THis Is It」はちょっと。。。。という方は
スルーしてくださいね。
 
四月から続けてきた「連作ビリージーン」シリーズですが、
今回で締めです。
 
「あの子は僕の子供じゃない」
 
ハイセンスでノリのいいポップの至高の名作ビリージーン。
世界中の人に愛されるマイケルの代表作の詞をよく読むと
この部分で誰もが軽い衝撃を受けますよね。
 
コメントをいただいた方の中にもそうおっしゃる方が多いのですが
私も実は数年前になって「わっ」と驚いたくちです。
 
でもそのショックlがマイケルの世界をもっと知りたいという
きっかけになります。私が単なる訳詞から、もっと深く音楽を分析したくなったのもビリージーンのこのセリフがスタートポイントでした。
 
「マイケルジャクソンの思想」というブログを運営しておられる
東大教授の安富歩さんは、マイケルの没後「デンジャラスツアー」の
映像を見てマイケルに目覚められたのですが、
「マイケルは見る者を無意識の世界に引き込む」とおっしゃっています。
 
音で、映像で、踊りで、衣装で
人々をはっと目覚めさせ、心の奥深くに大きなメッセージを送り込むマイケル。
 
マイケルと人間の心について今回は書いてみたいと思います。
 
先回の記事にも書きましたが、マイケルは心理学
特にフロイトやユングに造詣が深かったと伝えられています。
フロイトやユングの心理学ではこの「無意識」の問題が核になっています。
 
無意識と集合無意識
 
過去記事にも書きましたが、マイケルはSFの中でファンタジー(無意識の世界)に入るとき、ドアを開けたり階段を上り下りをするメタファを使っています。
リアリティー世界(顕在意識の世界)とファンタジーが矛盾することなく
隣接し、両者を行き来することができることを表現するとともに、
見る者を普段その存在に気が付かない異世界へと誘うのです。
 
無意識の世界は、社会の中で生きていくためにかぶったペルソナを脱ぎ捨て
自由に想像力の羽を伸ばし遊べる世界。
押し込めてしまった子供心や純粋さがここにある。また神とつながりを持つことも可能な世界と言われています。
 
また、無意識のもっと深いところには、人類共通の記憶が蓄積された
「集合無意識」の世界があるとユングは考えました。
 
マイケルの詩、「Heaven Is Here」の中にこんな一節があります。
 
 
 
You and I were never separate
It's just an illusion
Wrought by the magical lens of
Perception
僕と君が離れ離れだなんてあり得ない
それはただの思い込み
認識のレンズの魔法が仕組んだ
巧妙なトリック

There is only one Wholeness
Only one Mind
We are like ripples
In the vast Ocean of Consciousness
すべては一つにつながっている
意識は一つにつながっている
僕たちはひとつひとつのさざなみ
広大な意識の海の上の
 
 
 
広大な意識の海があってひとりひとりの意識がそこでつながっている。
これがユングが発見した「集合無意識」のことだと思って訳をしたのですが、
訳した当時はマイケルがユングに詳しいとは知らなかったので、
はっきりとユングの名前を出すのは控えていました。
 
でも、ユングの心理学を知れば知るほど、SFの解釈がしやすいのです。
そこで「マイケルはユングを相当勉強して作品に応用している」と考えて
ユングについていろいろ調べてきました。
 
マイケルがユングの心理学を応用しただろうと思われることは
ビリージーンの中で言うと、「元型(アニマ)」をベースにした人物造形です。
 
マイベイビー    ロマンチックなアニマ
ビリージーン    生物的なアニマ
 
マイベイビーは女の子らしくて優しく、恋愛の対象として大事にしたい存在。
ビリージーンは本能的な性的欲求を満たすタイプ。
 
この相反する二つの女性のタイプにどちらにも魅かれてしまう心理を
物語として描いていると考えると興味深いです。
 
ビリージーンの後マイベイビー型の女性は求愛を拒み神聖さを帯びる
「霊的なアニマ」(Give In To Me, Invincibleの女性像)へと変容します。
 
アニマは男性が心の中に持つ女性性。
成人に近づくにつれ無意識下に押し込めて、男性らしさを身に着けますが
その心の中の女性像を、恋愛の対象となる女性に投影するのです。
 
