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「ビリージーン」と「カルメン」を聴き比べると、次から次へと共通点が出てきて
「マイケルは相当多くのことをビゼーから学び、取り入れたのだろうな」と
驚きます。
 
最近になって気づいたのが「ハバネラ」のイントロ。
ズンッタラッタ、ズンッタラッタ・・・・
 
この、のりのいいダンス系の音楽の、ポップス的に言ったら「ベースライン」
だけが印象的に繰り返されるイントロは、おそらくクラシック好きでない人でも
「カルメンだ」と言い当てることができるくらいポピュラーですよね。
ベースラインだけでイントロを作るって、ありそうであまりないのかな
と考えたらあるじゃないですか。
「ビリージーン」!
 
ということで、「ハバネラ」と「ビリージーン」の音楽的な比較です。
 
メロディーの比較
有名な「ハバネラ」のメロディー(「恋は野の鳥気まぐれ気ままよ」の部分)は
半音階で徐々に下がる「誘惑的な」美しい旋律。
ビゼーはイタリアオペラや後の音楽家に多大な影響を与えましたが、
この「半音階の誘惑」は「サロメ」の「七つのベールの踊り」、や「ポーギーとベス」の
「It ain't nececcarilly so」などにも美女の誘惑や、悪魔的なそそのかしのモチーフとして使われています。
 
半音階はロマン派以降の音楽で盛んに使われるようになったらしいのですが、
おそらくビゼーは半音階に「意味や象徴」を持たせることに成功した作家の一人だったのだと思います。
 
このメロディーの持つ美しく、妖しく時にインモラルで、人を破滅にさえ引きずり込むような耐えがたい魅力。ビゼーは「音楽を初めて世界共通言語にした」と評されることがあるのですが、このあたりが、その「世界共通言語」の秘密なのでしょう。
この「誘惑の言葉」としてのメロディーとまるで対話するかのように「ビリージーン」のメロディーは作られているように聞くことができます。
 
「ビリージーン」の冒頭のメロディーはハバネラの「下へ下へと引っ張る力」
に抗うかのような、旋律線になっています。
ミミミミミミ レドミ レドミ ミミミミミミ レドミ レドシラ
全体を見ると「ミレドシラ」と下方に引っ張られているのですがドまで下がると、ミにもう一度はね上がって上に反発し、何度も反発した後、結局「ミレドシラ」と下がっていまいます。
 
ファーストバースでは「銀幕の女王のように美しいビリージーン」に主人公は無関心「don't mind」を装いますが、「あなたが私のお相手よ」と言われ、相当「心惹かれている」様子が音からも読み取られます。
歌詞を読んだだけでは判りづらい主人公の心理が、「音楽」を分析すると手に取るようにわかります。
 
宿命の女の誘惑が下へ下へと引っ張る力に、抗いながらも
最後は下に落ちてしまう。
 
曲の冒頭から「僕」はビリージーンの魅力(魔力)の虜になっています。
 
インパクトの強いイントロ
あまりに有名過ぎる「ハバネラ」。その中でもあのイントロは一度聴いたら忘れられないほど強烈、そしてノリが良いです。
 
そして「ビリージーン」。
こちらもインパクトの強いイントロを聞いただけで、マイケル、フェドラ帽、手袋
ムーウォーク。。。。と次から次へとイメージが浮かび上がります。
 
マイケル自身とてもこだわりがあったというこのイントロ。
ここにもビゼーの影響が大です。
 
クィンシー・ジョーンズはデモテープを聞いたとき、長すぎるからカットするように
アドバイスしたのですが、マイケルは譲りませんでした。このイントロの効果を
確信していたからですね。
 
上の動画を見ても分かるのですが、カルメンが登場してから「ハバネラ」の
歌いだしまでのわくわく感って、このオペラのツボですよね。
曲を作る時点ですでにパフォーマンスのことも頭に描いていたであろうマイケル。
イントロの長さもすでに計算済みだったはず。
 
声的な音楽の構成
「カルメン」を聞いてまず思うのは、「とても賑やか」ということです。
「ハバネラ」を聞いても同じことが感じられます。「コーラス」がとても多いし、その使いかたが、他のオペラとは違うのです。
 
