ここから本文です
哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

書庫全体表示

イメージ 1

 おれは、澤木興道老師の「禅談」という本で人生が変わった。
「禅談」より澤木老師のことばを引用します。

 三十年幾年坐禅をやったところで少しも人格と関係がない。
自分というものと関係なしに悟ってをるのだから,そんな悟り方なら,吾々も子供の時分に幾つでも悟った。
然し,そんなものは,謎かけと同じことで,又試験の答案と同じ,数学の宿題と同じことで何でもない。

同[禅談]「ただ本を得よ」より引用します。
『ただ本(もと)を得て末(すえ)を愁(うれ)うることなかれ』…


本は真如、末は神通の意味で修行を指す。
根本をしっかりと捉えて、末節に走るなということです。…

つまり本当の事さえすれば、それを人が知るとか知らんとか、功徳がどうの、神通がどうの、そんなことは問題ではないのです。

…しかるに、この本を捨てて末を追うものだから、何時までたってもこれにいき着かない。
ただ末末と末ばかり追うて、それでとうとう日が暮れてしまう。…

『ただ本を得て末を愁うることなかれ』と工夫することが最も大切なことであります。

(以上、引用終)

※『ただ本を得て末を愁うることなかれ』は証道歌の一節

 おれはこの本で覚触(かくそく)という語を、知った。
この上なく重要な語だが、分かるように書いてある本は、今でも世の中にほとんどない。


(以下のYouTubeで詳説してくれている先生は澤木老師の孫弟子にあたる人のようです)




呼吸の観察覚触それだけでいい。
(さらにあえて究極まで突き詰めるなら、すべての法はサティひとつの中に収まってしまうとおもう)



 何をしてもよい、呼吸の観察を常に忘れない限り。
それができない場合は、よそ事を止めて呼吸の観察に専心すべきだとおもう。








(過去記事統合増補編集再録)

この記事に

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事