哲学日記

泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。

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 知っていますか? 人々は本当に価値あるものに価値がないと思い、価値がないものに価値があると思う。評価すべきものは評価せず、批判すべきものを賞賛する。意味あるものは無意味だと思い、無意味なものに意味があると思ってしがみつく。

 「私はそんなことはしていない」と思われるでしょうが、実はそうではありません。皆同じです。真理をありのままに知ることができるのは、悟りを開くときだけです。ありのままに物事を観て生活するのは、悟った方々です。悟りという認識革命を起こしていない限り、我々の認識はあべこべです。仏教用語で顛倒(vipallâsa)といいます。

 すべてのものは無常です。しかし我々は、すべてが変化しないもの(常)だと勘違いして、ものに執着したり、あらゆる計画を立てたり、期待、願望、切望したりします。期待がはずれたら悩み苦しみが生まれるのに、一向にめげない。それで苦しみが続くのです。体は不浄なものなのに、とてもきれいなものだと思って、限りなく苦労する。自分というものには実体がなく、あらゆる部品で一時的に組み立てられたものなのに、それも常に変わっていくのに、「自分という実体がある」と思い込んでいる。皆、死んでしまうのに、絶対認めない。死なないという前提で生きることは、やりきれないほど苦しいことなのに、ありのままの事実を認めない。

 このように認識があべこべだから、価値観もあべこべです。死にものぐるいで勉強して知識を得ても、金を儲けて財産を築いても、贅沢に溺れていても、死ぬときにはすべて捨てるのです。
生きているというプロセスは、持つ者にも持たざる者にも同じです。
持つ者には持つことで苦しみが生じ、持たざる者には期待で苦しみが生じます。
(引用終。文中の強調付加はわたしです。原文にはありません)

異議なし!!










…ただ…この素晴らしい法話と関係ない事をちょっと言わせて。

 昔も今も

ひたすら生きんとする盲目の意志
が、大多数の人々の崇めてやまない神だ。

不滅の魂や大我や唯一絶対神やらはそのための道具に過ぎない。

世界のすべての宗教もとっくにその道具に劣化変容し終わっている。

「生きんとする盲目意志」とは「けもの本能」のことで、
人間は大脳作用による理性の薄皮1枚でこの「けもの本能」をコーティングして、
見た目ピカピカの別物に見せているに過ぎない。

理性は、盲目意志に誘惑され、説得され、結局ほとんど常に屈服する。





そこで、ブッダはすべての人を救うことはせず

私がしなかったことは、しなかったとせよ

と教えた。

その理由についてだ。





 ほとんどの人達は、ただ日々を気楽に生きていければ満足だとする者だ。


「生きんとする盲目の意志」を全否定する無常・無我はもちろん、
死さえも、かれらは理解しない。

自分は死んでも生きているとおもっている。

真理を過重に押しつければ、グレてファシズムに落ちてしまう。

最悪の結果をまねくだけだ。



だから、ブッダはすべての人を救うことはせず

私がしなかったことは、しなかったとせよ

と教えたのだとおもう。





(過去記事増補編集再録)

主張3

真理探究には蛮勇が必要だ。
普通の勇気でなく蛮勇が。



たとえば、
「シンデレラコンプレックスやピーターパンコンプレック(ネバーネバーランド)の呪縛から脱出して現実の世界(リアルリアルランド)に生きなければならない、たまに戻って英気を養うのは善いが節度を忘れずに」
という学者の主張が真理だと思われている。


本物の真理まで、あと二歩ほど足りない。

こういう微温的思想が真理であったためしはない。

もう一歩踏み込んで、学者の言うリアルリアルランドがもう一つのネバーネバーランドにすぎないと認めるためには蛮勇がいる。
高みで自分を支えてくれている唯一の足場を、自分でとっぱらってしまう事を意味するからだ。