「カルメン」以前のオペラのコーラスは合唱隊が整列し、物語に色を添える程度のものが多いのですが、「カルメン」のコーラスはしっかり登場人物として主張し、
動いて演技も行います。
 
「恋は気まぐれ、自由に愛する。」という部分ではコーラスのメロディーは主旋律と同じ動きをして、コーラスの人たちも「カルメンの恋」に共感していますが、
対旋律になって、違う動きをし始め最後には「気をつけろ」という警告を
発します。
 
共感もすれば、ツッコミも入れる。まるで、大勢で「対話」するようなこの「多声感」はビゼーのオペラの大きな特色です。
 
それに対して、「ビリージーン」も、黒人音楽の特色「コールアンドレスポンス」
「ヒー、フー」というシャウト、コーラスで相当にぎやかです。
 
マイケルはいつでも「ヒー」と言ってるようなイメージがありますが、
ビートイットやスリラーではあまり言ってないんですよね。
 
マイケルはこの歌の中に大勢の登場人物を想定していますので、
「対話感」を強調していたのだと考えられます。
 
レコードではマイケルひとりの声で多重録音しているのでわかりにくいですが
ライブだといろいろな人の声が入っているのがよくわかります。
このライブでは、さびに入る前にシェリルクロウが悲鳴のようなメロディーを歌います。
https://www.youtube.com/watch?v=kT_yZXiTSUs
バージョンによっては、「Don't break young girls’ heart」の後に、女性が「Don't break my heart」というアドリブを入れることがあります。。ビリージーンかマイベイビーの声だと思われます。
 
「ヒー、フー」も主人公の心の声、聞き手の友人の驚く声などを表し
歌詞に書き込みきれない心理を表していると考えていいと思います。
「Do think twice」がコーラスで繰り返され強調しているのは明らかに意図的です。
 
「カルメン」の「気をつけろ!」に当たるのが「もう一度考えろ」の歌詞。
この箇所を聞いて、私は「カルメン」との関連にピーンと来ました。
「物語力」の記事でも書いたのですが、とにかくたくさんの登場人物がいて
それぞれが主張して物語を作りあがている曲なので、
 
音楽でも最大限にその「対話性」が強調されています。
マイケルって「ヒー」や「ポオッウ」っていつも言っているんじゃないかと思うほど
彼の特色と言ってもいい、この「対話性」。
確かに他に類を見ないですよね。特に一人でやってますし。
 
時代を象徴するような曲作り
「ビリージーン」の曲作りに関しては、ホールアンドオーツ I Can't Go For Thatのベースラインカラインスピレーションを得たことをマイケル自身が語っています.。ホールアンドオーツはブルーアイドソウルで最も成功したバンドのひとつ。メンバーのジョン・オーツはイギリス、スペイン、モロッコの血を引くハイブリッド。ユニバーサルな魅力があり日本のベストヒットUSAでは最多出場を誇っています。
 
ビリージーンのベースラインに明るいメジャーコードのメロディーを乗せたのが
マドンナの「ライクアヴァージン」。
 
ホールアンドオーツの「マンイーター」のイントロはスティービー・ワンダーの
「パートタイムラバー」にも似ています。
 
これらの音楽は80年代を象徴しているといってもよいほど、インパクトがあり
全世界で人気がありました。世界地図から国境が消えるといわれたほどグローバル化し始めたこの時代の香りと感覚が刻まれています。
 
一方ハバネラという音楽はフランスのダンス音楽がキューバにわたり、そこでスペインとアフリカのリズムを取り入れられました。その後ヨーロッパに逆輸入されて大人気に。
ビゼーは民謡だと思って、「El Allegrito」という流行歌を引用して「ハバネラ」を作りました。フランス、スペイン、アフリカの要素が取り入れられた国際性と時代性が作者の意図だったのではないかと思います。
 
修辞的引用
このように「ハバネラ」も「ビリージーン」も作曲された時代に最先端だった音楽のスタイルを取り入れて成功しているのですが、生かされているのはそのスタイルだけではありません。
 
それぞれの楽曲のメッセージもしっかり取り込んでいます。
 
前記事に書いたように「El Alegrito」はビゼーの愛人、セレスト・モガドールの持ち歌。貧困から這い上がり、自立して自由な女性の走りだったセレストの人間像はそのままカルメンの人物造形に取り入れられています。
 
