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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

不死人間伝説の正体


みな人の知り顔にして知らぬかな必ず死ぬるならひありとは

(新古今和歌集 前大僧正慈円)



 この歌をほめて「人は必ず死ぬという誰でも知っているあたりまえのことを詠むのは案外難しい」といった評価がある。

それは前提がちょっと違う、むしろ逆だろとおもう。

人が必ず死ぬことは、誰も知らない。

ちっともあたりまえではない。
だから、詠むのが難しいのだとおもう。


自分も含めて誰も知らないが、自分はその「誰も知らないという一点」だけには、はっきり気づいているという自覚が、慈円にこの歌を詠ませた、とおれはおもう。


「人が必ず死ぬことは、誰も知らない」とおれが言うと「そうだよ!長い人類史上一人くらい死ななかった人がいたって不思議じゃないよね」などと応じる人がいて唖然とさせられる。

しかも、このイッちゃってる反応さえ決して少数派のものとはいえない。

それほどに、死に関する人間の混乱迷走ぶりは、いたましいのだ。


古来語り継がれる「生き続ける人間伝説」は、人類のこの根深い迷妄を反映したものだとおれはおもう。













 人はみな「自分は肉体の中に居る不滅の魂で、肉は死んでも自分は魂だから死なない」とおもっている。
慈円のみな人の知り顔にして知らぬかなとは、正にこの迷妄を指摘しているのだ。

これが急迫の大問題だ。
この迷妄が、いじめから戦争に至るすべての争いの根本原因だから。

こういう問題は一般論ではなく自身のこととして受け取らないと時間の空費になってしまう。

「人は必ず死ぬ」の意味は「自分が今死ぬ」ということだ。
他人事や先の話ではない。ことさらそうおもえというのでもない。それが事実そのものだ。


不老不死永遠不滅のわが魂などというエゴイスティックなしろものは「死にたくない自分」の投影に過ぎない。







 ブッダの毒矢のたとえの教えが(哲学者の証明なんかより)重要だとおもう。


毒矢のたとえ[参考過去記事]
https://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9jeXFuaDk1Ny81ODI4OTQ5My5odG1s

https://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9jeXFuaDk1Ny81ODA4MzM2OC5odG1s










遠い将来、科学の発達によって人が死ななくなったらどうなるかという急迫ならざる問題も一応考えることはできる。

結論だけ言えば…単純に問題が一層深刻になるだけだとおもう。





慈円は『愚管抄』の作者として知られる鎌倉時代の天台座主。「当時異端視されていた専修念仏の法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は1181年9歳の時に慈円について得度を受けている」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86参照

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(過去記事増補編集再録)

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 以下の釈尊の言葉は、「なにをあたりまえのことをくどくどと」と思いたくなるほど、《誰でも知ってる事実》です。


この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨ましく、短くて、苦悩に繋がれている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死が来る。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に到る。

かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は一人ずつ、屠所に引かれる牛のように、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いとによって害われる。されば賢者は、世のありさまを知って、悲しまない。

泣き悲しむことによっては心の平安は得られない。ただますますかれには苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

だから尊敬さるべき人のことばを聞いて、亡くなった死者を見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、悲しみ嘆きを去れ。

(以上、スッタニパータ第三8・574〜590より抜書 中村 元訳)



 釈尊はなぜ、こんな平凡な分かりきったことを、何度も何度も繰り返し説いたのですか。

それは、この「人間は死ぬ」という事実をありのままに認める人がめったにいないからです。

非常に多くの人は、ありのままの事実より、嘘の話に感動するほうを選ぶ。
自分は肉体の中に居る不滅の魂で、肉は死んでも自分は魂だから死なないのだと。
私は死んでも生きるんだ、永遠にと。

何千年も昔から世界中で、なんど世代が入れ替わっても、人々はこの嘘話に感激し洗脳され鵜呑みにする。


日本人も「死んだ人は、あなたの近くにいる」と、千年も前から言い続けている。


しかし、
何千年続こうと、
間違いは間違いだ。



 





 この根底には
死への恐怖
があります。


これは、人間と世界を理解するための、決定的な最重要ポイントです。
人々が、自由の国に厭きては往年の欺瞞の国・獣の国にくりかえし戻ってしまう仕組みと打開策を理解するための。





(ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)から引用します。

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

(引用終。強調は私です)




 釈尊は「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。の後に続けて、
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
と教えています。

