労働相談・労働組合日記

労働相談、労働組合スタッフの個人日記

先輩たちのたたかい

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「先輩たちのたたかい」などを整理しながらg​ooブログ「労働相談・労働組合日記」に少しづつ移しています。http://blog.goo.ne.jp/19471218
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君は槇村浩(まきむらひろし)を知っているか

<おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!>

東部労組機関紙コラム「二言三言」の紹介
http://www.toburoso.org/hutakoto.htm

全国一般東京東部労組の機関紙「東部労働者」は毎月一回発行されています。その中のコラム「二言三言」4月号から転載します。

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槇村浩「間島パルチザンの歌」
君は槇村浩(まきむらひろし)を知っているか。たぶんほとんどの方がご存じないと思う。
 槇村浩は戦前の高知県で闘ったプロレタリア詩人で、「全協」の活動家でもあった。全協とは日本労働組合全国協議会の略称、戦前の左翼組合が総結集をはかったもので、1932年の東京地下鉄スト (モグラ争議)が有名である。
 槇村浩の詩では「明日はメーデー」も捨てがたいが、「間島パルチザンの歌」が代表作だ。
 それは、「思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え/蘆の根の黒く凍る沼のかなた/赭(あか)ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ/高麗雉子(こうらいきじ)が谷に啼く咸鏡の村よ」との出だしではじまる長編詩。
 3.1独立闘争の渦中で父母を殺され姉を奪われた朝鮮の一少年が、「氷塊が河床に砕ける早春の豆満江を渡り/国境を越えてはや十三年/苦い闘争と試練の時期を/おれは長白の平原で過ごした」。25歳の朝鮮人パルチザン(遊撃隊)に育ち、中国の間島地域(現在の吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯)でゲリラ闘争を繰り広げた。
「おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!」
そしてこの壮大な叙事詩は最後に次のように締められている。「いま長白の嶺を越えて/革命の進軍歌を全世界に響かせる/??海 隔てつわれら腕(かいな)結びゆく/??いざ戦はんいざ、奮い立ていざ/??あゝインターナショナルわれらがもの・・・・・・」
1931年、槇村浩、19歳の作品である。戦闘性と叙情性がみごとに結合した詩で、闘う労働者を励まさずにはおかない。私の愛唱してやまない詩のひとつである。その7年後権力の弾圧で亡くなった。インターネットで検索できるのでぜひ全文を読んでみてほしい。(石) <二言三言>2009年4月号

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    ?H2>野田醤油(現キッコーマン)1千労働者216日間ストライキの大争議 1927年金融恐慌が勃発した。川崎造船所3500名、八幡製鉄所700名等々と全国的に解雇の嵐が吹き荒れた。
労働者側は必死・総力を挙げて全国的な反撃を繰り広げた。
この年の主な争議は、大日本紡績橋場工場、富士瓦斯紡小名木工場、岡谷山一林組等であった。

この金融恐慌の全国的資本の攻勢に乗じた千葉の野田醤油資本も労働組合つぶし大攻撃を仕掛けてきた。

野田醤油では、1923年2600名労働組合員が『ピンはね』撤廃を要求し、その後、賃金体系、福利設備、待遇改善を巡って、ついにストライキにまで発展した。この時は内務省と千葉県も引きづりだし、知事、県内務部長らの調停によって「蛸(タコ)部屋制度」の廃止などを勝ち取った歴史があった。

1927年4月に始まった争議は労働者側勝利の方向で収斂されるかに見えたが、9月、金融恐慌を追い風とみた卑劣な野田醤油資本は会社内の「丸三運送店」の労働者が全員労組員であることを嫌い、「丸三運送店」の全労働者を野田醤油とは関係のない別会社である「丸本運送店」に転籍させた。労働組合攻撃の謀略である事は誰の目にも明らかであった。9月16日、全労働者2092名中1358名は無期限ストライキに突入した。
会社側は組合員1000名の解雇、ロックアウト、「大日本国粋会」や「大和民友会」など、労働争議や部落解放運動の弾圧でその名を知られた右翼・暴力団を導入し暴力で襲わせるなど情け容赦ない残酷な弾圧を続けた。

労働者側は連続闘争、集会デモ、国会への直接請願、全国的野田醤油不買運動や日本各地の労働組合の同情ストで対抗し全国闘争となった。組合員の子供たちの同盟休校など家族・地域ぐるみの闘争や、また全国的闘争カンパ行商闘争も活発に行われた。