しかしこの恐怖を避ける者は、本物の真理にこれ以上近づけず、そのために結局偽善という真理の反対物に変容せざるを得なくなる。


ユークリッド空間−−リアルリアルランド
ロバチェフスキー空間−−ネバーネバーランド

幻想だというならどちらも幻想だし、真実だというならどちらも真実だといわねばならない。

ユークリッド空間とロバチェフスキー空間が等価であるように。


蛮勇を持って、どちらの世界に対する執着も一時に捨て去ることによってしか、本物の真理を得る道は開けない。



生きとし生ける無数の存在の中で人間だけに与えられたかけがえのない宝。
精神の自由の行使という宝を持ち腐れにして、大多数の人間ははかなく死んでいく。

古くなった車を買い換えるように、遺伝子に乗り捨てられて。

彼らの親もそうされた。彼らの子供もまた…。



聖書に一つのたとえがある。

神が、使用人に神の金を、それぞれの力に応じて預け、旅にでる。
最も少ない金を預かった臆病な使用人は、金の運用に失敗して神に咎められるよりはと考えて、神が帰ってくるまで土の中に金を隠しておく。
神が帰ってきたとき、その使用人のやりかたは神の怒りを買い、きびしい罰を受ける。
というたとえだ。

(マタイによる福音書25,14〜29)





この、神の金とは何か。






人間以外の生き物には与えられていない精神の自由のことだ。

遺伝子のプログラムからさえ自由になれる人間の精神のことだ。







遺伝子は、人を滅ぼすものでもあると同時に、人を生かしているものである。

自分を生かしている事実に膝を屈して、自分を滅ぼすものの正体を見失うなら、
人は人としての存在価値を自ら放棄したことになる。

生物は遺伝子の支配下にあることを、人は片時も忘れてはならない。

このことに気づき、遺伝子の戦略に抵抗する可能性をもつ者は人だけなのだ。

人以外の生きとし生けるものは、全くその可能性をもっていない。

人がそのことを忘れて
他の生きとし生けるものと自分を区別しなくなったとき、
人はもはや存在価値がなくなり、速やかに滅びるだろう。


西洋思想は、人間と人間以外の存在を区別するのは当然とみなす。

これは正当なものなのだ。

この点を間違ったものとして、東洋思想の立場から揶揄している論調を最近よく見かけるが、愚かしいことだ。



(過去記事統合増補編集再録)

主張2

陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直す
(新共同訳エレミア書18,4)

陶工とは神、粘土の器は人類を意味する。





いっぽう、人間は自分の生きたいように生きるほかないのだ。


それは自由ではない。


ただ人間はそのように作られているだけだ。


どうしてそんなものが自由だろう。


そして、生きたいように生きた結果がどう出るかー祝福か破滅かーは人間の能力の埒外にある。





人の心はほかの何物にも勝って実がない。誰がそれを知りえようか
と聖書に書いてある。(エレミア書17−9)


たいていの人間は、その何物にも勝って実がないものに頼って生きている。

仏陀が

良く整えられた自己こそが唯一頼れるものだ

と教えた自己とは、自分の心のことではないのは確実だ。

自分の心は、まるであてにならないのだ。








話はちょっと飛ぶが、
キリスト教と仏教は、似ていない教えのようで、
実際は、ほとんど同じ場所に人を導くよ。


聖なる行為の意味を伝達するとき、イエスキリストはユダヤ教のドグマを通じて語らざるを得なかったし、釈尊はバラモン教のドグマを借用せざるを得なかった。


両聖者の教えは、まったくあいいれない敵のように(とくに厳格な一神教の形態をとるキリスト教サイドから)見られてもきた。


しかし、
イエスキリストと釈尊は、互いの存在を知らなかったが、両者の、世界に対する姿勢には不思議な一致がある。
二人の聖者の行状から推理するとき、両聖者の人々に対する思いは、同じではなかったか。
包まれた包装紙の絵柄はちがうが、贈りものの中身は同じだと、おれには思える。









そして、仏教内部でも同様のことが起きる。
同じ大乗仏教なのに似ていない禅宗と浄土の教えの関係。


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(過去記事統合増補編集再録)

主張1

 世間の常識はあげ底になっている。
それも甚だしいあげ底だ。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれだ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないのだ。