 わたしはこう確信しています。
死んだ後も何らかの形で「自分」は生きていると大多数の人々が妄想していることこそ、世界に争いがしずまらない本当の原因なのだ。と。






知識の表現
人は必ず死にます。常識です。

智慧の表現
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。

言葉にすれば同じですが、この間には容易に超えがたい深い断絶があります。
その証拠に釈尊の次の一句「このことわりを他の人々は知っていない」の意味が、知識レベルの人には全然わからないはずです。




世間の常識はあげ底。
それも甚だしいあげ底。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないですから。

本当に自分は死を越えられない存在だと気づけば(智慧レベル)「争いはしずまる」ことは自分の手のひらを見るように自明になります。

知識レベルにとどまっている人に、「争いはしずまる」ことをいちおう納得がいくように言葉だけで説明することもできますが、わたしはそんな無駄をやりたくない。
知識でわかってもらっても、争いはしずまらない
からです。


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(過去記事統合編集増補再録)

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無料ホームシアター【ストーリー】より引用
原作は、テッド・トンプソンによる2014年出版の同名小説。「着実な気質の土地」と呼ばれるコネチカット州にひっそりと佇む、通勤電車が走る高級住宅街。そんな小さな街に長年住み続けるアンドレス・ヒル(ベン・メンデルソーン)は、真面目一筋の人生を送ってきた。50代半ばに差し掛かり仕事を引退、成長した息子の大学の学費はすべて支払い済み。ようやく人生を謳歌しようと、着実な暮らしを投げ打つことを決意する。妻(イーディ・ファルコ)の元を離れ、コンドミニアムを購入し、人生を一転させるような自由を待ち受けるアンドレス。馴れ親しんだ拠り所から抜け出した彼は、過去と現在の自分に折り合いをつけようと、不器用で切ない自分探しの旅に踏み出す・・・。




 主人公アンドレス・ヒルのように、同じ社会の中に居てただ仕事と家庭を捨て、愚かな自分探しの旅に出ても、人生を一転させる自由など絶対にやってこない。自分の居場所がなくなって困窮したあげく、たいていは前より酷い境遇に落ち着くことになる。


 長年馴れ親しんだ生活と社会の無意味さに気づいたら、
在家の出家をする必要がある。
具体的には
「今ここに気づく」ヴィッパッサナーの専心実行だ。

この決意ができないなら、無意味な生活と社会に、あらためて馴合う以外の選択肢はない。



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司会者
ここからは、世相を一刀両断にしてください。

現実主義者
無理だよ(笑)

司会者
じゃあ、悪口でもいいです。大悪口大会をやりましょう。ここに、犠牲者になってもらう相手をメモしてきたんです(メモを出す)えーっと、日本人、儒教道徳、女、政治、マスメディア、大衆社会…まあ相手にはことかかない(笑)
全部はとてもやれないでしょうが…

キリスト者
だいぶ昔の話を思い出したんだけど、ポルノ専門の場末の映画館に入ったんですよ。火曜の夕方だから空いてるだろうとと思って入ったが、ばかげたことに満員に近かった(笑)
しかも、若い男女の客が多いかと思うと、そうじゃない。中年の男が多い。

現実主義者
あんた、自分も観に入ったくせに、文句たれることないよ(笑)

キリスト者
(笑)それはそうだが、まあもうちょっと聴いてください。
よく見ると、頭の白いおじいさんが、けっこういるのに驚く。そのとき入ってきたおじいさんは、よれよれのカバンを抱いてよろよろ歩いていた。こんな年寄りが、たぶんひとりで来てるんだね。僕の近くの席に座わって、あごに手を添えて一心に映画を観ている。
そこへ、腰の曲がった、これも相当な年のおばあさんが、箒とちりとりを両手にして入ってきて(映画館に雇われてる)通路に座り込んで、皺の中に落ち込んだ小さな目でスクリーンを見ている。

仏教者
ハッハッハッハ(突然笑い出す)

現実主義者
どうしたの?

仏教者
いやね、僕も思い出しちゃったんですよ。まえに「外国のおなごはけものみてえだ」なんて言う田舎のおばあさんがいて、僕は不思議に思ったが、きっとその種の映画を見て単純に真に受けたんだろうね(笑)

キリスト者
その推理はたぶん当たりだな。
でね、率直に言って、棺おけに片足入った年の人が、寂しくひとりでやって来て色気たっぷりの様子で、こんなものに見入っている有り様は惨めなことだと思うんだ。

現実主義者
惨めに見えるのは、あんたの主観であって、本人はなんとも思っていないでしょう。
僕は人間的で微笑ましいと思う。だいたい、テロや戦争で殺し合いをやってるのに比べたら、そんなのは、はるかに罪がないし別に人に迷惑をかけてるわけじゃないから何ら恥じることもない。