「Ⅰ Can't Go For That」の歌詞はやはりビリージーンのストーリーに重なるものがあります。
You've got the body
Now you want my soul
Don't even think about it
Say, no go
体を与えたら
次は魂を望むのか
そんなこと考えてみもしない
もう終わりだ
 
体の関係はあっても心は結ばれないという恋愛関係。
ビリージーンと僕の関係を暗示するようです。
 
歌とダンスの融合
マイケルを聞いたり見たりしていると「あたりまえ」に思える歌とダンスを融合するということですが、なかなか簡単なことではないと思います。
 
でも、ビゼーもこの点ではマイケルの先駆者です。
 
この歌、懐かしい〜〜っと思う方多くないですか?
「みんなの歌」のヒット曲「小さな木の実」。私が子供のころから歌い継がれているロングヒットです。ビゼーの「美しきパースの娘」のアリアをアレンジした曲です。
 
切ないメロディーのパパを亡くした小さな男の子の美しく悲しい曲ですが、
ベースにはスペイン風の情熱的なリズムーが流れています。
 
昔は優しくて流れるようなメロディーばかり聞いていたのですが、
小さな掌に木の実を握りしめ、これからグングン成長して強くなっていく
男の子の生命力も一緒に感じとれる曲なんだなあと今になって気が付きます。
 
「ハバネラ」にも言えることですが、ビゼーはフランスのシャンソンと
スペインの舞曲を華麗に組み合わせることに挑みました。
 
フランス語の持つ独特の流麗さと、イスラムやアフリカの影響を強く受けた
スペイン風舞曲を矛盾することなく一つのものにする。
 
異文化の融合であり、人種の融合でもありますね。
 
マイケルが創作の中で目指していたものとぴったり合っていたのでしょう。
 
「カルメン」にはバレーが組み込まれていますし、現代の演出では歌い手も踊りますが、伝統的なオペラでは歌手は踊りません。キリスト教社会では「踊る」ということに私たちが想像もできないような抵抗感があるようです。
 
ビゼーにはそういった「固定観念」を打ち破る、パイオニア的感覚があったのでしょう。これもマイケルに通じます。
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こうやって見ますと、完璧主義のマイケルらしく徹底した原典の踏襲ぶりなのですが、
そこに前記事で描いた「子供」という変数をバーンと入れ込むことができてしまうのが
マイケルの「天才」の証だと思います。
ところで「カルメン」といえば、日本でも大ヒット曲があります。
 
この曲のイントロのホーンがきっちり「半音階」なんですよね。
日本の歌謡曲もたいしたもんです。
マイケルはクラッシック音楽が好きで
自分の作った作品も末永く残るクラッシックにしたいと願っていたので、
私のブログも「クラシック音楽の分析」的なアプローチで記事を書いています。
 
クラシック音楽の分析(解釈)がポップスのそれと違うのは
 
「あくまでも作曲者の意図に添う」という点です。
 
ポップスは聞き手やカバーする演奏者の好きなようにいろいろ付け加えたり
想像力を膨らませて解釈したり演奏(カバー)してよいのですが
クラシックでは「作曲者の意図は絶対」
 
「作曲者の意図」に一歩でも近づけるように譜面を読み分析をします。
 
とても難しいことだし、私みたいなアマチュアだと知識も経験も圧倒的に足りないのですが、苦労して「少しでもそこに近づく」過程には、楽しく自由に聞くときとはまた違った喜びがあります。
 
特に好きな作曲家、私だったら「ショパン」や「ガーシュイン」の譜面を見る
と本当に感動します。好き嫌いを超えて、「バッハ」「モーツアルト」「ベートーベン」
の譜面をちょっとした「読み方」を教えてもらって眺めてみると、聞いているだけではわからない大発見があったり。。。。
 
「自分の好み、自分のものの見方」を一切捨てて、ただ音という神様の作った創造物に一体化するような喜びを感じ、また作曲者たちの心の響きを知ることは
本当に神秘的な体験です。
 
