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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

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(ブッダのことば スッタニパータ1035 中村 元訳)より引用します。

世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、
気をつけることである。

(引用終)






 これは、釈尊でなければ決して言えない言葉だと思う。

こんなにも深い意味を持たせた「気をつける」という言葉を、他の誰からも聞くことはない。



気をつけることだけが、あらゆる煩悩の流れを防ぎ止める力がある。

釈尊の言う「気をつける」とは、そのような意味のものだ。


この重要な「気をつける」は、正念相続と呼ばれ、不断の自覚と呼ばれ、様々に言いかえられて説かれている。




比丘等(びくら)よ、比丘は正念(しょうねん)にして自覚してあるべし。

比丘が自覚してあるとは何ぞや。
比丘等よ、比丘が()づるにも()るにも自覚を()してあり、前を見るにも後ろを見るにも自覚を為してあり、身を屈するにも伸ばすにも自覚を為してあり、衣鉢(えはつ)を取るにも、自覚を為してあり、食し、飲み、()み、(あぢは)ふにも自覚を為してあり、行き、(とどま)り、(すは)り、眠り、()め、語り、黙してあるにも自覚を為してあり。
これ比丘等よ、比丘が自覚してあるなり。比丘等よ、比丘は正念にして自覚してあるべし。

(仏教聖典 阿含経 仏伝2、1-13)



 不断の自覚。
目覚めているかぎり、常に「気づき」を失わず気をつけていること。
これが釈尊の教えの中心にある。





正念についても説かれている。

比丘等よ、比丘が正念にあるとは何ぞや。
ここに、比丘等よ、比丘は身に就きて身を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。受に就きて…乃至…心に就きて…乃至…法に就きて法を観察し、熱心に自覚し、正念ありて世俗の貧欲と憂悲とを調伏して住す。
これ比丘等よ、比丘が正念にてあるなり。

(同)


これって、脳を一瞬たりとも遊ばせるなってことだ。

われわれは、あれこれ妄想している時、脳が「働いている」と勘違いしている。

そうではない。妄想している間、気づき、正念、自覚が失われている。脳はやるべき仕事をサボって遊んでいるのだ。


釈尊は、
気づき、正念、自覚に放逸の人は死人に等しい
とはっきり言っている。


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(過去記事統合増補編集再録)

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