キリスト者
なんでそこでテロや戦争が出てくるの(笑)
でも、あなたの言いたいことは分かりますよ。「いい年をして、世間様に恥ずかしいからやめなさいよ」なんていう連中がいるんだ。僕は外聞を恐れて良い子ぶる人々は、この色気いっぱいの年寄り達よりずっと人間として惨めな状態にあると思いますよ。

現実主義者
そうなんですよ。りっぱなもんですよ(笑)



仏教者
そうですね、男が女を誘惑しようと目の色変えてるってのは、ていたらくもいいとこで、人類の負債はその分だけ増え続けることになる。人類の精神世界の決算は毎年、度外れた赤字続きで…

司会者
ちょっと待って、なんか男の悪口になってる。男3人集まって男の悪口言っても面白くないので、最初にお願いしたとおり、言うなら女の悪口にしてください(笑)

仏教者
若い女の人は意外に正しい見方をしていますよ。男なんかより。

現実主義者
おい、おい(笑)

仏教者
まあ聴いてください。
若い女性は「自分に正直に」と一番に言うもんですよ。同じ年頃の青年にしゃべれせてみなさい。男の方はすでに早々と本来の自分を見失ってることが分かりますよ。
「社会に役立つ自分」とか「日本人の自覚をもった自分」「男らしい自分」等々、もっともらしい字面、言葉だけのガラクタと「自分本来の自分」というダイヤモンドを取り替えてしまっているんです。
ただし、若い女性の方にも問題があって、せっかくの自分に正直にという正しい見方の大切さ、かけがえのなさを自覚する(捉えなおす)能力において生得的な弱さがある。

キリスト者
たしかに、女の人にはそういう頼りないところがある。
それで結局「男と女が互いに愛しあい一緒に生き、子供をつくり育てていく以上の幸福は、人間にはないのです」って主張になる。

現実主義者
それはその通りだと、僕は思いますよ。

キリスト者
ええ、分かります。しかしそれは結果としてそうなだけだ。
女たちは、および多くの男たちも、そこに至る正当なプロセスを自身で歩いたのではないんです。
たいていステレオタイプの言説を弄しているだけですからね。深く考えての自己投機の表明じゃないから、わが身が遺伝子の奴隷になっている自覚も反省もまるでない。
彼らは知識と知恵の間に存在している恐ろしいほどの深淵に気づかないんだ。

仏教者
知識としてだけなら、このごろの小学生なんか、みんな言うもんね。「なるべく良い大学出て、良い会社に入って、平凡でも良いから幸せな家庭を持ちたい」なんて言う(笑)

キリスト者
だから、彼らはいくつになっても自分に自信がもてない。知識はいくら積み上げたって自信にはならないんだから。

仏教者
それで彼らは強い意志力を欲しがるんです。強すぎる意志力の危険性にはひどく無知なままでね。あきらめない者の多くは、お決まりの自己欺瞞に追い込まれる。すなわち、精神の正常な柔軟性を欠いた単なる硬直傾向を我が意志力の強さと思い込むんです。


現実主義者
自分の頭がすっかり硬くなり、新しいことを一切受容できなくなると、ずうずうしくも「俺も一人前の社会人になった。精神の安定した大人になった」と思い「悪いものは悪い。いいものはいい。ダメなものはダメ」と断言して何か言った気になって威張る「大人」に、大多数の人間が劣化するのは、いったいなぜなんでしょうか。

仏教者
社会の習慣は常時ONの定力装置で、それに常にそれ以上の力で抵抗していないと、加わる影響はどんどん大きくなるからですよ。
日常人はごく若い時以外はほとんど抵抗しないから、歳をとるにしたがってその受ける影響は蓄積され、ついにはまったく社会習慣の権化に変わってしまい、もはや自分で考え悩む努力は消え「悪いものは悪い。いいものはいい。ダメなものはダメ」とロボットのように言うだけになってしまうんですよ。


※定力装置 一定の力を加え続ける事のできる装置


現実主義者
歌の文句じゃないけど「後どのくらい傷つけば大人になれるのか。だけどわたしは耐えてみせる」なんて言います(笑)


キリスト者
若い女の向上のイメージがそういうものなら、努力はすべて裏目に出てしまうかもしれない。


仏教者
ダメな男もこの種の姿勢で人生に向かってるもんですよ。凝り固まっちゃってる。よくあるパターンなんです。ひとつの立場からみれば一理あるという程度の思想信条に固執して硬くなっちゃうんですね。本人はそれで、もう迷いがなくなった、強い、男らしいと自惚れている。傍からみれば、馬鹿まるだし(笑)
まわりが一切相手にしなければ、自分勝手にエネルギーを使い果たして消滅するんですがね。まわりのバカが共振してしまうから大事になる。

