ここから本文です
哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

書庫全体表示

☆「質疑応答(解脱の過程・涅槃・慈悲の瞑想)」ディーパンカーラ・サヤレー
人間界に人間として生まれてくるというのはとても難しいことです。なぜなら、人間というのは良いカルマを持って生まれて来るのです。今世において大変に良い人生であって、そのよい人生をどのように使うかということが分からないと、結局それを無駄にしてしまいます。
☆「アーナパーナサティ」ディーパンカーラ・サヤレー
私たちが、瞑想をする目的は苦から自由になることです。
(以上引用終)


 仏教の瞑想法は非常に多い。
それぞれの瞑想法には、優劣ではないが、違いがある。
たとえば不浄観は初禅まで、慈・悲・喜の瞑想は三禅まで、捨の瞑想は四禅までと、到達可能な境地が最初から決まっている。
その瞑想を続ける限り、どんだけがんばろうと超えられない原理的境域がそれぞれにある。



 過去記事「アーナーパーナサティサマーディ」で、ブッダのことば「悟る前に最も多くいたヴィハーラダンマ」(相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻399頁1324項)から
……………………
私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。
と引用した。
この文献の最後は次のようになっている。
……………………
 比丘のみなさん。比丘が、不浄なものにも不浄でないものにも不浄という感覚のある人になりたいと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。
 比丘のみなさん。比丘が、不浄なものにも不浄でないものにも、不浄でないという感覚のある人になりたいと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。
 比丘のみなさん。比丘が、不浄なものも不浄でないものも気にしない人になりたいと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。
 (この後も、初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、そして想受滅を望むなら、心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしないさいと、同じ文章が続きます)。
(以上引用終。強調処理は私です)

「想受滅を望むなら、心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしないさい」←教えによれば、究極の悟りは想受滅の直後に来る。つまりアーナーパーナサティサマーディひとつで解脱まで行けると、ブッダは請け合ってるとおもいます。

ターン・プッタタート「アーナーパーナサティ解説」にも、(アーナーパーナサティは)「初めから涅槃に到達するまで続いている一つの実践です。規範を換える必要はありません。他のカンマターナ(念処)に換える必用はありません。」とあります。






最終目的地に直結する安心の一本道、さあ進まんもう一歩。
それが目的地に着くことだ。








(過去記事編集再録)

この記事に

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事