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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

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 よく見せてもらってる仏教ブログ瞑想以前。コマメディア ー史上最弱の仏弟子 コマメーで紹介してくれているプラユキ・ナラテボー師の法話の中で、ブッダに「我具足の教え(健全な我を具足すること)」があることを初めて知って、わが意を得た気持ちになった。

世間に流布している仏教というと「我を捨てよ」的お説教のみ一方的に強調されているのが、おれは絶対変だとずっと思っていた。
最初から我を捨てよ我を捨てよでは、仏道修行などできるわけがないからだ。


おれは昔の記事「自己を忘れる前に、ちゃんと自己確立しろ」にこう書いている。

 悟りを目指す準備段階として「自己の確立」が必要だ。

「自己の確立」は、本来無い自己を立てるのだから、矛盾ではないかとか、最終的に消える(ないし最初から無い)「自己」をわざわざ起こすのは迷うための苦労でないのかとか言う人がいる。

そういう人は、言葉の字面に迷っているに過ぎない。

戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は
自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう
と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。

 自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立もできない者に、自己をならふも自己をわするるもない。









 プラユキ・ナラテボー師の「手動瞑想」

 最初からあまり細かいセンセーションに集中しない。最初から細かくラベリングしようとしない。集中は必要だが、集中し過ぎると(実は焦って集中しようとしての空回り状態)続かなくなり、元も子もなくす。


プラユキ・ナラテボー師 瞑想実践



 「理屈はいいからとにかく坐ってみ」とか言われて、漠然と身体を坐禅の形にしてボーとするのも、初めからやらずに見てるだけより、ずっと良いことだが、
そもそも瞑想や坐禅は何のためにやるのか…瞑想は「今ここ」に目覚めるためにやる。仮決めでいいから、一応間違いのない狙いを憶えておくのは、努力が空回りしないために必要なことだとおもう。


タイの仏教寺院で「心の筋トレ」

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(過去記事統合増補編集再録)

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