アニマが生物的なところから霊的なところまで成長することは
女性との関係も幼いベルからだんだん成熟することを表すようです。
 
女性の場合は、アニムスという元型を持っています。
 
僕とマイベイビーは愛し合っているのでしょうが、ビリージーンの登場で
あっさりその関係は崩れてしまいます。僕とマイベイビーもロマンチックな関係ですが、まだ困難や課題を乗り越えるほど関係が成熟していないのです。
 
でもマイベイビーは簡単に愛を受け入れない知恵を身に着け、そして
美しさも魅力も磨き上げ、改めて「ユーロックマイワールド」で愛を成就します。
 
もうこのころは「ベイビー」などと呼ぶのは違和感を感じるような
完成された女性になっていますね。
 
男性原理と女性原理の統合
 
ビリージーンからユロクマにまで至る長い道のりは、
男性原理(魅力的な女性にたくさん出会いたい)と女性原理(一人の男性との愛を守りたい)のぶつかりあいや葛藤です。
 
ユングの心理学では対立するものの融合が大きなテーマの一つになっています。
 
元型はタイプ分けだけのものと考えると、血液型占いみたいに人間をパターンで分類するものにすぎなくなってしまいます。
 
でもユングが元型を用いて理解しようとしたことは、分類ではなく
人間の人格の変容(成長)でした。
 
マイケルも類型的な人物パターンを用いて神話的な物語を書いたわけですが、
悪者VS善人の勧善懲悪や、純愛ラブストーリーだけを作りたかったのではないと思います。
 
錬金術師が異なる金属を組み合わせることで、金を作り出そうとしたように
男性と女性が愛し合うことで、人格の変容と成長が成し遂げられるということを
マイケルは描きたかったのだと思います。
 
長い時間をかけて、一つのカップルが成立するということだけではなく、男性が優しさを身に着けたり女性が強さを身に着けること。
 
また、ビリージーンの存在は、善良なタイプのマイベイビーから見ると
まったく正反対の憎むべき女性像です。しかし、自分と正反対のタイプの人から
自分にないものを取り入れ、統合することでマイベイビーはますます素敵な女性になります。
 
逆にビリージーンもマイベイビーから何かを得ているかもしれません。
 
ユロクマに出てくるヒロインは面白いことに
ビリージーン+マイベイビーみたいなタイプになっているんですよね。
彼女はどう見ても裏社会に生きる男の情婦。でもビリージーンみたいにマイケルが演じる男性を誘惑したりだましたりするキャラクターではなさそうです。
 
男性も彼女の外見的な魅力にひかれますが、すぐにはなびかない賢さに気づき
真剣に彼女を愛するために闘います。
 
とうとう見つけた完璧な愛。
 
この言葉でもわかるように、ビリジン〜ユロクマの長い旅路は
振り返ってみると本当に壮大な心の成長の長い道のり。
 
しばらく集中して書いてきたのでなんだかこの三人のキャラクターに愛着がわくのですが、それぞれ三人とも欠点もあるけど個性的。ぶれることなく自分らしく生きているのだけれど、この三人が出会うことで化学反応をおこし、互いに影響し合って
変化し、成長していく。
 
 
男性と女性
一人の女性の中の精神性と官能性
 
これらの異なるものが融合するとき、変容(チェンジ)が引き起こされる。
 
CHANGE
 
それはマイケルノ作品だけではなく、マイケルという人物の人生においても
キーワードとなる重要なファクター。
 
  世界を変えたいと思うなら、鏡の中の男(自分)からまず始めよう。
 
マイケルが引用した「カルメン」でも
主人公ホセとカルメンは互いに相手が自分にないものを持つことに気づき
惹かれあいます。
 
しかし、物語は自分を変えようとして関係から歩みだす女性を、
自分を変えられずに相手を変えようとする男性が殺してしまう悲劇を引き起こします。
 
マイケルは「カルメン」を下敷きにしながらも、登場人物それぞれが
「相手ではなく自分を変える」成長を遂げさせたかったのではないでしょうか。
 
連作「ビリージーン」は「カルメン」をこれほどにまで意識しながらも
悲劇にはしようとしていなかったと思います。
 
男も女も変化することで、
一番大切なもの
「子供」=愛
を守るんだ!
 