マイケルの楽曲ともこんな感じで向かい合えたらよいなと思いながら
記事を書いています。
 
「僕の言いたいことは全部作品に込めています。」というマイケルの言葉も
ありますものね。
 
さて、
そこでタイトルの「ビリージーン」の本当の主役です。
 
前記事で、「ビリジン」パフォーマンスを見ていると、歌詞ではわからない
もう一人の登場人物がいるのがわかることを書きました。
 
その人物がマイケルの視点を代弁して、「僕」と議論している様子がパントマイムからわかるのですが、この議論の争点がこの曲の主役だと思うのです。
 
マイケルのあらゆる作品の要、彼のインスピレーションの泉。。。。
それは
「子供」です。
 
このストーリーはどうしてもビリージーンと僕の恋愛が前に出てきますが、
本当にマイケルが焦点を当てたいのは、「子供はどうなってしまうのか」
ということだと思います。
 
行きずりの関係、しかも女の子のほうから誘われたので子供のことは関係ないよ!
と言う男性に対するマイケルの心情はどんなものか。
 
と考えると、たとえ女性のほうがマイケルを困らせる「グルーピー」的な女性であっても、「子供は別物」とマイケルは考えると思います。
 
「君たちの恋愛のせいで生まれた、可愛そうな私生児のことはどうするんだよ!」
というのがマイケルの視点でしょう。
 
あんなにかっこいい楽曲とダンスからは程遠い、想像もつかないような
「社会的な問題」がビリージーンには盛り込まれているのです。
 
マイケルにとって、子供は神様の光のような存在。
 
「子供」がこの「ビリージーンの本当の主役」だという仮説を
クラシック音楽的分析で検証してみます。
 
シンプルですが、一番ベーシックでエッセンシャルなところで確認ができます。
メロディーの一番盛り上がるところ、つまり一番「音程の高い音」
「Child」に当たるのです。
 
「その子は僕の子供じゃない」と切り捨てられる、幼い命。
 
ここに僕の心があるんだ、とマイケルは音の面からも訴えているのです。
 
物語のスタイルは、あくまでも「リアリティ」を重視してロマンティックさのかけらもありません。したたかな女、優柔不断な男。幼い子供は彼らの刹那の恋の犠牲者。
「若者の恋愛と私生児」という社会的メッセージを訴える作品として完成させるには、余分な情を言葉に挟み込むことはできません。
 
でも、踊りでその見過ごされがちな言葉を持たない犠牲者の代弁をする
マイケルの心がせつないです。
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こんな小さな赤ちゃんとも仲良しです。
 まるで魂の交流がそこにあるようです。
 

マイケルの役者魂!

 
 
演技者としてのマイケルジャクソンは、
顔の角度、肩のラインの見せ方、視線、手の表情
これらの微妙な要素だけでも、「舞台役者」の演技の凄味を見せてくれます。
 
ハリウッド黄金期の名優マーロン・ブランドたちから直接学んだマイコー。
ブランドは舞台役者として経験を積んだ人です。当時の演技は、舞台の音響も照明も技術の超進んだ現代とは違って、役者の身体性こそが演技のかなめでした。
 
現代のステージや、テレビ、映画等で同じ演技をしたら
かなり「陳腐」に見えると思いますが、
マイケルはこの伝統的な「身体性を生かした演技」をダンスに取り込んでいたと思います。
 
特にここでは「手の仕草(所作)」が見どころです。
指さす先には必ず「誰か」がいます。意味もなく指はささないのです。
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前記事で触れた「ムーンウォーク」に入るま前の動作です。
 
これが「ビリージーン」では一人二役をしているということに気づいたポイントです。
指先も視線も、客席ではなく舞台上の誰かに向けられています。
 
この二つの要素だけで、マイケルはセリフなしで
「肉体と精神を持ったもう一人の登場人物」を造型し、表現できるのです。
 
この動作の後、マイケルは舞台上手のほうに振り返り指をさす動作をします。
この時はマイケルはもう一人の人物になって、最初の人物を指さします。
表情から見ても「口論」を表現していると見られます。
 
歌詞の中では発言しない「主人公の告白を聞く人物」が、
ダンス(演技)では表に現れ、主張をしているのです。
(歌詞が誰かに告白する形態になっているということは、過去記事をご覧ください。)
 
