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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

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 他力信仰者に「一発菩提心を百千万発するなり」の教えは必要がない。
そのことは唯一絶対神信仰構造に最初から分離できない形で含まれているからだ。

だから親鸞は安心して「廻心といふことただひとたびあるべし」と説くことができた。
「一発菩提心を百千万発するなり」を否定しているのではなく、言う必要がないのみならず、むしろ言わない方が良いという立場をとったのだ。
弥陀を信じる親鸞にとって修証一如は自明のことに過ぎなかった。
そのために「一切の事にあしたゆふべに廻心して往生をとげさふらうべくば、ひとのいのちはいづるいき、いるほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや」という見事な理屈を後からつけたとおもう。

 ただし、理屈はこれで正しくとも、日常言語は数学のようにいちいち定義して用いないため、たとえば廻心、たとえば菩提心、言葉の一つ一つが多義で、種々の解釈のズレ、ズレの連鎖、誤解、邪義が生じる現実の問題がある。
その対応でいくつも修正条項を付け加えるため、スッキリしないわかりにくい教義になる。
信心のみといったけど、行いも大事だからねと云わざるを得なくなる。

(親鸞の言葉は「歎異抄」第十六章から引用しました)

[170608追記]
 阿弥陀仏信仰は形式は単一神教だが、実態は唯一絶対神信仰である。阿弥陀仏は元人間で神ではないという設定も、実際に意味を持つものではない。阿弥陀仏も自分も同じ人間で本質は対等だとおもっていては、この種の信仰は成立不可能だからだ。

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