心理学・哲学・神秘学

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

スピリチュアリズムの初期の霊媒たちは転生輪廻を否定していて

生まれ変わりなどないと主張していた。

これに対して珍しく再生を唱えたのがフランス人アラン・カルデックの『霊の書』である。

神智学のブラヴァッキーも初期の『ヴェールを脱いだイシス』では

転生輪廻を否定していた。


1882年にイギリスで心霊科学協会が創設された。

活動の中心となったのはケンブリッジ大学倫理学教授ヘンリー・シジウィックと

二人の弟子フレデリック・マイヤーズとエドモンド・ガーニーである。

マイヤーズは1843年に聖職者の子として産まれ、1901年に亡くなった。

1903年にリチャード・ホジソンとアリス・ジョンソンの編集によって

『人格とその死後存在』という大著が出版される。

この本は数十年におよぶマイヤーズの心霊主義にかんする

論考の集大成というだけでなく、

1848年のハイズヴィル事件以後の心霊現象を統一的に俯瞰する内容となっている。



『近代スピリチュアリズムの歴史』 P124

引用開始

 一方マイヤーズは1901年に病死したが、死後もう一冊の本を出している。

『人間個性とその死後の存続』という題で、

仕事仲間でSPR会員のリチヤード・ホジソン等により出版された。

SPRそのものの仕事ではないが、

彼は死の一年ほど前にSPRの会長に就任していて会を代表する人物であったから、

SPRの業績に数えてもいいと思われる。

 この本は出版当時から評判が高く、大学の心理学の教科書にも使われた。

マイヤーズは人間の意識を顕在意識と潜在意識とに分けて考察した

最初の人間の一人である。

顕在と潜在という用語を使い始めたのも彼だった。

とくに潜在意識については独特の「潜在自己」論を展開し、

人間意識の暗黒部に潜む多様な可能性こそが人格の主要な部分を形成するものであり、

われわれが日常的に考える統一的、連続的な人格などは存在しないと考えた。
 
自分が参加した数多くの催眠の実験や降霊会などの実際の体験から

このような理論を引き出したのは注目に値する。

われわれが異常または超常と考える現象、

たとえば夢遊病や多重人格、悪霊の憑依など精神病の範囲に入るものや、

死者についての幻覚、幻聴、透視、未来予知など、

超能力に関するものなどをひっくるめて、潜在意識に潜む普通の現象と見なした。

人格はこういう「複数潜在意識」による重層的で変化し易いものだというのである。

つまり、一人の人間の中には何人もの人間が住んでいるとも言え、

霊媒たちが声や仕草を通して見せるあの世の住人も、

その霊媒の人格の一部であると同時に、

われわれが日常の意識で認める霊媒その人の人格とは別なものであっても

おかしくはないのである。

つまり、マイヤーズの説は心理学の言葉を巧みに使いながら、

死者の意識が生者の意識と混在する可能性を排除してはいないのだ。

この「複数潜在意識」説は、今日の心理学の人格の相対性や

意識の多重性に先駆ける独創的な考えであった。

引用終了



この書はマイヤーズの死後に発表されたが、生前、

心霊科学教会の機関紙「会報」に毎回のようにマイヤーズは論文を掲載していた。

心理学者のユングは最初の論文の『心霊現象の心理と病理』で

マイヤーズの論文を引用している。

ユングは降霊会を催して霊媒と接していたから会報に載っている

マイヤーズの論文を読んでいたと思われる。

ところでこのマイヤーズであるが、

死後、ジェラルディン・カミンズという有名な自動書記霊媒により

通信を行い『永遠の道』『個人的存在の彼方』という書籍が出版される。

この2冊によりマイヤーズは類魂説というのを唱える。

これは霊界で1個の高級霊が複数の霊を一つにまとめるというものだ。

1個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的栄養を統括霊からもらう。

この霊団に含まれる霊の数は20くらいの場合もあれば、

100くらいのときもあり、1000くらいのときもある。


そしてこの霊団の霊が順次地上に誕生して魂修行を行う。

地上に降りて魂修行をした霊が学習した成果は霊団の霊全部に共有され、

同じカルマを背負うことになる。

というものだ。


幸福の科学では本体・分身の理論があり。

本体の霊を元に霊界でパイトロンなる装置を用いて5つの分霊を創造したとされる。
(これは現在でも幸福の科学で用いられている説明かどうか知らないが)

