ここから本文です
哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

書庫全体表示

 この数ヶ月、役場主催のウォーキング教室に参加している。

 前回、リード役のおばさんの信念で幼稚園的遊戯、全員で縦一列の電車ごっこをしながら「わたしに続いて大声で笑って。あっはっは、あっはっは」これを何度も繰り返す。「作り笑いがほんとの笑いになる」と。
それっていいことなのか?

 今日別のおばさんが、前回の「あっはっはおばさん」に共感するスピーチをした。これからも大いにやろう「みんなでやれば怖くない」からみたいに激励する。
「みんなでやれば…」は揶揄をこめた反語で、やるもんじゃないという意味だと思うが。

こんな偏執が流行りだせば、おれはこの教室から速やかに離脱する。

  思うに、おばさんの人生の目的は、幸福なのだ。
(もちろんおれだって不幸より幸福がいいに決まってるが、人生の目的にはしない)

 ショーペンハウアーは「幸福論」のなかで
最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。…朗らかさが今来ては困るという時はない。(「幸福について」2橋本文夫訳)
と言っている。
つまり、幸福目的ならおばさんは正しい。ワザと笑うことで、朗らかになれる人がそうするのは当然だからだ。
ショーペンハウアーはさらに
朗らかさにとって…健康ほど有益なものはない。
とも言っている。
つまり、ウォーキングに皆勤参加して、自分たちなりに楽しくなるためにワザと大笑いし、休みなく空談しながら朗らかに歩くおばさんたちは、まことに幸福の法則にかなっている。









 それでも、おれは一言だけ究極の反論をしておく。

 幸福は人生と何の関係もない、幸福が、人生の問題を解決することは一切ないからだ。

これは、残念ながら、おばさん達には猫に小判馬に念仏で、さあいよいよ死ぬというその瞬間まで理解しない。
[関連記事]
いつの間にやら幸福が人生の目的になる







[追記]
 おれは、昔から考え続けている疑問がある。
「自分を王様だとか神様だとか事実誤認して幸福だとおもい込んでいる精神病院の患者は、本当に幸福か」という疑問が。

大多数の人は「本人が幸福を感じてるんだから幸福に決まってる。他人がいくら気の毒がろうとも、本人は自分が精神病だと気づいてないから関係ない」とおもうだろう。
自分が幸せだと感じてればそれだけでオッケーってことだ。非常に多くの人が結局そういう考えだとおもう。人生の目的が幸福で止まっている。

 それだとこの先、副作用のない麻薬が開発されて「幸福薬」として売りだされたら、みんな飛びつく。
それさえ飲めば幸福な良い人生ってことになるわけだから。

 幸福を人生の目的にすると、様々おかしなことが起きる。

この記事に

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事