そうマイケルは言っているような気がします。
求めれば求めるほど
 
深めれば深めるほど
 
どんどん、果てしない宇宙のように広がっていくマイケルの世界。
 
仕事や家事の合間とはいえ、3年も続けて研究?して記事を書いていくと
その果てしなさにあらためて感嘆の溜息をつくと同時に
「わあ、やっぱりそうだったんだ!」「マイケルすごいよ」という感動も沢山もらっています。
 
「ビリージーン」の連作一つをとっても、どんどん深みにはまっていって
もうすぐ切り上げるはずなのに、なかなか上がってこれません。(笑)
 
こんな迷走中の記事でも毎日お読みいただき、またコメントで励ましていただいて
とっても感謝しています☆
 
前回の記事も「スリラー期にマイケルがヘンリーホンダから演技論を学んだ」なんていうとても古い資料からヒントを貰って書いたものなのですが、さすがに飛躍したかなとちょっと反省。
 
マイケルの映画への思いは晩年まで失われることはなかったというのは定説ですが
そんなに資料もないし。
 
でもそんな中、裁判での愛息プリンス君の発言の中に、
「パパから脚本の書き方を習っていました」という言葉を見つけて、涙。
 
子供たちの夢や興味を引出し、それを無理強いせず伸ばしてあげるマイケルと
それに応える素直な子供たちの姿に胸がいっぱいになりました。
 
今も、マイケルが生きていてくれたら。。。。そう思うと同時に、やっぱり
もうちょっとこの「ビリージーン」の記事も深めていきたいと思いなおしました。
 
またまた、懲りずに「深読み記事」が続いちゃいますが、お付き合いいただけたら幸いです。
 
それにしても深めれば深めるほど、新しい謎や発見が出てきます。
でも、マイケルがあまりに「王道」を行っているので、ちゃんとした資料を調べれば
しっかりとした「答え」も出てくるんです。
 
イメージ 2
こ〜んな無邪気な笑顔と、まるで「生きている図書館」みたいな幅広い知識と、教養、深い洞察力。子供の純粋さと大人の知恵が矛盾することなく
一人の人間の中に存在する。
 
マイケルはやっぱりマジック!です。
 
カルメンは「カルメル山の聖母」
 
ビリージーンがカルメンを引用していることに気づいてから、改めて「カルメン」の魅力や深さに囚われてきました。
 
美貌、知性、生命力、反キリスト教的、異人種。。。、自由、女性の自立、などなど
 
「単なる悪女」では時代や国境や文化の違いを超えた人気の説明ができないのは、ビリージーンにも言えること。
 
その魅力を「おっかさん的」と説明するオペラ歌手のかたの発言を聞いて
「ビゼーやマイケルはカルメンやビリジンに聖母マリアを重ねているのではないか」と漠然と感じていました。
 
「父親のいない子供をもつ若い母親」という要素は「マリア」の必須条件。
 
でも、どちらかというと「あばずれ」のカルメンやビリジンが「聖母マリア」って
非キリスト教徒から見ても問題かなと。でも、オペラを見てもカルメンが死ぬ場面では
背景にマリア像があることが多いのです。
 