キリスト者
でも、女のほうもひどい。結局、彼女らの多くは人並みに人生を送ることさえかなえば、まずまずの幸福であると考えている。そうなるために人並みの努力はしている。よほど運の悪い生まれつきでない限り彼女のささやかな望みはかなえられる。


現実主義者
そうですね。女の不安は、おおむね、ひょっとして自分の運が特別悪いんじゃないかという気がかりだけですよ。


キリスト者
まあ、多くは努力のかいあって同年代の女が結婚する頃には自分も適当な相手が見つかって家庭をもつ。やがて二世の誕生等、古今東西、あの有名な歌「おさななじみ」に表現されている、男女が繰り返すいとなみが続けられるんですよ。このわけの分からぬ反復運動は、空中のすべての鳥たちによって、水中のすべての魚たちによって、地上の大小もろもろの動物と虫と植物のすべてにおいて繰り返し続けられていることでもある。


現実主義者
あんたの言おうとしていることが、どうも僕にはあまりよく飲み込めないんですが(笑)


キリスト者
つまり、感覚神経の幸福に翻弄されているうちに、タイムアウトになりその幸福な女と男は煙のように消えてしまい、残ったのは一人あるいは数人の子供だというわけです。それは、ふりだしに戻された僕なんです。あるいは彼女でもある。
こういうことが切りなく繰り返されているのが、この現実の世の有り様だともいえる。
そうだとすると、これは恐ろしいようなことだと思えてくるんです。


現実主義者
うーん。


キリスト者
…これを言うと伝統教義に反することになるんだけど、じつは僕は、女は神の手じゃないかとまえから思ってるんだ。


現実主義者
神の手ですか(笑)


キリスト者
イブはもともと神の指示によってアダムをそそのかして禁断の木の実に手を出させたんじゃないのかな。だとすれば、楽園から追放されているのはアダムだけであって、イブはひきつづき神の手としてアダムにくっついてきている。


仏教者
それは面白い発想だね(笑)
たしかに女は神の前でべつに罪をもっていない感じがある。女は男よりはるかに無意識に支配され生きていき死んでいくものですからね。そういうものに対して、神は男に対するときの峻厳な姿勢で臨むことはないはずだ。それどころか、あなたが言うように、初めから神の手の一部分であるふしさえ見える。


現実主義者
なんだか女が憎らしくなってきた(笑)


仏教者
女はか弱くて繊細で傷つきやすく、三界に家なきはかない存在だというけど、これは見せかけだけだしね(笑)



(続く)

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(過去記事統合増補編集再録)

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仏教者
しかし、僕をやがて確実に襲い、僕が必ず従わされる「死ぬさだめ」は済んだことでもないし、なんとなく慣れていることでもない。
死ほど残酷なさだめはない。
恐ろしいもの(死)が確実にやってくるというのに、それが自分にとって何なのか、まったく知らされない。
それなのに、人のできることといったら、それが実際に襲いかかってくるまで、なるべく忘れているように注意することくらいだというんですからね。
これが知恵?人類の知恵なのか?
こんな哀れな、情けないことってないですよ(笑)

現実主義者
だけど、人にとって死は必ずしも悪いことだとは、僕は思わないけどね。
ただ、嫌なのは、たいてい苦痛がセットになってるってことだ。
そのわけは知りたいね。
死ぬのはしかたないとして、痛いのはかなわない(笑)
仏教者に向かって)おたくらは、苦も楽も同じものから出ていて、ともに錯覚に過ぎないといってるようだけど、僕らのように、炎の中に座って涼しいわけがない者はどうしたらいいんでしょう(笑)

仏教者
冗談じゃない。僕だって火は熱いし、水は冷たいですよ(笑)
死に伴う苦痛のわけでしょう。
すべての構成物は、ある時間を経て分解してしまうことは誰でも知っているよね。
人間みたいに、これほど高度に複雑に構成されている存在物の分解(死)は、そのものにとってそれだけ困難性を帯びてくるんでしょうね。

