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昨日ポレポレ東中野で映画「100年の谺−大逆事件は生きている」をみてきました。 幸徳秋水、菅野すが子ら12名が死刑となった有名な大逆事件をテーマとするドキュメント映画です。 ポレポレ東中野では今日まででしたが、機会があればぜひご覧ください。 1911年1月18日大逆事件で24名に死刑宣告。判決後わずか6日後には11名を死刑執行。菅野すが子はその翌日に死刑執行。 1923年9月関東大震災 朝鮮人・中国人数千名が虐殺 平沢計七ら労働組合員10名が亀戸警察により虐殺 大杉栄・伊藤野枝ら憲兵により虐殺。 1933年2月20日小林多喜二築地警察署で特高刑事により拷問虐殺。 1925年に制定された悪名高い治安維持法は、作家小林多喜二の拷問虐殺が有名ですが、犠牲者は、数十万人の検挙、拷問で虐殺・獄死194人、獄中で病死1503人に及んでいます。 戦前の悪逆非道を、極右アベの今だからこそこそもう一度学び直す時が来ているのではないでしょうか。 ***************************************************************
治安警察法、治安維持法に関連して
−2013年5月1日メーデーに思う事− 8時間労働制を求めて闘い続けた先輩たちの歴史 <「誘ったら逮捕 団結は犯罪」の治安警察法> 1900年に制定された、集会・デモ・結社や政治活動の規制と労働組合運 動・農民運動をつぶす目的の治安警察法。宗教者、教師、学生などは合法的な政治結社にも入ることを禁じられ、女性は結社ばかりか、集会に参加することも厳禁とされました。 とりわけ、1900年から26年まで存続した17条は、ずばり「団結権・団体行動権・団体交渉権」を否定する条項でした。 1925年に制定された悪名高い治安維持法は、作家小林多喜二の拷問虐殺が有名ですが、犠牲者は、数十万人の検挙、拷問で虐殺・獄死194人、獄中で病死1503人に及んでいます。この支配者階級・政府・資本家の悪逆非道、残酷な本性と行い、先輩らの無念を私たちは絶対に忘れてはなりません。 しかし同時に、戦前の労働者・農民・市民・知識人はこんなひどい法律と弾圧にも負けず、検挙されても検挙されても、倒されても倒されても立ち上がり続けたという面も強調されなければなりません。数十万という検挙数も一方ではそのことを示しているといえるのではないでしょうか。 <8時間労働制を求め闘い続けた労働者> 1914年には50件・参加人員7904人であったストライキは、1918年に417件・6万6457人、1919年には497件・6万3137人と増加し、労働者の労働組合への結集も急速に進んでいます。 1920(大正9)年には、日本最大の軍需工場八幡製鉄の2万5千人の労働者が、3割の賃上げ、住宅手当の支給、時間短縮などを要求し熔鉱炉の火を止める大ストライキ。同じ年の5月2日の日曜日には、日本で最初のメーデーが「治安警察法の撤廃」「最低賃金制の確立」などを要求して上野公園で開かれます。これ以後16年間、毎年メーデーは闘われ、全国のあちこちで労働争議が頻発します。 このような先輩労働者たちの歴史があったからこそ、敗戦後たった1年たらずで1万2千組合が結成され、368万人が立ち上がり労働組合に加入しました。8時間労働制や憲法・労基法・労組法は決して政府や経営者から恵んでもらったものでなく、労働者・民衆が求め闘い続けてきた魂の叫びの実現だったのです。 憲法制定より1年以上前の1945年12月22日の労働組合法制定を千秋の思いで待ち望んでいたであろう人々。この日をどういう気持ちで迎えたでしょうか。この時の先輩たちの気持ちや表情を、今、自民党が憲法改悪をねらい再び暗黒時代に戻そうとしている時だからこそ、私たちは謙虚に想像したいものです。 **********************************************************
あらためて新村兄弟のことも紹介します。 映画では新村兄弟はほとんど紹介されていませんが、私は4年前、長野県屋代の生蓮寺にある新村兄弟のお墓を訪ねました。大逆事件で逮捕された新村兄弟。弟の忠雄は死刑にされた12名のひとりで、わずか23才でした。 http://blogs.yahoo.co.jp/cyoosan1218/49759252.html 新村兄弟のお墓には<禮誉救民忠雄居士><賢誉至徳善雄居士>と彫られています。 新村兄弟の墓が建てられたのは、大正の末ごろで、「更埴市史第3巻近・現代編(平成3年発行)」は、「国賊」扱いの新村兄弟に<救民・至徳>の戒名がつけられたことは注目すべきことと言えよう。と記しています。 「更埴市史」によると、新村忠雄は、長野県屋代町(旧更埴市現千曲市屋代)に生まれ、内村鑑三のキリスト教やトルストイの影響から日本メソジスト屋代教会で洗礼を受け、日露戦争による国民の生活の「悲惨な状態をみて、その救済策をいろいろ考えましたが、社会主義を実行するほかに途はない」(新村忠雄予審調書)と幸徳秋水らの「平民新聞」を拡げ、自ら長野県下で「高原文学」を発行するも検挙。出獄すると同時に平民社で生活し幸徳秋水・菅野須賀子と親しくなりました。 事件後、新村兄弟の母校である屋代小学校の宮入校長は「斯かる逆徒新村兄弟を屋代町から出し、また、屋代小学校に学びし事ありしは如何にも不名誉なり」と談話を発表しています。とあります。 23才、新村忠雄が生きた1910年とは。1900年の治安警察法公布。日露戦争後の不況下で、集会・結社・言論の自由は剥奪されながらも足尾鉱山大暴動・ストライキなど労働者のストライキや農民の小作争議が頻発し、一方での韓国併合。安重根の伊藤博文射殺に象徴される日本・韓国民衆の反発と闘いに対する明治国家権力の凶暴な殺人的巻き返し策謀、菅野須賀子が言うところの「真相は驚くばかり馬鹿気たもので,…たとえば軽焼き煎餅か三文小説見たようなものであった」でっちあげ事件であったことは今ではこの映画をはじめ多くの人が語っています。 石川啄木は盛岡中学3年生のときに足尾公害と闘う農民と田中正造の天皇直訴に感動しカンパ活動をし「夕川に葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びの など悲しきや」。1910年の韓国併合では「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつゝ 秋風を聴く」とうたっています。 |
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また、当時のような弾圧の時代の足音が聞こえてきます。
石川啄木の記念館に行ったことがあります。だれかが、もし石川啄木がもっと生きていたら弾圧される側だったに違いない、と書いているのを読んだことがあります。
2013/5/11(土) 午前 8:28 [ nonohana ]
中村市の人権復活の活動をされている人の「国民に対しきちんと謝る事の出来る国にしなくては」という言葉が今も忘れることが出来ません。民主主義を求める人々を弾圧する大罪を繰り返してはならない思います。
2013/5/11(土) 午後 6:42 [ yuu*a2*miki** ]