存在の意味に関して、多くの人々に共通している難点は、
答がわからないことではなく、問題がわからないことだ。
たとえば
「泣いて暮らしても一生。笑って暮らしても一生。同じ一生なら笑って暮らそう」
とみんながいう。
それはいい。
おれだってそうしている。
だけどそれは、人生とは関係ない。
たんなる処世術に過ぎない。
処世術は世渡りのテクニックであって、人生とはなんの関係もないことだ。
この一点を、はっきりさせておきたい。
この、人生に最も必要な感受性がまるで欠落している人のなんと多いことか。
こんな人々と人生についてなんの話ができようか。
死ぬ日まで、ずっと面白おかしく生きられても、そうでなくても、なにほどの違いがあるというのか。
大多数の人々は、そこに天地の差を感じているのだが、それは気の迷いだ。


平均人は、自分の置かれた状況にむやみに適応しようとする。
適応さえうまくいくと、それで我が事成れりと思いこむ。
自分がない。
レベルの低い、悪い意味で無私なのだ。
まず自分を持て。
自分を持って状況に応答するべきだ。
人間が生きるとはそういうことなのだから。
悪い意味で自分がない人間は、適応してから応答しようとする。
そんな仕組まれた予定調和の応答は偽物であり、したがって適応も本物ではないのだ。
自分のちゃんとある人間は応答して、結果として適応することがある。
適応すべきでない状況には、もちろん適応を拒否する。
応答は本物であり、したがって適応も(たとえ不適応に見えても)本物である。


仏教に、こういうストーリーがある。
片目のつぶれたサルばかりの集団に、1匹だけ両目の開いたサルがいた。
このサルは仲間はずれにされた。
みんなと同じじゃないという理由で。
それに耐えられず、とうとう自分で片目をつぶしてしまった。


集団の一部になることで、自分を見出したつもりになることの空しさ。


たいていの人間は、自分が所属すると信じているグループ(会社、国家等)の自由を確保維持することに熱心になる。
自分はグループの構成員として服従する。
(この狡猾な処世術を「滅私奉公」などと自讃して、あたかも「無我」と関係あるかのようによそおうが、実態は「グループぼけ」(澤木興道老師)にすぎない)
その見返りに、グループのもっている自由を分割享受できると満足を覚えるのだ。


しかし、ほんとうに必要なものは個的自由だ。
なぜなら、人間は必ず誰でも死ぬときはひとりで死ぬほかないからだ。
多くの人は、この一点の理解がないために、ばかげきった一生を終える。








人間は何万年も生きてきたが、いまだに死の問題を解決できないままだ。
もし科学技術で不老不死が可能になったとして、さてそれが死の問題の解決になるのか。
問題はいっそう恐ろしい様相を呈してくるにちがいない。


自然状態の人間には、ただやみくもに生き続けようとする以外に生きる目的がない。
これは、達成されることが決してない、むなしい目的だ。
人間が動物のレベルにとどまっているうちは、人生に救いはない。


人生は無意味だという事実を、明晰に知っている人はめったにいない。



宗教は、根本的に存在問題である。
存在問題というものに、人間は逃れようなく直面している。



たとえ話をひとつ。
生理の始まらない少女が
「周りの女たちが生理用品を使っているが、あれは間違っている。生理用品など必要ないことに、どういうわけで気づかないのか。私は生理用品が完全にいらないことを知っている。私には事実必要ないのだ。従って、生理用品などこの社会からなくしてしまうべきである」
と真顔で主張したら、みんなその小娘の幼稚さに噴き出すだろう。
ただし、その少女と頃合いのレベルの方々がいれば、やはり真顔で誠に賛成だと思し召すだろう。
宗教について、類同の感想を抱いている人は多い。
「私は宗教など必要ないことを知っている。私には実際必要ないのだ。ところが周りの連中は、どういうわけかそれに気づかない。ばかなやつらだ」と。


「存在問題への気付き」がいまだ始まっていない人に、宗教の事はてんからわからないのだ。
しかし、多くの人は手遅れになるまで気づこうとしない。


さあ、いよいよ死ぬ、というその時になって気づいても間に合わない。






(過去記事統合増補編集再録)
 「意志の自由のままに応じて、ここの客観はそもそも存在しないということもあり得てくるだろうし、また根源的に、本質的に、それがぜんぜん別の客観になるということだってあり得ることかもしれない。さらにまた、その客観が一つの環としてつながれている連鎖の全体を考えるなら、これ自体も同じ意志の現象であるからには、やはりまったく別の連鎖となることだってあり得ることかもしれない」
(「意志と表象としての世界・正編」第五十五節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 55 と表記する)


