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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

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 仏弟子サッパダーサ長老の告白は生々しく強烈だ。
(仏弟子の告白(テーラガーター)六つずつの詩句の集成より)

405.わたしは出家してから二十五年になるが、そのあいだ、指を一(ひと)はじきするだけの時間でも、心の静けさを得られなかった。

406.心の統一専念を得られなくて、快楽の欲情に悩まされて、両腕をつき出して泣きながら、わたしは住居から出て行った。

407.わたしは、小刀をもって来ようか?わたしが生きている必要があろうか?わたしのような人間は、修学を捨てて、どのようにして死ぬべきであろうか?
下の朗読8分ごろから。





「 わたくしが山の洞窟に連れもなくただ一人住んで、いっさいの生存は無常であると感ずるのはいつのことであろうか。
わたくしのこの思いはそもそもいつの日に起こるであろうか」
で始まるテーラプタ長老の告白も正直で切実だ。

「…厭わしいかな、厭わしいかな、心よ。そなたはわたしにさらに何をしようとするのだ。
…心よ。四種類の顛倒に支配されている世界のように、そなたはわたしを引き廻す。」




(現代語仏教聖典 第10章「教化の種々相」第3節より引用)
 ブッダは説かれた。
……たとえば、飢えた犬に、肉のついていない血だらけの骨を投げ与えたとする。犬はその骨で、飢をみたすことができるであろうか。否、犬は、その骨によって、疲れと悩みとを得るだけである。……
余の弟子は、官能の楽(欲楽)をこの骨のたとえのごとく見る。正しい智慧によって、それは苦しみでありわざわいであることを如実に知る。よって、これに執着する心を捨てるよう修行するのである。……
欲楽は夢のごとく、醒むれば何ものでもない。……
(引用終)



 おれは、いくら教えを聴いても、如実に知ることのない「半わかり」状態から抜けられない。

欲楽は夢だと知りつつ、目の前に血だらけの骨を投げられるたびに、飛びついてはしゃぶってしまう犬のような人生から抜けられない。


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