そこで非キリスト教徒的に、まったく純粋に非宗教的にマリア様のことを調べてみました。そこで出てきたのが、こちらです。
 
イメージ 1
                     黒いマリア様です。
 
 
ヨーロッパ各地で現在も信仰を集める黒いマリアです。「ダヴィンチコード」ではマグダラマリアとイエスの子供という設定でしたね。
 
でも、調べるとそういう話はほとんど出てきません。
 
この黒いマリアはキリスト教布教以前に根ざしていた「太地母神」信仰をそのまま受け継いだもののようです。
 
シバの女王、エジプトのイシス、ギリシアのデメテル、ケルトのダユーなど。
大地にまかれた種が死に、そこから新たな生命が生まれる。
黒は豊かな土地、豊饒の象徴。
 
イメージ 4
あらゆる生命を受け入れる包容力と、時に小さな人間を飲み込む破壊力。
 これらが「女性の神秘」と結び付けられ、「女神」が信仰されていたのです。
 
しかし「契約の神」を奉ずる、一神教のキリスト教(父権的)が席巻するとこれらの女神は封じ込められてしまいした。
 
でも、キリスト教以前におそらく何万年も人類の心を支えてきた神を一掃することはできず人々の心をつなぐために作られたのが「聖母マリアへの信仰」だったようです。
 
     太地母神+キリストの母
の原初的な姿をはっきりと今でも残す「黒いマリア」。
 
なんとなくですが、私は「カルメン」と「ビリージーン」にこの野性的な母神の
匂いを感じながら記事を書いていましたが先日になってようやく、この「黒い聖母」とカルメンをつなぐものを見つけることができました。
 
カルメンはスペイン語で「カルメル山の聖母」を表すのです。
 
カルメル山とはイスラエルのハイファにある葡萄やオリーブの実る美しい山で
「聖母マリアの象徴」としてあがめられています。
イメージ 3
 
カルメン=マリアとスペイン語を話す人たちは認識できるのでしょうが
私たちにはとても驚きですよね。
 
今現在キリスト教会が創り上げた「無原罪」「永遠に若い乙女」「純潔」といったイメージからはオペラのカルメンは程遠いのですが、
大地のような母の強さと生命力という根源的な性格とカルメンはぴったりです。
 
カルメル山にはアフリカから進出した時期の人骨の化石なども沢山出土していて
まさに、「人類の母」の要素も感じられます。
 
アフリカにまでつながるとなると、ビリジーンやスージーともしっかりとつながりが出てきます。
 
ブラダンのスージーはリトルスージーとの関係を考えると
母性の中にある破壊的な怖さが出ていますが。
 
よく世間では「女性性の復権」という言葉が聞かれるのですが、
「外見的な美しさ」だけに私たちの目は行きがち。
若さやお肌のハリ、だけではなく、
命を守り育てる包容力や強さ
争いより愛を求める「女性原理の復活こそ」が求められるのではないでしょうか。
 
 
日本でも現在「伊勢神宮」がクローズアップされたりしていますが
マイケルの目のづけどころは、30年も早かったですね。
 
「母なる大地」への思いは「Planet Earth」への思いとつながりますが
マイケルは母神だけを信仰すようになったわけではなく、
父神=創造の神、根源神への信仰は失っていません。
 
エホバの証人から離れ、キリスト教以前の人類が信仰した「父神」と「母神」の対を
意識するようになったのでしょう。日本神話でも神様は「天つ神」「国つ神」
に分けられていますが、「天(空)」(父)と「大地」(母)を対にして神を考えるのは
世界中に存在する観念のようです。
 
男性原理と女性原理がぶつかり、融合することは連作「ビリージーン」の根底にある大きなテーマであると思います。母から離れられず、でも女性の魅力に翻弄される男性と、産み育てたいという女性。どちらも本能的で幼いのですが、根源的な欲求に正直な者たち。その両者異なるものがぶつかりあううちに成長し、和合していく。
 
人類の持つ永遠の課題としての物語であり、
そこには「死」があることで新しい「生」が生まれるという避けて通ることのできないもう一つの課題もあるのだと気づかされます。
 
「カルメン」の原作でカルメンが死ぬのは洞窟の前という設定です。
これがオペラになると闘牛場という、神に牛の命を捧げる祭儀の場が持ってこられます。
 
洞窟自体が母なる大地の内部へとつながる生と死を象徴する場所になっているのです。
 
マイケルにとって生命の象徴はダンス。ブラダンではダンスフロアが生命が生まれ
死ぬ、神聖な場所としての意味合いを強く持たされていると感じます。ダンスクラブの内部が赤で統一されているのは、女性の胎内を思わせます。
 
