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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

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(武者小路実篤著「維摩経」より引用)
 佛教の譬え話に、或る旅人が渇えて水をのみたいと思ってやっと水のある處へ出たが、其處は大きな湖水だったので何處から水をのんでいいかわからないので、とうとう水をのまない内に渇え死んだと云うのがあるが、馬鹿馬鹿しい話と思う人があるかもしれないが、僕達は佛教の経文の多いのに驚いてその教へには手がつけられないと思うことは有り得ることで、この譬え話を読んだ時、本當にそうだと思った。
 我等は飲みたい處から飲めばいいやうに、読みたい處から読めばいいのだ。

(引用終)



 教えを聴きつづけている限り、聞いた瞬間、自分にぴったりくる教えが必ずある。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」
(歎異抄後序)の体験は、親鸞聖人の専売特許ではない。
誰の身にも「この教えは、わたし一人のために説かれたものだ!」と思える瞬間が必ず来る。
我等は飲みたい處から飲めばいいやうに、読みたい處から読めばいいのだ。
の「読みたい處」とはそういう意味だ。
読みたいところを見つける努力を怠ればとうとう水をのまない内に渇え死んだという馬鹿馬鹿しい話が現実になる。
実際、大部分の人々はそのように死んでいるとおもう。





(恵心僧都 一乗要決より引用)
仏法に()えりと(いえど)仏意(ぶっち)(りょう)せず。()(つい)に手を空しくせば、後悔何ぞ(およ)ばん。
(引用終)



 仏法を聞きたいとおもえば聞ける時代に生まれたことが、すでにとてつもない幸運なのだ。
宝の山に入って、なにも取れずに帰ってくるようなバカはするな。










 アーナーパーナサティの「部屋」は宝の山状態だ。
日本人1億2千万の99%は、この「部屋」の存在すら知らないからだ。



アーナーパーナサティは難しくない。
ただ自分のしている呼吸に気づけばいいだけ。
長く息を吸ったら『長く息を吸った』と知り、長く息を吐いたら『長く息を吐いた』と知る。短く吸ったら『短く吸った』と知り、短く吐いたら『短く吐いた』と知る。これだけだ。

 ところが人間は、この簡単な法が、簡単すぎてできない。何度やってもたちまち挫折する。

なにも極楽浄土だけが易往而無人(行き易くして人無し)ではない。
こんなちょっとした瞑想でさえ、すでにそうなのだ。





何故か。



無常を実感できていないと、深い瞑想までスムーズに進むことが難しい。
たんに言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人は、もっとも浅い瞑想にさえ入ることができない。

無常は、たとえ釈尊の説法を直接聞いたとしても、ただ聞いてるだけで理解することはできない。

自分の実感がどの程度深いかに厳密に正比例して、瞑想の深さが決まる。
じっさい、あなたの心が無常を実感しなければ、幾ら言葉や文字で真剣に学んでも、数分間のサティすらまともに維持できないだろう。


言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人とは、どういう人のことか。

「一切は無常」と教えると「異議なし。事実です。知ってますよ」と答える人は少なくない。

同じ人たちに「人生は無意味。一切は無価値」と教えると「とんでもない。それは最悪のニヒリズムだ。誰が認めるというのか」と答える。

こういう人たちを言葉上の意味だけで無常を理解した気になっている人といいます。


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(過去記事統合増補編集再録)

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