1928年3月20日の午後1時頃、東京駅頭丸の内ビルで野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴闘争もあった。同年4月20日「野田醤油問題解決協定」が成立。216日闘い抜かれたストライキで300名の解雇撤回と被解雇者への解雇手当は勝ち取ったが、解雇された組合員は700名。敗北感が高まり、労組組織は壊滅した。

以下は黒島伝治氏の「野田争議」です。
「一昨年の九月十六日大争議が勃発すると、会社は組合を叩き潰すことに、全力を傾注した。それから組合は、田中内閣の極端な反動政策と必死になった会社の圧迫、堕落幹部の裏切に耐え、二百十七日間頑張った。会社は反動団体の暴力を利用して組合員がそれに応じると、官権の峻厳な取締によって、争議団を崩壊させようとしたり、スパイを使って組合を切崩そうとしたり、組合員の食糧庫である購買組合を遠島某に大部の金を掴まして差押えさせたり、附近の村から新工員を募って、事業を継続するなど、約二百円の金を費って、組合叩潰しに熱中した。暴力団は争議団の演説会場を攪乱した。それから組合の事務所を叩潰した。ある晩には組合員の三名が、暴漢に鋭利な短刀で刺され、悲鳴が町にこだました。負傷者は医者に連れて行かれて手当を受けたが、不思議な事は、五分も経たない内に、会社から医者へ電話が掛り、傷の軽重を問合せて来たという。暴力団の背後に会社が、糸を繰っていることはこれによっても明白である。
四月二十日になって、到頭争議団も屈伏するの止むなきに至った。その前、協調会で取交された覚書は、会社側から云えば、まるで征服者の解決条件である。争議団から云えば戦敗者の屈服的な解決条件であった。七百名の解雇者を出さなければならない。七百名と云えば争議団の殆ど七割である。」
 昨日、亀戸で土井たか子さんのお話をまじかにお聞きする機会がありました。あと一カ月で80歳、今年で議員は引退なさるとのことですが、30分近くずっと立ち続け、平和を力説するそのリンとした声のよく通ること、感嘆しました。
 
 一昨日、作家犬養道子さんが<高井としを>について書いているとのコメントをいただきましたので、早速「婦人の友11月号」を買いました。婦人の友は、亡き母の愛読書だったことを思いだしました。
 犬養道子さんは87歳です。
 土井さんや犬養さんから見たら僕らはまだまだ鼻ったれ小僧でしょうか。
 
 犬養道子さんの随想は、とても印象深いので少しだけ紹介します。

婦人の友11月号 犬養道子随想 橋をわたる11

紡がれる富国より

女工の中に、高井としをという17歳の紡績工がいました。めったにない休日に「寄宿舎」を出て大日本友愛会という組織がバラまいたビラを見たとき、全国80万余の女工に対して「生きる道」「人間の道」が開かれたのですが、ビラの文章を書いたのは、吉野作蔵。ずっとのちに日本思想会の柱ともなるインテリ。「…人はだれでも、その人だけの個性を持っている・・・それを生かせ。生かすために団結せよ」。
(略)
 ともかく、としをは、やさしい文字で大きく書かれているビラを読んで、胸の底までゆさぶられ、親が急病とウソを言って工場(寄宿舎)をはなれ、衣服からぞうりまで売ってカネに替え(汽車賃には不足だったか)、東京に出てきた。亀戸のモスリン工場に自ら再び職工として入ると、今までとは全くちがう生き生きとして女工となって、以前には「見るもおそろしい」はずであった工場主や監督を驚かせる働きぶり。週一度の休日をあてがわれる身となり、休日は友人づくりと図書館通いに。
 そして。1921年(私の生まれた年)、東京モスリン工場での初めての女工ストライキ。その日、彼女は、人々の前で大演説をしたのです。要旨は全くあたり前のことがら。「一日八時間労働にして下さい。メザシくらいは食べさせて下さい」。危険な左派思想?とりしまりの対象?
 大拍手に続いたのは、三日目からの「女工の食事」改善。いなりずしや鮭が、内地白米を半分まぜた「くさくない」米のおかずとして出されはじめた(朝鮮系女工は区別された)。八時間労働は会社によって拒否はされたけれど。労働運動とか、男女合同しての労働組合とかのアイディアはまだなかったけれど、「友達をつくって、団結して」の吉野作蔵のことばは彼女の胸に刻まれて、やがて全国の労働組合形成にまでつながって行ったのです。
 岐阜県の炭焼工夫の娘として生まれ、小学校にも行っていない(識字教育は自分で)この女性、としをは、実は『女工哀史』の共同筆者。もひとりの筆者は、わずか三年の結婚生活ののち、自らも東洋紡績などで働いて、病む身となって死んで行った細井和喜蔵です。
(略)