キリスト者
つまり、死の苦しみが強く出てくる。

現実主義者
植物が枯れて分解するような場合より、ずっと手間がかかるのはしょうがないわけか。
人に生まれた時点で、死と苦痛のセットは決定ってことか。

仏教者
キリスト教は、人間の生得の罪をいいますよね。

キリスト者
ええ、原罪ということを説きます。

仏教者
それは、具体的には人間の肉体的精神的弱さをいっていると思います。
異論はあるでしょうが、僕はそう思います。
では、その弱さは何から来ているかというと、生老病死の苦痛への敗北感・屈服感から来る。
だから、この問題の最も根本的な解決は、釈尊の説くように、生病老死の苦から解脱すること以外にないんです。
それは、特に死の苦からの解脱に集約される。
キリスト教の愛も仏教の慈悲も、これなくしては骨抜きになるしかないでしょう。

キリスト者
それは…言うは易いです(笑)

現実主義者
行なうは難い(笑)

仏教者
人の一生は、最後の勝負(死)に勝ったら全部勝ちなんだと思うね。
途中の勝負に全部勝っても、最後の勝負に負けと出たら、それでいっぺんに全部負けだ。

現実主義者
終わり良ければすべて良しってわけね(笑)

仏教者
それで、終わり悪ければすべて悪しってわけです。






(続く)

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(過去記事再録)

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休憩終了。ひとり対談ごっこ再開します。



司会者
では、…「人間だけが持つ根源的不安」についての話から続けてください。

仏教者
平均人の不安は、単純に挫折の予感といいかえられる。
それは、もとは自分の肉体が不完全であることを知り、その事実が人間にとって致命的なマイナスであると彼(彼女)が信じていることから来ていると思います。
肉体は常に飲食・排泄を必要とする。その必要を完全に満たしても、しばしば筋肉は疲れ身体は痛み病気は防げない。
病気から運良くまぬがれても、身体は不可避的に朽ち、時が至れば死が彼を滅ぼす。
彼はそれを耐えがたいストレスと受け取るので、逃げる。
彼は、それがひょっとしたら恩恵かもしれないとは、夢にも思っていないわけです。

キリスト者
その「彼」ってのは、だれかの精神のことですね。この人のこと?(と、現実主義者を見る)

仏教者
いいえ、人類の精神です。

司会者
恩恵かもしれないとは、どういう意味ですか。

仏教者
人間がもし肉体的に完全に生まれついていたら、ほとんどの人間は自分の高慢に気づくことができなくなるでしょう。そうなれば、人間はただの高等動物で終わることになったでしょう。

現実主義者
そうらきた(笑)
あんたたちときたら、どうしてそんな奇妙な強がりをしなきゃいけないのかね。
人間の肉体が不完全でそれが恩恵だというのなら、酷い障害者は大恩恵にあずかっていることになる。

仏教者
あなたは矛盾を突いているつもりだろうが、まさにそう思っていい場合もあります。
当事者にしかなかなか分からないことですから、あなたを納得させることは難しいのですが。

キリスト者
ともかく、ここでも不安の根底にあるものは、死なんですね。

現実主義者
そこで、死にうち勝つことはできないと考えた彼は、そんな嫌なことは忘れて、せめて今のうちにできるだけ遊んでおこうと思う(笑)

仏教者
あんたひとりのことなら、それもいいでしょう。
しかし、これが人間すべてに例外なく降りかかっている運命であることにはっきり気づくなら、その考えのあまりに愚かしいことにも気づくでしょう。

キリスト者
だいたい、忘れようったって忘れられることじゃないんだから、これは(笑)

現実主義者
まあ、…そうだ。
真夜中に、ふと思い立って海を見に行ったり、恋は両思いが望ましいに決まっているのに、葉隠聞書の、片思いに終始する「忍ぶ恋」が至極だという説に、ふと強い魅力を感じたりすること(昔の自分のことです)には、いったいどんな事情があるのかと考えてみると…

仏教者
死がある。

現実主義者
そうなんだよなあ。

キリスト者
つまり、「自分はいつか死にゆく者だ。しかし、なぜそうでなくてはならないのか」
という解きがたい疑問にやりきれない不安を意識下で感じ続けている証拠なんだよね。本人はすっかり忘れているつもりでも、そうは問屋が卸さない(笑)




仏教者
現実主義者を指して)あなたが休憩前に言ってたことですが、生まれて、ジタバタやって、わけも分からないまま死ぬ…(笑)
命ある者の運命はみなこの通りなんで、生命のこの自覚を強いられているのが、自意識を持つ人間の定めなんだと思うんだ。


キリスト者
その自覚にぶち当たるいくつかの契機の中で、最も切実な関心を持つのが「自分の死なねばならぬ定め」についてであろうと思うわけです。

仏教者
ええ、大きく分けて三つの契機がある。生まれるという契機、生きているという契機、死ぬという契機。
今、こうして生きていることも、不思議さにおいて、死ぬことに劣らないんだけれど、とにかく僕は、この事態に慣れているので、なんとなく分かっている気分でいられるんですよね。