 異質なものの融合
マイケルの音楽を語るときに必ず言われる「黒人音楽と白人音楽との融合」
ということ。
 
マイケルは黒と白だけではなく、「女性原理と男性原理」、「ポップスとクラシック」
「明と暗」、「アメリカ的なものと非アメリカ的なもの」など相反する二つの要素を組み合わせから新しいもの創造するという思想を持っていたように思います。
 
この「二元論的」な考え方や、深層心理の中でも「集合無意識」、原型を使った人物造形から見てマイケルは「ユング派心理学」を深めていたのではないかと思いながら
作品の考察をしていたのですが、「マイケルはフロイトやユングのことに造詣が深かった」という資料をこちらのブログ様で紹介されていたので、「心理学からみたマイケル」を次の記事でまとめたいと思います。
 
ユング派の心理学は日本では河合隼雄さんなどが研究され、受容されているのですが、アメリカでは「オカルト」に分類されてしまうこともあるほど受け入れられていないようです。
 
仏教との共通項が多いと言われるユング派心理学とマイケルについて
考察をしてみます。
・・・・・・
この記事での「マリア様」の考察は、信教の対象としてのマリアではなく
文化的、歴史的な意味を考察するものですので、ご了承ください。
 
カルメル山はエルサレムの北のほうに位置するハイファという土地にあります。
湾岸戦争の頃アメリカ人の友人が一時的にここに住んでいて、「ロケット弾」が飛んできたと手紙をくれたことを思い出します。
 
 
さまざまな宗教にとっての「聖地」とされた地域の一部なのでしょう。
その聖地が争いの舞台になっているのが皮肉なことですが。
しばらく本編「ビリージーン」から離れていたのですが、
話を元に戻したいと思います。
 
名作「カルメン」を下敷きにした、25歳のマイケルの情熱と野心の結晶
「ビリージーン」。
 
音楽家、詩人、映像作家、パフォーマーとして、すべての分野において
最高のものを目指したマイケル。
 
その中でも「脚本家」的な面に光を当ててみようと思います。
マイケルが映画界への進出を考えていたことは有名ですが、
もちろん俳優業だけではなく、製作も視野に入れて勉強をしていた
ということも注目に値することだと思います。
 
映画製作を夢見て、多くの脚本を読み込んだり
ハリウッドの名優たち(マーロン・ブランドやヘンリー・ホンダ)から直接
学んだことは楽曲の製作にも大いに生かされていることがわかります。
 
世界中の人を魅了し虜にする「ハリウッド流脚本術」をマイケルがどのように
「ビリージーン」に生かしたか、検証してみたいと思います。
 
私はどちらかというと、ヨーロッパ系の映画のほうが好みで
ハリウッドのローラーコースター系、テンポ感重視、ドキドキワクワクの
映画をたくさんみるほうではないのですが、
あれだけ沢山のヒット作を生むハリウッド映画の技術とノウハウの蓄積は
興味深いものだと思います。
 
日本のテレビ番組、映画、アニメなどにも影響を与えている「三幕法」と呼ばれる手法をマイケルが取り入れていることが見受けられますので
見ていきたいと思います。
 
元を辿ればシェークスピアに行きつくというこの手法。
ヴィラメディチでシェークスピアを読み漁ったというビゼーにも結び付きます。
 
「ハリウッド三幕法」と「ビリージーン」
過去記事でも検証したように、愛と欲望、拒絶と迷い、ミステリー、告白
など衝撃的なストーリーと盛りだくさんの心理描写が山盛りの「ビリージーン」。
登場人物も多くて、とても数分程度の曲とは思えないほどドラマチックな
物語です。
 
ともすれば重たくなりがちなストーリーを、すっきりと整理し
しかも聞き手の心をがっちりつかんで離さない魅力は何なのか。
「ビリージーン」の詞を訳してみようと真剣に読み始めたころ
いろいろ考えたことがあります。
 
