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日本の仏教の分岐ポイント


仏教伝来
   一番最初は外国で拝まれている神様として受け入れた。
   しかし、疫病などが発生したため、日本の神様が怒っているということで排斥した。

鑑真和尚
   日本ではそれまで私度僧と言って、自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、
   授戒の重要性が長らく認識されていなかった。
   奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、
授戒の制度を整備する必要性が高まっていった。
   
   日本では受戒を授ける僧侶がいなかったので、
   日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された
   鑑真和尚が日本にやってきた。
   戒律を授けるには受戒して戒律を受持している正式な僧侶が10人必要なのである。
   これが国際的な仏教のスタンダードなのである。
   (多分、今でも。タイなど小乗仏教国はそうらしい。)

   昔スリランカでヒンズー教かイスラム教かの攻撃に会い
   正式な僧侶が居なくなって受戒できなくなったことがあった。
   その時、スリランカが昔に小乗仏教を伝えたビルマからわざわざざ正式な僧侶を呼び寄せて
   人数を満たして受戒したそうだ。後の日本とはえらい違いだ。

   具足戒を授けるには三師七証と言う、
   授戒を行う3人の師と、その場に立ち会い、
   戒を受けることを希望する人の受戒を証明する7人の証人が必要となる。
   三師は、戒を受けたいと希望する人の欠格事項の有無を確認する教授師、
   受戒を認めて良いかの合議の進行をする羯磨師(こんまし)、
   戒を授け伝える伝戒和上(戒和上)の3人です。
   戒和上が具足戒を授ける戒師の最高責任者です。
   この10人とも正式な受戒者でありその時、
   戒を受持している人でならなければならないのは言うまでもありません。

   具足会を授けられるのは奈良の東大寺、東国の下野薬師寺、
   西国の大宰府の筑紫観世音寺の3つのお寺のみ。

   753年に鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行った。
   754年4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。
   併せて、常設の東大寺戒壇院が建立された。
   その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、
   大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

最澄の大乗戒壇設立

   それまでの具足戒(250戒)から梵網経に説かれる大乗戒(十重四十八軽戒)へ。
    比叡山で大乗菩薩戒の受戒が認可された。
    ちなみにこの『梵網経』は中国で作られた偽経だそうです。

   これは日本のみの現象。戒律を維持している僧が無くなるきっかけとなる。

   南都や延暦寺と対立する形で成立した鎌倉新仏教も
   独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていった
   その一方で、東大寺や延暦寺の戒壇も由緒あるものとして尊重され、
   江戸時代の終わりまで授戒が行われていた。

   自誓受戒とは大乗仏教の菩薩戒を受けたいにもかかわらず、周囲に戒師がいないとき、
   仏菩薩の形像の前で、自ら誓い、菩薩戒を受けることをいう。
   『梵網経』『瓔珞経』などで、その作法が説かれる。しかし梵網経は中国で作られた偽経です。
   とすれば、梵網経で説かれた大乗戒や自誓受戒は根拠のないことになり、
   正統的な仏教から外れることになる。

   『梵網経』下巻に説く十重四十八軽戒を
   釈迦を菩薩戒の戒和上、文殊菩薩を羯磨師、
   弥勒菩薩を教授師、十方の仏を証師、十方の菩薩を同学等侶として授ける
   大乗方式の受戒を最澄は主張した。
   釈迦以下の戒師は目に見えないので不現前五師といい、
   具体的には延暦寺座主が伝戒師となって受戒は行なわれた。

   -----他の外国では僧は戒律を維持している。
     現在においてもタイやスリランカの南方仏教では戒律が厳格に遵守されている
     当時は、中国の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、
     延暦寺で受戒した僧は、中国では僧侶として認められなかった。
     それゆえ、中世の日本の僧侶が中国に留学したときは、
     延暦寺で受戒したことが正式の僧侶であると認められなかったので、
     東大寺など正式の具足戒で受戒したとの証明書(戒牒)を偽造して持っていたそうです。

     延暦寺に観光に行って、大乗戒壇の建物を見ていたとき、
     お坊さんが他の観光客に向かって、
     「これは叡山独自の戒なんです」とか自慢そうに話していました。
     ところが。
     仏教の国際スタンダードから日本は外れてしまったんです。


親鸞の肉食妻帯
   肉食妻帯が許される、無戒。
   僧として初めて公式に妻帯し子を設けた。
   寺院の相続は家系相続を前提としている。(真宗のみ)

   -----他の国では僧は妻帯しない。そもそも破戒である。

徳川幕府の寺請制度
   寺請制度の確立によって民衆は、
   いずれかの寺院を菩提寺と定めその檀家となる事を義務付けられた。
   寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、
   旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。
   各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、
   寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。

明治維新と神仏分離令、廃仏毀釈
   明治まで、妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった
   江戸時代までは寺院法度によって禁止されていた僧侶の肉食・妻帯を
 明治政府は「肉食妻帯勝手なるべし」と号令し、
   戒律を犯させることで僧侶を破戒させようとした。
   これは明治政府が神道を重んじて国教化し仏教を貶めようとする
   廃仏毀釈の流れから来たものであった。
   それまで優勢であった仏教を弱らせるための明治政府の悪意に満ちた号令であった。
   幕末は平田篤胤の復古神道の影響が大きく尊皇攘夷運動もその影響からきている。
   復古神道は明治政府の政治理念の中心になった。

   真宗以外の派では明治時代まで、“寺院法度”により原則的には肉食妻帯の禁制を守った。
   明治政府が仏教放置政策を打ち出し、その「勝手たるべし」という語句を逆手にとって、
   なし崩し的に肉食妻帯することを事実上容認するようになった。

   近代の政府は、神仏判然令以降、
   太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、
   統一的な法典としては1939年(昭和14年)の宗教団体法が最初であった。
   国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで
   公法上の営造物法人として扱われたが、
   仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。

第二次大戦後
   第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)12月28日に宗教法人令が制定・施行され、
   宗教団体への規制が撤廃された。
   1951年に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した宗教法人法が制定された。


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