キリスト者
ほんとは、二つの深遠なる闇なんですよ…死と生。

仏教者
生まれるという事は、死よりももっと不思議で重大な契機だと、時にいわれたりしますよ。

キリスト者
それはそうだと思います。
誕生は、その不思議さにおいて死に勝っている。

現実主義者
「自分は生まれた。これはなぜか」というのは根源的な問いですが、「自分は死ぬ。これはなぜか」というのは、ある意味、日常的な問いだともいえますからね。

キリスト者
ある日ひとりの女の股の細い管の開口部から、絞り出されるようにこの世に現れた瞬間が、僕自身のうえにあった事実は、僕自身にその覚えがなくても確実なんだよね。
狭い袋の中に十ヶ月も両膝と額を押し付けるように丸まって、液体漬けになっていて、栄養は臍から摂っていた、おそろしく変なある物が(笑)この僕自身だということも、僕の正直な感覚がまるでそれを本気にしていなくても…確実なんだ。

仏教者
そうなんだよなあ。
おもえば、確実であるにもかかわらず、依然として信じがたいことばかりだけど、しかし「済んだことだ」と思い捨ててしまえば、実際上無関心でいることも、比較的容易なんだよね。

キリスト者
そうなんだ。済んだ事ってのは弱いよね(笑)






(続く)

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この記事に

現実主義者
システム?それはどういう…


仏教者
昔、ケインズ経済学がもてはやされたころ、よく言われた冗談とも本気ともつかない話として、こういうのがあったのをみんな知ってるでしょう。
不景気な世の中で、失業者がなにもせずに生きてゆくわけにはいかないし、景気もますます悪くなるから、意味のない無駄な仕事をでっちあげてでも人々を働かせろと。つまり、させる仕事がなかったら、極端な話、地面に穴を掘らせ、掘れたら、また埋めさせるようなことをさせても、それは失業者を減らし景気を良くするために、なにもしないより効果があるんだ、という話です。
もちろん、こんな極論は経済学的にも正しいとはいえないが、今ぼくが言いたいのは、この話がもう一段上のレベルで人間存在の社会における状態をあらわす、ぴったりの比喩になるということなんです。
つまり、社会のいわゆる仕事なるものは、人間が本当にすべき仕事ではなく、もともと大部分この地面に穴を掘って埋める徒労めいたものだといえるんです。
人生の失業者を見掛け上減らし、社会をいたずらに景気づけ、平均人が(さあいよいよ死ぬという、その時まで)死を忘れていられるように、何者かが設けた巨大なシステムだ。


現実主義者
何者かって…誰なんです?


仏教者
人類全体が共犯関係(笑)


キリスト者
平均人は、人間だけが持てる根源的不安を、たんなる気の迷いくらいに思いたがっていますね。


現実主義者
ああ、そういうことか…確かに、互いにある種の気がかりには触れないでおこうという、意識されない暗黙の了解みたいなのはあるかもしれない。でも、それは人間の優れた下意識の知恵だと、ぼくは思いますね。


司会者
このへんで、いったん休憩を入れたいと思います。


現実主義者
やっぱり、全然まとまらなかったな(笑)


キリスト者
さっきから、おなじ場所で、ぐるぐる循環してますね(笑)


仏教者
この種の問題の場合、循環するのは議論が正しく行われている証拠です。
そういうことにしておきましょうよ(笑)





(休憩後、続く)

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(過去記事再録)

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現実主義者
本当にそう思って生きると、理性と感情は自己として最高度に澄み切ってくる。
世の中の何がつまらなくて、何が大切か、本当のところが明瞭に分かるようになる。


仏教者
それはぼくも、似たような体験がある。
世界がすっかり違ったふうに見えてきますよ。
まるで、初めて見たもののように、すべてが新鮮になりますよね。


キリスト者
それは大事なことです。
なんでも一度「永遠の相」において見つめて直すこと。
その印象を腹に置くこと。
つまり、すべての頭の働きに対して、原点「永遠の相」を置くことです。


現実主義者
…ちょっとこのへんで小休止しませんか。テーマが重いせいか、疲れてきた(笑)