 これは、つまり、意志は完全なる自由だから、存在を捨て非存在=無であり続けることもできたはずだ。
また、われわれの想像もできないまったく別異の客観世界でもあり得たはずだ。
あるいは、この同じ世界の現象もまったく別種の法則体系によって出現させてしまうこともできるはずだ、とショーペンハウアーはいっているのである。









 およそ自由と呼ばれるもののなかで本物の自由があるとすれば、それは必ず超越的自由でなければならない。


どのようなもっともらしい理由をつけようと、強制的制約を受けた自由などというものは明らかに自由とは別のものである。


したがって、自由は現象とは矛盾する。


なぜなら、この世界には主客の対立や時空や因果律といった現象界の強制的制約が常についてまわるからである。


自由は、この世のものではない。
この世に本当の自由はない。


世界のすべての存在者はデフォルトで不自由者であり、自然の盲目で衝動的な生きんとする「意志」の影絵にすぎない。


 自由とは強制的決まりの全くないことである。
ほんのわずかでも強制的決まりがあればそれはもう自由ではない。


決まり(法則)のないことは偶然とも呼ばれる。
しかし自由は偶然(でたらめ)とは違う。


自由は内的必然、自律的必然なのだ。
自由は根拠律を持たず、自らを他のすべての根拠とするもののことである。
完全な自由とは、なにものにも強制されず、何事も自ら決めることである。


すなわち自由とは「意志」にほかならない。


もちろんこの場合「意志」とは、直接に人間の意志を指すのではなく、自分を映しだす鏡として世界を造った大いなる一者…すべての現象の究極原因たる「盲目の意志」のことである。






 人間の意志が、すべての表象同様すでに時空や因果律の制約を決定的に受けていながらそれでも自分は完全に自由だなどと錯覚していられるのも、それが「意志」のもっとも実物に近い絵だからだ。


 しかし、人間は本当に完全に自由ではないのだろうか。


ショーペンハウアーによれば、この世界に真の自由が現われるただ一つの例外的現象があるというのである。


しかもその唯一の自由の実現が人間だけに可能であり、ひとえに人間の努力にかかっている。


そのために、人間にだけは責任と罪ということもまた確かにあることになるのである。70


 よく知られた食物連鎖の図は、飢えたる意志という名の大蛇が自分の尻尾を噛んでいるように、おれには見える。


この食物連鎖というものは、それだけ見れば意味も目的も欠けているので虚無の表現にしか見えない。


それは一秒でも長く存在しつづけようとする遺伝子の盲目のいとなみだ。


ここでは、あらゆる有機体は遺伝子に次から次へと使い捨てにされる乗り物にすぎない。


意味も目的もない、始まりも終りもないグルグル回りである。


つまり ショーペンハウアーのいう盲目の意志だ。


自然の大いなる衝動(意志)は自分の欲しているものが何なのか知らない。


自己の表象としてのこの世界を「人間の認識能力」という自己の高度な表象を通して人間の中で人間とともに見つめる……このような回路によって意欲は意欲の何たるか(=自分自身)を知るのだとショウぺンハウアーはいう。54