1930年世界大恐慌

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写真、クリックすると東洋モスリン女工さんたちの明るい表情が。

世界大恐慌

1929年10月24日「暗黒の木曜日」で有名な世界大恐慌の大嵐はその後約10年、世界を吹き荒れた。
日本でも倒産、大量解雇で1930年から32年には、失業者は250万人に及んだ。

多数の労働者が決起した。労働争議が頻発する。1929年には1420件17万2144人(うちストライキ闘争を伴う争議は576件7万7444人もある)。翌年30年には2289件19万1805人(うち、スト争議は906件8万1329人)と爆発する。

1930年には、
東洋モスリン亀戸工場の3千女工のストと支援の総力戦。
鐘ヶ淵紡績(鐘紡)大阪淀川工場の籠城闘争のストはたちまち京都・兵庫・東京(隅田工場)の全国の鐘紡工場での闘いとなった。
富士瓦斯紡績(富士紡)川崎工場の3千人のストライキ。130時間滞空の「煙突男」の英雄的闘いが起きた。

1931年には、
横浜造船、芝浦製作所、住友製鋼、陸軍火薬製造所、川崎造船等々の大企業からさらに全国の中小企業争議へと爆発・拡大する。この年の争議は2456件と戦前の最高となり、ストライキ争議も864件であった。

(小林多喜二は、1929年に小説「蟹工船」を発表。30年に検挙され「不敬罪」で起訴。1933年2月20日築地警察に検挙され、激しい拷問による虐殺。わずか29歳。)

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1930年の「世界恐慌」は、その数年前の「金融恐慌」がそもそもの引き金だった。
そして今まさに私たちが目のあたりにしている現代の「金融恐慌」と迫りくる「世界恐慌」。

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写真の説明は、
一枚目が「日本染絨争議 煙突千葉君1931.4」
二枚目が「日本染絨争議 職場占拠1931」
三枚目が「日本染絨争議 デモとハンスト1931」
四枚目が「日本染絨争議絵葉書1931.4」
となっている。

日本染絨争議の資料がないため、写真から想像するしかない。
1931年の4月、<日本染絨>の資本と闘う労働争議が勃発した。その中で千葉浩さんという青年労働者が命をかけて「煙突闘争」を闘っている。そのひとりの闘いを下では多数の労働者が煙突下に押し掛けて「ハンスト」などを繰り広げている。職場では職場闘争の座り込みを行っている。地域の仲間もかけつけたのだろう。路上でも戦闘的にデモが行われている。
ここでは、「煙突」の上のたった一人の闘いが決して個人的闘いではないのだ。
争議が解決したのだろうか、争議団の説得で煙突から降ろされる千葉さんとその下で声援を挙げ赤旗をふる争議団の様子が4枚目だ。まさに闘いの熱気と騒然とした様子が手にとるように伝わってくる。

これら写真が<争議絵葉書>となっていたことも驚きである。なんという社会的拡がりだろう。

今、一見、少数の勇気ある人たちの闘いが目立つて来た。すかいらーくの中島春香さんの闘いやコナカの店長やマクドナルドの高野さんの闘いもそうだ。ある意味で現代の「煙突闘争」とも言える。しかも、この方々の闘いは圧倒的多数の仲間や世論に支持されている。「過労死」や「名ばかり管理職」はすっかりマスコミに定着してしまったほどだ。

しかし、一方で、今はまだ煙突の下に押し寄せ、ハンストやデモで連帯する多くの労働者が実体として登場していないのも事実だ。<潮目が変わった>と軽々しくは言えない。

私たちは「煙突」の上で闘う英雄たちを決して孤立させてはならない。「煙突」の下で闘う圧倒的多数の労働者の決起・組織化を目指し奮闘したい。

<少数の奮闘がなければ多数の決起はない。多数の決起がなければ最後の勝利はない>

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