伝統的で、古風とも思われる神話的な物語原型を発見した時は衝撃的でした。
そこを掘り下げれば掘り下げるほど、「芸術」を追究するマイケルの
強い野心と情熱が感じられたからです。
 
ただ、マイケルはクラシカルな方向性に傾きすぎてはいませんでした。
「芸術」を追い求めるあまり、現代の若者の心や嗜好を無視して
自分の趣味だけに走ることはなかったのです。
 
「伝統」と「現代性」の融合。
これができたら、本当に「理想的」なのですが、なかなか難しいことであると思います。
でも、マイケルはやり遂げました。それを可能にしたのが、マイケルが学んだ「ハリウッド流脚本術」。その中でも特に「三幕法」を使ってより魅力的なストーリーを仕立てている。
 
このような仮説をもうかれこれ二年ほど前に立てていたのですが、
どうしても検証できず、ペンディングにしておりました。
 
物語の構成としてだれでもがまず思い浮かべるのは「起承転結」の4部構成ですが
ハリウッドで完成された「三幕法」という脚本構成法があります。
物語で一番わくわくして美味しい「転」の部分を四部構成よりも長く
そして開始から早いタイミングに持ってくることでより、観客を飽きさせず
物語に引き込む手法です。
 
三幕法
 
これにビリージーンの詞(ストーリー)を当てはめてみました。
 
第一幕  僕とビリージーンの出会い
第二幕  子供の認知をめぐる裁判 恋人に子供の存在がばれる
第三幕  僕とビリージーンの関係の告白
 
と、内容だけ見るときれいに三部に分かれています。
第一幕では、男性ならだれでも振り向く美女ビリージーンの衝撃の登場とダンスシーンでがっちり「つかみはOK」。・・・・・起
 
第二幕では、いきなり裁判、恋人に子供のことがばらされるなど
ジェットコースタードラマなみの急展開。どきどきはらはら感は最高潮です。
また、僕とビリージーンの関係は曖昧なままなので「ミステリー感」も盛り上がり
クライマックスへの期待感が高まります。・・・・・・・・・転
 
第三幕は、ビリージーンと僕が密会していたという衝撃的な告白です。
ストーリーの時間軸からいうと、ここが「承」なのですが、最後に持ってくることで
「結」にまとめあげられます。・・・・・・結(承)
 
「承」の部分が後に回されたことで、一幕から二幕に入ったとき(歌では2ndバース)
誰もが「40日間の裁判」という展開に驚くのです。
普通に起承転結のスタイルにすると、何の面白みもなくなってしまいます。
 
このスピーディーな物語展開と一番おいしい部分「転(第二幕)」が早く訪れ、しかも長いというのが三幕法のキモなのですが、詞をただ分量的なもので計るとこれにはあてはまらないのです。
 
1stバース   一幕
2ndバース   二幕 三幕
 
1stバースと2ndバースは分量的に同じで演奏時間もだいたい同じです。
上の図の時間軸(右方向)はどう考えてもとても重要な目盛(指標)なので
ここで、一旦考証がストップしてしまいました。
 
それから約二年たって、「はたっ」とひらめいたのが「詞の中の時間進行」で考えてみるという案でした。
 
演奏時間ではなく物語の時間軸で考えてみますと、第二幕がぐんと広がるのです。
物理的なものに加えて心理的な面も加えて、マイケルがどのようにうまく
ストーリーを組み立てたか考えてみました。
 
第一幕 ビリージーンと僕の出会い
これはある一夜のダンスパーティーの出来事ですので、時間的には数時間です。
でもすべての発端ですから心理的ボリューム感は大で、「ひと幕」を構成するのには十分です。僕とビリージーンの人物設定や魅力と、妖しげな物語への期待感が
うまく収められています。
 
第二幕 裁判・恋人が子供の存在を知る
演奏時間としては第一幕よりも短いのですが、「物語の中の時間」としてははるかに長いのです。それをはっきりと観衆に示すのが「40 days and 40 nights」という言葉です。なぜ単に40daysにしなかったのかということからもわかりますが
より心理的な負担や長さを感じることができますね。聖書の引用という側面もあるのですが、日本人が多いものを表現するときに八(八百とか八十八)を使うように
漠然と「多い、長い」という心理を示すのでしょう。
 