そのとき初めて自身の盲目的なることをも知る。


欲しているものを知らない、ただひたすらな欲である自身の正体を知るのだ。


しかし、このように知る具体的な当体は人間にほかならない。


人間はこのとき、以上の一部始終を知ってしまう。


すると、人間(=一つの意欲)は、なんと大いなる自然の意欲そのものを是非しだす。


人間において、真の自由がほの見える瞬間である。


自分自身その一部分である自然の生きんとする衝動を肯定し身をゆだねるべきか、否定して まったく未知の人間だけの可能性に賭けるか……この<あれか これか>の選択。


自然的人間は、世界のあらゆる生きとし生ける存在者と共に否応なく前者になる。←平均人


せいいっぱい力んでも、今まで無自覚にしていたことを、あらためて自覚的にするようになるだけのことだ。←野心家


こうして大多数の人間においては、生れたばかりの真の自由は胚芽のまま枯れる。


自然の盲目の意志さながらに激しく喜び激しく苦しむ野心家の生きざまが、自然的人間の人生の究極の形なのである。


平均人はときに口では否認しても、心底では常に野心家の人生にあこがれている。


興業的に成功する物語が、ほとんどすべてといっていいほど野心家の生きざまを描いたものである理由はここにある。




ショ−ペンハウアーはくり返しいう。
生れたままの個人のまなざしは、マーヤーのヴェールに曇らされている、と。
この意味は二つある。


1 自分の存在と重要さを盲信するいっぽう、自分以外の存在と重要さを本当には信じていないのが人間の自然状態である。


2 このような自他を敵対するもの、というより事実上真に実在しているのは自分だけだとみなし、外界の存在をすべてたんなる表象にすぎないものとして、その重要さを軽視する動物的な限定されたエゴイズムは、錯覚なのだ。
人間の常態と、それが錯覚であるということ。
これを「個別性の迷妄」と呼ぶ。
(ショ−ペンハウアーによれば、自然が全体として示す盲目のエゴイズムがすでに錯覚である。だから、この個々の存在者が示す自己に限定されたエゴイズムは二重の錯覚である)
しかし、
なんと強固な錯覚であることか!
錯覚だとわかっても、どうにもならないのだ。




※「人間の常態」
自然状態の人間を、普通に表から見ると「無反省な実在論」だが、同じそれを裏から見ると「無反省な独我論」なのである。





 「いかなる個人といえども無限の宇宙に比すればほとんど無にも等しいほど小さく、今にも消え入りそうな存在であるにすぎないのに、それにもかかわらず各自があえて自分を宇宙の中心だと考えて、自分自身の生活と幸福とをほかのなによりもまず先に願慮し、いや、それだけにとどまらない、自然のままの立場にいるときには、彼は自分の存在のためとあらば、ほかのあらゆるものを犠牲にしてもよい覚悟であるし、自らは大海のなかの一滴にすぎないというのに、自分の自我をほんの少しでも長く保持するためならあえて全世界の絶滅をも辞さないという心がまえでいる」
61






ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志の消滅ではない。それは決して起こりえない。
「意志の否定」によって実際に現れるのは、
清められた意志
なのである。





ショーペンハウアーの「盲目の意志」…自分が何を欲しているか知らないひたすらな欲。姿かたちのない強力な生きんとする意欲のエネルギー


…生きんとする意欲それ自体に問題があるのではない。
自然状態の生きんとする意欲が、汚れて現れていることだけが問題なのだ。
意志に絡みついた三つの汚れを全面的に廃棄することこそが「意志の否定」の実際の意味なのだ。





ショーペンハウアーは「意志」の特徴をいくつかあげている。


意志は盲目であり、自分が何を欲しているか知らない点→これは

〔誼里留れ

である。


ひたすらな、強力な生きんとする欲である点→これは

貪りの汚れ

であり、その流れが滞ると

E椶蠅留れ

に変わる。






ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志そのものを直接否定・廃棄することではなく(それは原理的に実行不可能である)、自然状態の意志にまとわりついた貪・瞋・痴の汚れを否定することだ。


それは困難ではあるが、実行可能なのである。



※【貪瞋痴】とん‐じん‐ち
むさぼりと怒りと無知。貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴。



貪の否定→否貪=知足


瞋の否定→否瞋=安心


痴の否定→否痴=智慧



清められた意志は、知足・安心・智慧の意志となる。





自然状態の汚れた意志を清める可能性を、人間だけが有している。


人間が救われる可能性も、ここに確かにある(ここにしかない)







 ショ−ペンハウアーはカントの有名な定言命法(「汝なすべきであるがゆえになすべし」)を批判して「すべしというのは子供とか、幼稚な年令にある民族に向かって言うことであって、成人に達した時代の教養をすっかり身につけている人々に向かって言うことではない」という。53

 さらに「カントが世間にひろめているのは道徳的なペダンテリーであるという非難はおそらく免れ難いであろう」13とさえいっている。



※『ペダンテリー』
 学者ぶること。衒学趣味。



 たんなる知識・情報の一つとして知っていることと、「生ける確信」57 となっていることの間には越えがたい深い断絶がある。すなわち、なすべきことを知っているだけではまだ全然徳があることにはならない。


