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少し前NHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」で
「boys, be ambitious」で有名なクラーク博士が取り上げられた。
クラーク博士は新設された札幌農学校へ赴任したが、
学生達が荒れたものが多く困っていたそうだ。
それで、トラブルをなくすために色々な規則を設けた。
しかし、それではその規則を守りさえすれば他のことは何をしても良いということで
また別の件でトラブルが起きて困ったそうだ。
それで、業を煮やしたクラーク博士はそうした規則を廃して別の一つの規則を設けた。
それは「be gentleman.」、紳士的であれということだ。
何事に対しても紳士的であれ、そういうことを唯一の規則とすることによって
荒くれもの達のトラブルがなくなっていったという。
このことは大変興味深いことである。
規則を作ってそれを守れというと、
その規則は守るが規則が制定されていないことについては
何をしても良いというように捉えてしまう。
これは規則を作っていくとそういうことになる。
しかし、「be gentleman」というと、あらゆること未定のことについても
この規則によって紳士的かどうかが問われることになる。
この規則は大変に適応範囲が広い。
このことについて思うことがある。
日本の神道は戒律がないことは良く知られている。
しかし、神道でよく言われる教えがある。
それは「神々を崇敬せよ、清くあれ、正直であれ、率直であれ」ということだ。
「清く、正しく、美しく」。
このことは規則としては大変少なく短いがこのことの活動範囲は大変多い。
「be gentleman」というのがあらゆることについて、
自分は紳士的かどうかを問われるように、
あらゆることについて、正しいか、清いか、美しいか、率直かというのが問われるのだ。
個々の規則であればそのここの場面での行いを問われるが
こうした抽象的な規則は大変適応範囲が多く過少評価すべきではない。
そしてこのことが日本人が細かい規定にはこだわらないが
物事に融通無碍に対応しうる要因となっている。
そして結果としてあらゆる物事に対して、また精神性として国民一般に、
正しさ、清さ、正直さ、率直さ、美しさを保持している原因となっているのである。
日本の神道が戒律としては少ないが対応範囲が大変広いということは
ミルチャ・エリアーデの『世界宗教史Ⅳ』の中に収められている論文
「神道と民族宗教-日本の宗教の歴史的展開」(ネリー・ナウマン)
の結論部で少し触れられていた。
今述べたのと同様のことが書かれていた。
日本の神道はこのように戒律がないものであるが
本来の仏教は煩瑣な戒律があるものであった。
それが日本の神道のように抽象的になり戒律が無きがごとくになった。
これをどうとらえるのか。
まあ、最澄の大乗戒壇の設立にされ、京都に近い延暦寺が優位となり
大乗戒壇で受戒するものが多くなり、
天台本学思想の影響で元から悟っているという考えが出てきた。
法治主義と徳治主義というのがある。
規則を制定して治めようとすれば、
その規則以外は何をしても良いということになり抜け道をさがす。
これに対しては、孔子のように礼、つまり精神性のある文化、習慣によって、
治めていこうとしなければいけないということだ。
韓非子など法家の法治主義に対し儒教の徳治主義ということ。 参照
『論語』為政編2-1
子曰く、政を為すに徳を以てすれば、
譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共るが如し。 『論語』為政編2-3
子曰く、之を導くに政を以てし、これを斉うに刑を以てすれば、民免れて恥なし。
之を導くに徳を以ってし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格し。
「規則や法律を整備して、違反したらビシバシ罰する。
そうすると、法にふれなければ何をしてもいいと思うようになる。
だが、道徳や礼儀を教え、内面から自らの行動を律するようにしていけば、
誰もが不正を恥じ、正しい行動をとるようになる。」
『イチから知りたい!論語の本』(佐久 協監修 西東社)
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2013年12月08日
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