その後、ビリージーンが恋人に子供の写真を見せるという場面に飛びます。
裁判の判決はともあれ、主人公はますます窮地に。
 
「赤ちゃんの写真」という物理的なモチーフによって、ビリージーンの登場から
少なくとも一年以上たっているという、時間的な経過もうかがうことができます。
 
 
第三幕
ここが一番の盛り上がりで、長さも第一、第二幕に匹敵する長さが必要ですが
演奏時間だけで言うと一番短い部分です。
 
でも帰結部と言いながら、過去のことを振り返るしはっきりとした結論は出していません。僕とビリージーンが実際どうなったのか?この後恋人はどうなるのかなど
観衆はいろいろと思いや考えを巡らせます。
思わせぶりな終わり方をすることで、「心理的な時間」は実際の時間よりはるかに
長くなっています。
 
パフォーマンスではここで「ムーンウォーク」が入って小芝居があるので
物語が続いている感もあり、「第三幕」の長さは文字の分量よりはるかに
長いと考えてよいでしょう。
 
二時間以上の映画・演劇に比べて、圧倒的な時間的制約があるポップス歌曲の枠組みの中で、
いかに効果的なストーリー展開をするかという点において
マイケルは本当に創意工夫と才能を駆使して大成功を納めていると思います。
 
ハリウッドの黄金法則を使うといったん決めたら、徹底してやり遂げる。
 
それがマイケルマジックです。
 
ブリッジをターニングポイントに活用
 
三幕法の弱点は、展開が早すぎて流れが切れるという点です。
それを補うのが上の図のターニングポイントと呼ばれる、それぞれの幕のつなぎ部分。
 
マイケルはこの「ターニングポイント」の役割をブリッジ部分に振っています。
 
People always told me
Be careful what to do
 
の部分です。1st 2ndバースどちらでも出てきて、先に起こるトラブルを
予言的に暗示して、聞く者の興味を引き付けます。
 
「予言」はケルト神話でもカルメンでもとても重要なモチーフ。
この点でもマイケルのこだわりがよくわかります。
 
このコーラスが第一幕と第二幕の最後に挿入されることで、うまくつなぎの役割を果たしています。場所的にもきちんと「三幕法」を押さえています。
 
私もネット上で数点資料を読んだだけですが、
マイケルはやはりなにごとにおいても「セオリー」をきちんと押さえるんだということがわかります。脚本術も極めれば極めるほど奥深いのだと思いますが
こういう「最初の第一歩」を絶対はずさない。
 
基本をとことんつきつめて、ある一時点で爆発的に世界観を広げ
広大な想像力やファンタジー世界を作ってしまう。
 
決して奇をてらう人じゃないです。音楽的に見てもそう。
 
このあたりは、結構誤解されていることが多いと思います。
なんだか全然人とは違う変わったことをしているんじゃないか?
 
そうではないんですよね。あくまでも王道を歩む人です。
ただ他と違うのは突き詰め方が半端ないということじゃないかと思います。
「天才は99パーセントの努力と、1パーセントのひらめきである」
 
という言葉がそのまま 当てはまるんじゃないでしょうか。
 
次の記事は「ビリージーンの中の心理学」についてupする予定です。
それではみなさんよい週末を☆
 
明日はマイケルの旅立った日。
 
あの日以来マイケルは急に持ち上げられほめたたえられ、
そんな急激な変化にとまどいもしたけど、
やっぱり、「本当のマイケル」が沢山の人に理解されるようになったのは
とてもうれしい。
 
マイケルは天使。。。。なんてことを聞くとちょっと、、、、
だったんだけど、
これだけたくさんの人に愛を与え、また愛され
感動を広げられるマイケルだから
 
天使でもいいのかなと思っています。
 
これから先、未来永劫沢山生まれてくる子供たちにも
光を与え続けてくださいね。
 
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