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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

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ターン・プッタタート 技法によって悟るより引用します。
 初めのヴィパッサナー、見解の純潔(見清浄)は、呪術など理由のない迷信から自然に関した誤解まで、環境的なもの、あるいは昔からの誤った見解を無くすことです。たとえば「この体と心は変わらない。幸福で、自分のものだ。動物だ。人間だ。神だ。梵天だ。幽霊だ。何か霊験がある神聖なものだ」と見るばかりで、それらをただの四大種、あるいは形と名、体と心と見ることができず、反対に自分と見、実体があると見、魂が体から出たり入ったりすると考えます。
(引用終)



 迷信や占いやスピリチュアルな流行に、生まれつきまったくひっかからない資質の人間が、いつの時代にも少数ながらいる。
この種の恵まれた人間は、本人が望めば自然に見解の純潔(見清浄)にたどり着くことが可能だ。彼は自然に仏法の中に入る。

おれたちのような大多数の凡夫は、自然に見清浄に至ることが、まず絶対にない。
しかし、全ての人間は実は求道を断念できないので、おれたちは自暴自棄にならない限り、面倒で困難な道、不自然でテクニカルな方法を実践せざるを得なくなる。「私たちは小さな鼠にふさわしい方法を探す決意をしなければなりません」ということだ。
その方法がターン・プッタタート 技法によって悟るに一通り説かれている。

 こんな煩瑣で実行困難な方法しか残されていないのかと落胆することもできるし、まだ自分にも唯一可能な道が残されていたと喜ぶこともできる。



 「自分と見、実体があると見、魂が体から出たり入ったりする」「この体と心は変わらない。幸福で、自分のものだ。動物だ。人間だ。神だ。梵天だ。幽霊だ。何か霊験がある神聖なものだ」私はいる、私はずっといた、私はい続ける、という愚かな理解・凡夫の共同幻想を克服し「俺、俺のもの」の死を死ぬことができるまで。


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