マイヤーズの類魂の理論のように、順次本体・分身が生まれ変わり、

その地上での修行の成果は残りの霊、本体・分身に共有されるし、

同時にカルマも受けることになる。

これでいうと、霊団の数がマイヤーズの場合は、相当数が多いのを除いて

地上の成果を共有するということ、カルマも背負うということで同じ説明のように思う。

この本体・5つの分身の理論はたしかGLAの高橋信次氏が唱えたもので

幸福の科学もそれをそのまま使用しているっものだとと思う。

マイヤーズの場合は、生前、複数潜在意識説を唱えていたが、

死後霊界で複数潜在意識説を発展させた類魂説を唱えたというものだ。興味深い。


初期の霊言集の『日蓮聖人の霊言』ではこの群魂について尋ねていたが

あいまいにされていました。


参考
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏 講談社
『心霊の文化史』吉村 正和 河出ブックス
『日本人の心のふるさと<<かんながら>>と近代の霊魂学<<スピリチュアリズム>>』近藤千雄 コスモス・ライブラリー
ルドルフ・シュタイナーの『神智学の門前にて』という本を読んでいると

幸福の科学で説く宇宙即我の体験と同じ内容のことが書かれていたのであげて置く。

『神智学の門前にて』 14章 薔薇十字の修行

霊的な発展には3つの方法があり、

東洋の行法、キリスト教の行法、薔薇十字的行法である。

東洋の行法はインドのなヨーガのような行法である。

薔薇十字の行法とは14世紀ごろのヨーロッパににできたもので、

科学の発展によって信仰と知識の分裂が現れ、

知識によって信仰から離れた人々のための新しい修行の道である。

その修行のひとつ、7つのうちの6番目に「大宇宙への自己沈潜」という項目があり、

この内容が幸福の科学で説く宇宙即我と同じような内容であった。

引用しますが短い文です。


引用開始

  六番目は、大宇宙への自己沈潜である。禅定、霊的な観照とおなじものである。

集中の器官、たとえば目の内部に沈潜する。しばらくのあいだ集中すると、

外的な器官の表象を払い落とし、目が示すもの、

すなわち光のことのみを考えるのである。

そうすると、器官の創造者にいたり、大宇宙に出ていく。

そして、身体がどんどん大きくなり、やがて地球全体とおなじ大きさになり、

さらに地球よりも大きくなって、あらゆるものが自分のなかにあるようになる。

そうすると、人間はあらゆる事物のなかに生きる。

引用終了


瞑想中、身体が大きくなり、地球と同じ大きさ、さらにそれ以上の大きさになり、

あらゆるものが自分の中にあるようになる、そういう感覚。

どんな時代、地域の中でも

神秘家の中に瞑想中このような体験をする人が居たということでしょう。

まさに幸福の科学で説く宇宙即我の体験と全く同一です。
アリス・ベイリーの解説本を読んでいると「オーバー・シャドー」という概念があった。

スピリチュアリズムで霊媒に霊が乗り移るとき、霊媒の体は霊が乗っ取り霊媒は意識がなくなる。

霊媒に霊が乗り移って語っているとき、霊媒は意識がないので何が語られたか何が起きたか分かっていない。