司会者
すみません。みなさん、お疲れでしょうけど、このテーマだけ、もう少し続けてまとめちゃってください。
それから休憩を入れますので。


仏教者
まとめる気はないけど、いますこし続けようか。
人の死ぬ必然を、もっと真剣に考えてもらいたいわけですよ。
あなたもぼくも、あの人もこの人も必ず死ぬ事実についてね。
死において、人の平等性が歴然としているわけです。
たとえば、自分たちを神に選ばれた神国・神民だと信じ、他国の人々を差別しようとする愚行が、歴史において何度となく行われている。
しかし汝も我も、どこの国の人も必ず死に、そのありさまには実になんの区別もない。
身の丈が、われわれの半分、あるいは倍あろうと、肌が白だろうと黒だろうと、そこに区別差別のようはまったくありえないわけです。


現実主義者
むかし、岡林信康の「がいこつの歌」ってのがあった。それを思い出しましたよ。
当時ふざけた調子で歌ってたけど、死について深いことを伝えてたんだよ。



キリスト者
ぼくも聞いた覚えがあるけど…ちょっとさわりを歌ってみてよ。


現実主義者
えーっと、具体的な歌詞までは出てこないので、無理です(笑)
みんな死ぬんだから、仲良くしろよ、と。
そう歌ってた気がする。
ま、うろ覚えなので、この話はこのくらいで。
自分で言い出したのに、すみません。



[参照]
岡林信康「がいこつの唄」 (Live)
https://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9jeXFuaDk1Ny81NjgyNDc2Ni5odG1s


現実主義者
ところで、あなた達はなぜ死を恐れるのかな。
だれも死を経験していないわけでしょ。
ぼくがいるときは死はいない。
死がいるときはぼくはいない。
だから、心配ないって説もある(笑)


仏教者
そりゃだめだ。
そんな生悟りに落ちついていると、さきになってあわてても間に合わないぞ(笑)
体験していない死を、わたしがこうまで恐れるのは、そも何のためかをよく考えないと。


キリスト者
そうですね。こいつだけは理屈で納得したって、どうにもならないんだから。
もちろん、ぼくだって死ぬのは怖いよ。
いよいよ死ぬというときになったら、死ぬことが一番怖くなるかもしれない。
それは、そのときになってみないと分からない。
しかし、今のぼくは死ぬことよりもっと恐れていることがある。
それは、不幸になること、損をすること、笑いものにおなること、ひとりぼっちになることを必要以上に恐れすぎること……これらは死への恐怖が根底にあって出てくるものだけど、そのために本当には生きられなくなってしまうことだ。
さらに、その本当には生きていない自分をチェックできなくなってしまうんじゃないかという恐れ。生きていないのに、生きているような気分に自分をだましてしまうことに対する恐れのほうが、今のぼくには強いんだ。


仏教者
戦争で生き残った人たちが言うでしょう。「あんな思いは二度とごめんだ。もう、だれにもあんな思いはさせたくない。平和な今はありがたい。平和を大切にしたい。戦争でなくなった人達は本当にかわいそうだ。こんな良い時代も知らずに」と。
しかし、こんなところで、彼らの感慨が済んでしまうのは、どうしてだろうと思うね。
自分をだましているというほどじゃないんだけど。


現実主義者
その人たちがいってることは、まともでしょう。


キリスト者
それは、まともなんだけど、やはり根無し草的でしょう。


仏教者
ええ、人間の実存的把握のまたとない機会でさえ、ものにしなかったともいえる。


キリスト者
そうですね。
べつに戦争だけが唯一の機会ではない。
親兄弟との死別の機会にも、通俗的な感慨だけで済んでしまう。
その奥に湧きあがる、なにやら自分を根底から促すものを、じゃまものあつかいにしてしまう。
なぜ、彼らは死を忘れていられるんでしょう。あるいは忘れているふりを続けられるんでしょうか。


仏教者
ふだん死のことを忘れていられるだけの忙しい生活が、彼らにはあるからでしょう。
生活の煩瑣な事務的事柄の中で、その覚醒の芽をつんでしまうシステムができあがっているともいえる。





(続く)

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(過去記事統合増補編集再録)

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(この前、ワイドナショーで、古市憲寿さんが複数のイマジナリーフレンドとしゃべってると言ったら、周りが、古市やべえ奴的反応になった。

おれは普通に共感して、嬉しくなっちゃったけどね。
この対談ごっこなんて、まさにイマジナリーフレンドの会話だからさ
)



キリスト者
じつに、感覚的体験というものが、新鮮に感じられるのは、はじめだけです。
してみると、これは感覚がわたしを欺いているのだと思わざるを得ない。


現実主義者
それは、男女間の快楽にもいえますか。


キリスト者
少なくとも、セックスの快楽については確実にいえます。


現実主義者
だんだん良くなる場合だってあると思うけど(笑)


キリスト者
それは、いろいろ工夫して、ごまかしているから(笑)


