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令和元年7月14日
薀蓄ちくちく(52)
〜おばちゃんの記憶〜
ちょっとしんみりした話になる。
この季節に近所にはビワの実がなる。
しかしながらそれを採って食べる子どもたちの姿はない。
実りきったビワはいずれ地面に落ちてゴミになる。
物悲しい光景なのだ。
実はこの光景を見るたびに私の脳裏には幼い日のことが蘇るのだ。
そう・・・おばちゃんの記憶である・・・。
我が家は魚屋であった。
従って一家総出で近くの市場に店を開いていた。
父が仕入れ、売り子は母と祖母、焼き魚などは祖父の担当であった。
当然のこととして幼かった私と弟(二番目・・・三番目はまだこの世に存在しなかったw)は、家でお留守番である。
母は近所のMさんという自分より少し年かさの女性に私達のことを頼んだのである。
このMさんが「おばちゃん」である。
おばちゃんは私を特に可愛がってくれた。
二番目の弟は手がかからなかったらしく、あんまり可愛がってはいなかったように記憶する。
私が今でも猫舌なのは、おばちゃんが熱いものは食べさせなかったからである。
どちらかといえば内向的でおとなしく泣き虫だったのもそれが原因だったのかもしれない。
まさしく私は乳母日傘で育てられた「ぼんぼん」だったのである。
おばちゃんには子供がいなかった。
それもあって私は実の子供以上におばちゃんに愛情を注がれて育ったのである。
今の私の性格の大きなものはこの頃に作られたものかもしれない。
甘えん坊で優柔不断でおとなしく頼まれるとイヤと言えない性格・・・。
ま・・・自分では嫌いではないけどね・・・(笑)。
おばちゃんはお金持ちだったんだろう。
私の母が手渡すほんのわずかのお礼は私へのおもちゃに化けた。
小学生のころにカメラやトランシーバーを持っていたのである。
カメラはプラで出来たおもちゃのようなものだったが、ちゃんとモノクロ写真が撮れた。
トランシーバーなんかは論外の贅沢品だったのである。
なぜならばこの頃は昭和30年台・・・「三丁目の夕日」の時代だったのである。
おばちゃんの実家は京都の八瀬にあった。
八瀬のおじいちゃんは私が行くとニワトリを潰してすき焼きをごちそうしてくれた。
当時としてはとんでもないごちそうである。
八瀬のおじいちゃんは夏になるとカブトムシやクワガタをリンゴ箱一杯に採って来てくれた。
リンゴ箱といっても昔の大きな木箱である。
それに網を貼って向こうが見えないくなるくらいカブトムシやクワガタが入っていた。
懐かしい・・・・。
おばちゃんの実家にいくと土間には大きな黒い牛がいた。
一緒に暮らしていたのがなんとも懐かしいのだ。
でね・・・なんでビワでおばちゃんを思い出したのかというと・・・。
おばちゃんの家(我が家の近くにあった)の庭には柿の木があって、この柿の木に出来る柿の実は私のものだったのである。
庭にあった木なので近所の子供たちは手を出せない。
私の独占物だったんである。
隔年ごとに生り年があって出来る年にはリンゴ箱に2〜3杯も採れたのである。
数年前に久しぶりに生まれたところに行った。
おばちゃんの家には青いビニールシートがかかっていた。
覗き込むと更地になっていた。
柿の木のあったところには大きな穴が開いていた・・・・。
おばちゃんは2〜3年前に亡くなったそうである。
枕元には私と弟の写真があったと聞いた。
「会社でえらくならはったんやて・・・」
「大きな船に乗ってはるんやて・・・」
おばちゃんは亡くなる直前まで私と弟の思い出を語ったそうである・・・。
私は来年65歳になる。
社会的にも高齢者の仲間入りだ。
おばちゃん・・・もうちょっとしたら俺も行くからね。
待っててね・・・。
この項続く・・・
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ビワの実の話は、次回?

しかも、人生は後、35年もある・・・・・・・・(笑)
そんなにはやく、おばちゃんに会えるとは思えないし〜
2019/7/14(日) 午後 6:55 [ ちぃさん日記 ]