労働相談・労働組合日記

労働相談、労働組合スタッフの個人日記

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    ?H2>野田醤油(現キッコーマン)1千労働者216日間ストライキの大争議 1927年金融恐慌が勃発した。川崎造船所3500名、八幡製鉄所700名等々と全国的に解雇の嵐が吹き荒れた。
労働者側は必死・総力を挙げて全国的な反撃を繰り広げた。
この年の主な争議は、大日本紡績橋場工場、富士瓦斯紡小名木工場、岡谷山一林組等であった。

この金融恐慌の全国的資本の攻勢に乗じた千葉の野田醤油資本も労働組合つぶし大攻撃を仕掛けてきた。

野田醤油では、1923年2600名労働組合員が『ピンはね』撤廃を要求し、その後、賃金体系、福利設備、待遇改善を巡って、ついにストライキにまで発展した。この時は内務省と千葉県も引きづりだし、知事、県内務部長らの調停によって「蛸(タコ)部屋制度」の廃止などを勝ち取った歴史があった。

1927年4月に始まった争議は労働者側勝利の方向で収斂されるかに見えたが、9月、金融恐慌を追い風とみた卑劣な野田醤油資本は会社内の「丸三運送店」の労働者が全員労組員であることを嫌い、「丸三運送店」の全労働者を野田醤油とは関係のない別会社である「丸本運送店」に転籍させた。労働組合攻撃の謀略である事は誰の目にも明らかであった。9月16日、全労働者2092名中1358名は無期限ストライキに突入した。
会社側は組合員1000名の解雇、ロックアウト、「大日本国粋会」や「大和民友会」など、労働争議や部落解放運動の弾圧でその名を知られた右翼・暴力団を導入し暴力で襲わせるなど情け容赦ない残酷な弾圧を続けた。

労働者側は連続闘争、集会デモ、国会への直接請願、全国的野田醤油不買運動や日本各地の労働組合の同情ストで対抗し全国闘争となった。組合員の子供たちの同盟休校など家族・地域ぐるみの闘争や、また全国的闘争カンパ行商闘争も活発に行われた。

1928年3月20日の午後1時頃、東京駅頭丸の内ビルで野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴闘争もあった。同年4月20日「野田醤油問題解決協定」が成立。216日闘い抜かれたストライキで300名の解雇撤回と被解雇者への解雇手当は勝ち取ったが、解雇された組合員は700名。敗北感が高まり、労組組織は壊滅した。

以下は黒島伝治氏の「野田争議」です。
「一昨年の九月十六日大争議が勃発すると、会社は組合を叩き潰すことに、全力を傾注した。それから組合は、田中内閣の極端な反動政策と必死になった会社の圧迫、堕落幹部の裏切に耐え、二百十七日間頑張った。会社は反動団体の暴力を利用して組合員がそれに応じると、官権の峻厳な取締によって、争議団を崩壊させようとしたり、スパイを使って組合を切崩そうとしたり、組合員の食糧庫である購買組合を遠島某に大部の金を掴まして差押えさせたり、附近の村から新工員を募って、事業を継続するなど、約二百円の金を費って、組合叩潰しに熱中した。暴力団は争議団の演説会場を攪乱した。それから組合の事務所を叩潰した。ある晩には組合員の三名が、暴漢に鋭利な短刀で刺され、悲鳴が町にこだました。負傷者は医者に連れて行かれて手当を受けたが、不思議な事は、五分も経たない内に、会社から医者へ電話が掛り、傷の軽重を問合せて来たという。暴力団の背後に会社が、糸を繰っていることはこれによっても明白である。
四月二十日になって、到頭争議団も屈伏するの止むなきに至った。その前、協調会で取交された覚書は、会社側から云えば、まるで征服者の解決条件である。争議団から云えば戦敗者の屈服的な解決条件であった。七百名の解雇者を出さなければならない。七百名と云えば争議団の殆ど七割である。」

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何度か見学に行った事のある「キッコーマン」にこんな歴史があったとは、知りませんでした。大変な闘いがあったんですね。 削除

2009/2/21(土) 午後 0:35 [ 花茨 ] 返信する

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キッコーマンはマンズワイン事件から一切買いません。暴力団を使って労働者に加害&タコ部屋労働?。キッコーマンは狂っているね。多分、一生自分のカネでキッコーマン製品は買わないでしょう。

2011/6/19(日) 午前 8:35 [ han*ak*_e*suu_1*1* ] 返信する

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