現実主義者
それがまた楽しかったりして(笑)


キリスト者
こまったな(笑)


現実主義者
なんで、こまるんですか。


キリスト者
「男こそわがすべて」という、神知らずの女性側の口吻そのままに、男が「女こそわがすべて」といって安心立命しているのでは、「人が生きているのは、そも何のためか」と問われても、なんとも答えようがなくなる。


現実主義者
じゃあ、どうせいいうの(笑)


キリスト者
キリストや釈尊に、われわれの思いを込めなければならんと思うね。
なんと尊い生命であることか、この世に生きていることを精一杯楽しめ、とあなたは言う。
それなら、いずれ絶対死なねばならぬ宿命をどうあつかうのか。あつかいようがないじゃないですか。
実際は、ただごまかしているだけではないですか。
いったい、生をむさぼるだけの態度が、なんで健康的ですか、猿じゃあるまいし(笑)


現実主義者
あなたのいいたいことは分からないでもないんですがね。
人生に無常を感じて、はかなんだり沈みこんだりする。はては、死後の世界などという当てにならないものにすがりつく。
そんな、お婆くさい有様は、惨めたらしくて見るに耐えないですよ。
同じごまかしなら、生を謳歌して元気なほうがいいのであって…


キリスト者
いや、それは違うと思う。
たいした考えもなく「生きてることが最高さ」という根無し草的人生こそ正視に耐えない。


仏教者
死ぬということは、真剣に考えなきゃならんですよ。


現実主義者
それは、だれでも真剣でしょ。


仏教者
いやいや、さにあらず(笑)


……人生は、すばらしい。その美しさ、麗しさは賛嘆に値する。
しかし、人の死なねばならぬ宿命が、そのすべての輝かしさを灰色に塗りつぶしてしまう。
死とは、人間にとって最大の不可解なパラドックスです。


現実主義者
それはもちろんよく分かるよ。
この世のどんな華々しい成功者も死ぬときは寂しいもんだもの。
だいたい、人に最も強い自信を与えるのは、自分の思想・信念が世界を整合的に把握しているものだという確信でしょう。
生きている間はその証明が常にあり、会心の笑みを絶やさないほどの成功者でも、そのすべての勝利は死を前にしてすっかり色あせてしまう。
がっかりさせるよなあ(笑)


仏教者
しかしね、たとえば人が死ぬのを見せられるたびに、なにか自分に冷水をかけられたような、力が盗まれるような気分になるとしたら、それは自分がまちがった生き方をしているからなんだよ。
人は死のわなをのりこえて、究極の勝者になるべきですよ。


現実主義者
そんなあなた、のりこえたくても人はせいぜい百年前後で寿命が来ちゃうもの(笑)


キリスト者
人が百年前後で死ぬということは、精神にとってはまったくの偶然にしか過ぎないと思います。


現実主義者
ウッ(笑)
万人の上にある冷然たる事実は、これを必然というべきだと思いますけど。


仏教者
あなたは、なかなか頑固だ(笑)


現実主義者
ぼくは、むしろ、こういうことは認めますよ。
つまり「自分はまもなく死ぬのだ」と思って生きるのが、ある種の人々にとっては、テクニックとしてかなりいい生き方になるってことです。


キリスト者
「明日死ぬつもりで今日を生きる」ですね。





(続く)

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 映画『天才スピヴェット』

全体がひとつの美しい詩のような映画だ。



Wikipedia「天才スピヴェット」ストーリーより引用。
モンタナの牧場で暮らす10歳の少年スピヴェットは、身も心もカウボーイの父と昆虫博士の母、アイドルを夢見る姉に囲まれて暮らしていた。スピヴェットは生まれながらの天才的頭脳の持ち主だが、彼の言動は家族からは今ひとつ理解されずにいた。さらに、双子の弟の突然の死で、家族の心にぽっかりと穴が空いていた。そんな中、スピヴェットの元にアメリカを代表する研究機関であるスミソニアン学術協会から、最も優れた発明に贈られるベアード賞受賞の知らせが届く。初めて人に認められることの嬉しさを知ったスピヴェットは、一人でワシントンDCで開かれる授賞式に出席するべく、家出を決意する。数々の危険や様々な人々と出会いながら大陸を横断する。受賞スピーチで、彼は重大な真実を明かそうとする。
[引用終]


 おれはこういう映画なら何本でも観たい。
しかし、これは洋画だから日本でも受け入れられた。

邦画でこういうのを作って大ヒットする時代は、残念ながらまだ来ていないとおもう。


映画『天才スピヴェット』メイキング映像

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