交霊会が終わった後、霊媒はどういうことがあったか全然分からないらしい。

自分が何を語っていたのかを知らないそうだ。

神智学協会のブラヴァッキーは自身も以前は霊媒であったことがあったのだが、

降霊中、霊媒が無防備な状態であるのは大変危険な状態になるのでスピリチュアリズムに否定的だ。

もう一つ、スピリチュアリズムの霊中に降りてくる霊は

その人の真我ではなくアストラル体の抜け殻である事が多いそうだ。

人間はは肉体のほかに、肉体と全く同じ姿のダブルと言われるエーテル体と、

その他にアストラル体を持っている。

その他に経験の精髄を保存し転生輪廻する主体である真我がある。

真我が死後にエーテル体、アストラル体を抜け出すが

この抜け出したアストラル体の抜け殻はエネルギーを持っていて、

しばらくはその人と同様の意識を持ったように対応できるのだそうだ。

ちなみにエーテル体の抜け殻もエネルギーを持っていて幽霊のもとになったり

自然霊になったり、あるいは別の人のエーテル体に再利用されるそうだ。

ブラヴァッキーやシュタイナーの主張によるとスピリチュアリズムで降霊する霊は

その人の真我ではなくこのアストラル体の抜け殻、アストラル死体であることが多いそうだ。

ブラヴァッキーはスピリチュアリズムのなかでもスティントン・モーゼスの『霊訓』は

例外として真の霊が降霊して語ったものだとして評価している。

シュタイナーはアラン・カルデックの『霊の書』を真実のものと高く評価しているそうだ。

だから、一概にスピリシュアリズムは駄目というわけではないようです。

アリス・ベイリーは「オーバー・シャドー」ということを語っている。

普通の交霊会では交霊中は霊媒は意識がなくなるのであるが、

霊媒が正常な意識、理性を持ち降霊している霊が語ることも聞いている状態だ。

これには霊媒となるものに高い能力が必要である。

マイトレーヤのメッセージを伝えるというベンジャミン・クレームという人がいるが

この人はマイトレーヤがオーバーシャドーして語っていると何かで読んだ。

ちなみに、ベンジャミン・クレームはアリス・ベイリーの教えを学んだ人だそうだ。

だからオーバー・シャドーという言葉を用いている。


これでいうと、幸福の科学の霊言というのも

大川氏が霊が語るのをはっきりと意識して聞いているということなので

オーバーシャドーしているということになるだろう。

エマソンとニーチェ

昔、哲学者のニーチェ(1844-1900)の本を読んでいた時、

(たしかニーチェ全集の若いときの作品か、妹のエリザベートの書いた伝記か忘れたが、)

若い学生の時(ドイツでは学校はギムジアムと言うんだと思うが15、6歳くらいの頃だったと思う)

読書目録が書かれていたのだが、そこにエマソンの論文集を読んでいることが書かれていた。

ニーチェはエマソンを知って読んでいたのだ。

ニーチェの思想や文体からしてエマソンの影響があるのでないかと思っていたのだが、

エマソン研究者のリチャード・ジェルダート氏の本を読んでいた時、同様のことが書かれていた。


『エマソン入門』(日本教文社)