あの「ッポオゥ〜」がセリフと言えばセリフなのかもしれません。
コールアンドレスポンスの性質からいえば、「シャウト」でだけでも、言語メッセージです。
 
ブラッドオンザダンスフロア」では、このスタイルが踏襲されますが、もう少しわかりやすく表現されています。
二人の人物にそれぞれ歌詞が割り振られ、「対話(口論)」しているのです。
 
音楽的に見ても、メロディーの音域や歌い方を意識的に変えて違う「ペルソナ(人格)」
が作り出されています。
 
オペラでは「音域」と「声質」は人物造形の基本で、ソプラノだけでも種類が10種類近くあるそうです。
(文献によってはもっと多い数が挙げられています)。ビートボクシングでおなじみですが
マイケルは声色や音の作り方を自由自在に使い分けられますので、一曲の中で違う人格を一人で
自在に表現できます。このことは過去記事でも検証していますのでご覧くださいね。
 
演技としてはこちらでも手の仕草がわかりやすいと思います。
歌い出し(人物A)が真正面を向いて、指を指します。
こちらはSFなので、観客方向になってしまいますが舞台と違って直接私たちはその位置にはいません。
そして途中から高い音域で歌いだす人物Bの動作がこれです。
イメージ 2
 
「おいおい、勘弁してくれよ」
という典型的なマイムです。
 
A「お前の愛人がつけねらってるぜ」
B「愛人なものか、一夜のお遊びだったんだ。そこまでされる覚えはないねっ。」
 
AはBを指さしていたのです。
 
舞台でも特にミュージカルや宝塚をよく見る方は、なじみがあるかもしれません。
マイケルの演技は、ナチュラルで演技をしているのが地なのかわからないぐらいですが、
こういうところに時々「ベタ」な演技を入れてるのです。
こういうのを入れているから「メッセージがわかりやすい」のですが
やりすぎにならない程度のさじ加減はあるのでしょうね。
 
「一人複数役」というのは演技の中でも高度な技術ですが、マイケルは果敢に取り組みますね。
「Ghost」では扮装やメイクも凝りに凝って、敵役「町長」を演じています。
・・・・・・・・・・・・・・・・
マイケルのSFはどれもこれも映像が素晴らしくて、いつも呆然と口を開けたまま見てしまって
「はて、どういうストーリーだったのか」
というのを考えずに終わっちゃうのですよ。。。。
 
そんな私ですが
マイケルはがっちり演技の勉強をしていたということを没後に知って、
そういう観点で見たら
少し「意味が分かる」ところが出てきました。
 
マイケルの楽曲の中には歌とSFの内容が必ずしも一致しない(させていない)ものもあるのですが、
「ビリジン」「ブラダン」「ゴースト」などは「オペラ」のごとく映像、音楽、歌詞、演技が見事に調和、統合され
一つの作品を創り上げています。
その中で今回の記事は「演技」を取り上げましたが、
 
「視線」ひとつでも何かを表現できるマイコー。
もちろん幼少のころからステージを数多く踏んできた、本人の経験も大きいと思います。
大きな舞台で、沢山の観客を相手にするとき何が重要なのか知りつくしていたんでしょうね。
 
歌舞伎の役者さんでも、「視線」って大事だといいますものね。
特に「ビリージーン」のパフォーマンスは「SF」では披露されない「舞台専用」のものですので
「舞台演技」の見方で解釈するのは意義があると思います。
 
この「お芝居的な」ダンスの流れがあって披露される「ムーンウォーク」にも何か意味があって当然と思うのですが、流れを重視すれば「立場の違う者の身になって考える、相手を理解しようとする」
というメッセージを引き出すことは可能だと思います。
 
自分とはかけはなれた、全然価値観の違う人間の考えを理解しようとすること。
これも「愛」なのかなと。

Smile

 
 
こんな時こそ、スマイルを。
 
 
イメージ 1

Walk Two Moons

Moonwalkってどうしてこんなに見る者の心をひきつけるのでしょう。
 
何度見ても見飽きることなく、水面を滑るように後ろに歩くマイケルに
心が吸い寄せられてしまう。
 
ただ何も考えず、美しさや卓越した技術を愛でていればよいのでしょうが、
それでも
「ビリージーン」のあの箇所で「なぜマイケルはムーンウォーク」をするのか
考えてみたいと思います。
 
