君は槇村浩(まきむらひろし)を知っているか<おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!>東部労組機関紙コラム「二言三言」の紹介http://www.toburoso.org/hutakoto.htm 全国一般東京東部労組の機関紙「東部労働者」は毎月一回発行されています。その中のコラム「二言三言」4月号から転載します。 *****************************************************
槇村浩「間島パルチザンの歌」
君は槇村浩(まきむらひろし)を知っているか。たぶんほとんどの方がご存じないと思う。 槇村浩は戦前の高知県で闘ったプロレタリア詩人で、「全協」の活動家でもあった。全協とは日本労働組合全国協議会の略称、戦前の左翼組合が総結集をはかったもので、1932年の東京地下鉄スト (モグラ争議)が有名である。 槇村浩の詩では「明日はメーデー」も捨てがたいが、「間島パルチザンの歌」が代表作だ。 それは、「思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え/蘆の根の黒く凍る沼のかなた/赭(あか)ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ/高麗雉子(こうらいきじ)が谷に啼く咸鏡の村よ」との出だしではじまる長編詩。 3.1独立闘争の渦中で父母を殺され姉を奪われた朝鮮の一少年が、「氷塊が河床に砕ける早春の豆満江を渡り/国境を越えてはや十三年/苦い闘争と試練の時期を/おれは長白の平原で過ごした」。25歳の朝鮮人パルチザン(遊撃隊)に育ち、中国の間島地域(現在の吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯)でゲリラ闘争を繰り広げた。 「おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!」 そしてこの壮大な叙事詩は最後に次のように締められている。「いま長白の嶺を越えて/革命の進軍歌を全世界に響かせる/??海 隔てつわれら腕(かいな)結びゆく/??いざ戦はんいざ、奮い立ていざ/??あゝインターナショナルわれらがもの・・・・・・」 1931年、槇村浩、19歳の作品である。戦闘性と叙情性がみごとに結合した詩で、闘う労働者を励まさずにはおかない。私の愛唱してやまない詩のひとつである。その7年後権力の弾圧で亡くなった。インターネットで検索できるのでぜひ全文を読んでみてほしい。(石) <二言三言>2009年4月号 |
先輩たちのたたかい
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「先輩たちのたたかい」などを整理しながらgooブログ「労働相談・労働組合日記」に少しづつ移しています。http://blog.goo.ne.jp/19471218
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写真の説明は、 一枚目が「日本染絨争議 煙突千葉君1931.4」 二枚目が「日本染絨争議 職場占拠1931」 三枚目が「日本染絨争議 デモとハンスト1931」 四枚目が「日本染絨争議絵葉書1931.4」 となっている。 日本染絨争議の資料がないため、写真から想像するしかない。 1931年の4月、<日本染絨>の資本と闘う労働争議が勃発した。その中で千葉浩さんという青年労働者が命をかけて「煙突闘争」を闘っている。そのひとりの闘いを下では多数の労働者が煙突下に押し掛けて「ハンスト」などを繰り広げている。職場では職場闘争の座り込みを行っている。地域の仲間もかけつけたのだろう。路上でも戦闘的にデモが行われている。 ここでは、「煙突」の上のたった一人の闘いが決して個人的闘いではないのだ。 争議が解決したのだろうか、争議団の説得で煙突から降ろされる千葉さんとその下で声援を挙げ赤旗をふる争議団の様子が4枚目だ。まさに闘いの熱気と騒然とした様子が手にとるように伝わってくる。 これら写真が<争議絵葉書>となっていたことも驚きである。なんという社会的拡がりだろう。 今、一見、少数の勇気ある人たちの闘いが目立つて来た。すかいらーくの中島春香さんの闘いやコナカの店長やマクドナルドの高野さんの闘いもそうだ。ある意味で現代の「煙突闘争」とも言える。しかも、この方々の闘いは圧倒的多数の仲間や世論に支持されている。「過労死」や「名ばかり管理職」はすっかりマスコミに定着してしまったほどだ。 しかし、一方で、今はまだ煙突の下に押し寄せ、ハンストやデモで連帯する多くの労働者が実体として登場していないのも事実だ。<潮目が変わった>と軽々しくは言えない。 私たちは「煙突」の上で闘う英雄たちを決して孤立させてはならない。「煙突」の下で闘う圧倒的多数の労働者の決起・組織化を目指し奮闘したい。 |