P18-P19

引用開始

 ここでしばし目を転じて、1840年代にエマソンが提示したこの間いが、

後世の思想家にどんな影響を与えたのかを見てみよう。

その本来の哲学的な立場からすれば意外かもしれないが、

フリードリッヒ・ニーチェはエマソンから強い影響を受け、

『道徳の系譜』(1887年)の序文で(意識的にかどうかはわからないが)このエマソンの問いを取り上げ、

後段で次のように問いかけている。

「私たちは自己というものを探したことがない -まだ探したこともないのに、

どうしてそれを見つけることができようか?」。

彼はこれに続けて、みずからこの間いに答え、20世紀の決定的に分断された自己を予告する。


   必然的に私たちは、自分自身にとって見知らぬ者でありつづけ、自分のことを理解せず、

  自分のなかで必ず自己の存在を誤解することになるのだが、

  それは「だれもが自己の存在から最も遠く離れている」という命題が、

  私たちにとって永遠に妥当なものであるからなのだ-自分という存在に関して、
  
  私たちは「認識者」ではない。


 今日では、私たちはただ「何も知らない」だけでなく、たとえ自己を知ろうと試みても、

その試みすら多くのものに圧殺されてしまう。洪水のように押し寄せてくる文化的な情報のなかで、

目を惹く選択肢のどれを選ぶべきかわからなくなっている。一歩身を引いて体験から自分を引き離し、

おのれを振り返る、またはかつてのように自分の判断力を回復しようと一息つく、ということができない。

精神的な規律でさえもこの流れの勢いを止めることはできず、

一日の終わりにはこの(たいていは電子的な)情報にすっかり侵食され、

人間はたんなる送信機やある種の中継局になり、

データを受け取ってはそれを(交換物として)他人に流すだけになってしまう。

際限のない情報への渇きを満たすための機械になり下がる。

残念ながら私たちは、生きていくための雑事に追われて、

「真の自己はどこにあるのか?」という問いの第二の局面に目を向ける機会に恵まれずにいる。

 この情況は深刻だ。エマソンは「魔神論」のなかで、自分が置かれている真の惰況を目にしたなら、

私たちは自殺を考えざるをえないだろうと言っている。

つまり「自分が置かれた情況」が自然な物事の秩序からあまりにもかけ離れているために、

真の自己を回復する望みなどすっかり消え失せてしまうと言うのだ。

ニーチェは、この絶望的な情況をかいま見たからこそ狂気に追いやられた。

たいていの人間がこの自己破滅的な情況から守られているのは、たいていの場合、

その人が真実を見るよりも眠ることのほうを選び、無意識のうちに事物の表面にとどまつているからだ。


引用終了

渡辺昇一氏の書にもニーチェについての言及があった。

『エマソン 運命を味方にする人生論』 P44

引用開始

 さらに後日、エマソンはハーヴァードの神学校でも講演しています。

そこで話されたことは、あとから考えると実に重要な内容を含んでいました。
 
エマソンはその講演でこういいました。

「人びとは神の啓示を、何か昔に与えられたもののように満足そうに語っている。

あたかも神が死んでしまったかのごとく過去の話として語っている」

「神は死んだ」といえば二ーチェを思い出します。エマソンは「死んだかのごとく」といっていますが、

二ーチェよりも何十年も前に、神の死について言及しているのです。これは驚きというほかありません。

 要するに、彼は従来の教会のいろいろなしきたりや形式をすべて壊そうとしたのです。

そこから自然に出てきた言葉が「Unchaurched Christianity(教会なきキリスト教)」だったのです。

 この思想が日本のインテリに大きな影響を及ぼしたことは冒頭で述べたとおりです。

エマソンは日本でいえばちょうど天保から明治にかけての時代を生きた人です。

当時、日本からアメリカに留学した人たちは、

牧師のコネを頼って主としてニューイングランドに行きました。

そのため、無教会主義に感化されて帰ってくる人が多かったのです。

彼らはエマソンの思想を肌で直に吸収してきたのです。

引用終了

追記
2016/11/8

『シュタイナー自伝 下』(西川隆範訳 アルテ)を読んでいると、ニーチェについての記述があった。

第18章 P20
引用開始
フォルスター=ニーチェ夫人は、ニーチェの書斎を整理するよう、私に求めた。
こうして、私は数週間をナウムブルクのニーチェ文書館で過ごすことになった。
その際、私はフリッツ・ケーゲルとも親密になった。
ニーチェが読んだ本を眼前にするのは、素晴らしい仕事だった。
それらの本が与える印象のなかに、彼の精神が生きていた。
エマーソンの本はあらゆるページに書き込みがしてあり、熟読の後が残っている。
ギュイヨーの著作も同様であった。激しい批判の書き込まれた本の数々があった。
多数の書き込みから、私は彼の理念の萌芽を解明できた。
引用終了

ニーチェは学生の時だけでなく、成人後、著作中もエマソンの書籍を熟読していたのである。

ユングの宇宙即我

幸福の科学では魂が体から抜け地球の上空を行き、地球を見渡せるようになること、

またその後、魂が宇宙に広がっていくことを宇宙即我の体験といいます。

以前、心理学者のユングの自伝を読んでいた時にそれらしき体験が書かれていた。

たしかユングが瞑想しているときであったと思うが(あるいは夢の中かも)

魂が体を抜けてインドの上空に行き、

上空からインド大陸を見渡したという体験が書かれていた。

これは後に人工衛星でインド大陸を写した写真とおなじ大きさで見えたので

その高さ、上空何メートルか忘れたが、

その高さまで魂が飛んで行っていたのだろうという話であった。


こうした話、地球を上空からみると青かったという話は

現代ならば人工衛星や宇宙船でわかるのだが、

そうした技術のなかった昔の人でもこうした話は語られるので、

こうした宇宙即我の体験をした人がときどきいたということであろう。

ユングは現代人としては珍しくそうした体験を書籍に残した。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
チョンツ
チョンツ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事