「考えるな、感じろ!」
とよく言いますけど、考えるのも感じるのも同じなんです。
 
 
「ビリージーン」は二人の人間が対話している物語です。
恋愛で大失敗して?小ズルい女の子に騙されて子供の認知を迫られた
男の子と、その男の子の打ち明け話を聞く友人の対話です。
 
友人は歌詞の中では一言もしゃべりません。
 
でも、この友人が「マイケルの視点」で、マイケルの価値観を代弁する役柄です。
 
「自分の子供じゃないって言ったって、騙されたって言ったって
君だってビリージーンとつきあったんだろ?自分は悪くないわけ?
自分の恋人にも悪いと思わないの?
それよりなにより、何も罪のない子供はどうなんのさ!!!!」
 
歌詞には書いていないマイケルの主張は
マイムで表現されます。
ムーンウォークに入る前、ギターリフの間奏の部分からです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
テレッテッテテテー(ギター)     ぽお〜うっ
コール                    レスポンス
友人:「お前無責任だな!」     「知るか!」
 
テレッテッテテテー(ギタ〜)     あ〜うっ
友人:「彼女もかわいそうだよ」   「僕は騙されたんだ!」
 
テレッテテテテ  テレッテテテ
友人:「そりゃ、ビリージーンは悪い女だよ。でもさ。。。」
 
ムーンウソーク
友人:「赤ちゃんのこと考えてみなよ。君がその赤ちゃんの立場だったらどうするんだよ」
 
という流れですね。
「コールアンドレスポンス」がしっかり対話になってるのは、その時の踊りでもわかります。
 
その都度立ち位置を変えて、中心に向かって右向きと左向きになって
相手を指さし、議論しているパントマイム。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「Walk two moons in someone's moccaisins」
マイケルがマスコミの過剰な嘘を含む記事に対して、自粛を求めたときに
使ったことわざです。誰かの批判をするなら、まずその誰かの立場になって考えてから(しかもかなりの長期間)批判しろ。
 
ということですね。
 
moon  walk
 
二人の対立した立場の人間がいる。その二人が真正面を向いて対峙したら
 
一方の人の前は、他方の後ろ
一方の左は、他方の右
一方の善は、他方の悪
 
相手の靴、つまり自分の靴とは真逆の方向に向いている靴を履いたら
前に進んでいるつもりが、後ろに進んでいく。
 
書きたてる側のマスコミと書かれる側のエンタティナー。
父親がわからない赤ちゃんと、絶対かかわりたくない父親かもしれない男。
自分と価値観の違う友人からのアドバイス。
男と女。
異人種。
 
相手の靴を履いて2か月間というのは、考え方だけではなくてもっと身体的なものも含めて「自分の理解を超えた、理解したくもない相手」になりきることなんじゃないかと「ビリージーン」のパフォーマンスを観ていて思うのです。
 
マイケルの「思いやり」とはそこまで深いものだったのではないかと。
 
もちろん「ムーンウォーク」の動作自体は他の曲でも使われますから
その時は別の意味合いを持つのでしょう。
 
今行われている裁判も、私たち一般人からしたらはるかに「理解を超えた」
事柄や、ものの考え方や、人物が次々登場すると思います。
 
 
とても共感できないことに無理に共感する必要はないのですが、
それでも「どうしてこの人はこんなことを言うのだろう」と思ったら
「Walk two moons」と唱えることにしています。
 
できたらマイケルの声色で(笑)
 
確かに、裁判に参加したした人たちの中の、幾ばくかの人は
マイケルの死に対して責任があるのです。(殺したという意味ではありませんよ。そしてその責任が法的に認められるかどうかはわかりません。)
 
 
でも、「全員がみなおかしい、怪しい」みたいに感じだして
「マイケルは周りのみんなに押しつぶされた。悔しい悲しい!」
なんて考える余分な苦しみを背負う必要もないのです。
 
マイケルはファンが苦しむのを望んでますか?
そんなことないですよね。
 
・・・・・・・・・・・
記事休止しますと書いてからまた登場してしまいました。
でも、本当にこれでしばらく休みますし、裁判のことにも触れませんので
よろしくお願いいたします。

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