「われわれの道徳説や倫理学でもって、有徳の士、高貴の士、聖人君子をつくり出そうと期待するようなことは、美学でもって、詩人、画家、音楽家をつくり出そうと期待するのと同じくらい愚劣なことであろう」


「徳にとっては概念は役に立たず、道具としてしか用をなさない」

以上53


 徳についての概念による学習はキッカケになれるだけである。すなわちそれは人間が生来もっていた性質が現われるための機会因にすぎない。


 道徳教育が直接人間を道徳的にするわけではない。真相はその逆で、人間に徳がもとから備わっているかぎりにおいて、道徳教育もいくらかの意味と価値を認めうるにすぎない。


 じっさい論語を読むだけでみな人徳者になれるなら誰も苦労はしない。


 すべきそのことを本当に欲しているかどうかが問題なのだ。


 すなわち徳とは徳を欲することだ。しかし「欲するということは教えようがない」(セネカ)。55したがって、徳を教えることはできない。




「外部からの影響が、従来意志の欲していたものとはなにか本当に別のものを欲するように、意志に仕向けることはけっしてあり得ない」


「動機のなしうることといえば、意志の目ざす努力の方向を変えるということ、すなわち変わることのなく意志が求めているものを従来とは違った方法で求めるように意志に仕向けるといったことにつきている」

以上55 


 世の中には内心自分の判断力に自信のない人が大勢いることはいうまでもないことだ。そのような人々が過去の道徳的人物のエピソードなどを使った道徳教育を受けることによって、その善き他人の経験と教訓を自分の内部の自発的意欲の代用とすることはある。66


 さらに意図的なやり方が因果律的フィクションである。これは、善行にはかならず御利益があるといった内容の作り話によって、いわば偽の動機を相手の中に作りだす方法である。

 ショ−ペンハウアーはそのような欺瞞の代表例として「相手の認識を偽造する」62宗教的フィクションを次のように分析している。



「実際に目の前にある事情でも知られることがなければ効果を失うことがあるのと同じように、まったく想像上の事情であろうとも実在上の事情と同じ効果を発揮する」


「ある人がいかなる善行も来世で百倍のお報いがあるであろうと固く信じ込まされていたとしたら、かかる確信はいかにも文字通りに長期支払手形のように通用し、効力を発揮しつづけるであろう。彼が別の明察を得ていたとすれば、利己心にもとづいて他人から金品を奪い取るであろうが、彼は今のこの場合には同じ利己心にもとづいて、今度は他人にその金品を施すようなこともするかもしれない」

以上55 


このようなやり方では、人々の本来の徳の可能性は損なわれてしまう。なぜなら、そのようなフィクションを信じる者は自愛心からそうするにすぎないからである。現実への適応に失敗すれば二度とそのての話を信用しなくなる。
 かれらは道徳的教訓ばなしを自分の意欲の代用にしてはみたが、それで心の持ち方まで変えたわけではないからだ。66
それゆえ、彼らは実社会の中でもまれていくうちに、それが現実にあっていないことに気づき、今まで思い違いをしていたことへの失望と反動でそれ以後道徳的な事柄に対してことさらに冷笑的な態度や露悪的な行動をとるようになってしまうことが多い。

カントの名を出して「徳を欲せ」とはいえる。しかし効果は期待できない。「……単なる道徳のお説教をするというだけではなんら効果をあげることはできない。そういう道徳は動機づけ(理由づけ)を行なっていないからである。ところで動機づけを行なっている道徳が効果をあげることができるのは、ただ相手の自己愛に訴えることによってのみである。だが、自己愛から発したものには、道徳上の価値はない」66


「浄福へと導いていくものが、動機から、ならびに熟慮をへた計画的意図から生じるような所業であるならば、徳というものは、どうこじつけようとも、つねに小利口な、組織的な、
見通しのきいたエゴイズム
であるにすぎない」

70


 ショ−ペンハウアーは頭脳明晰な徹底したリアリストで、その洞察は真相を鋭くついている。


 欲することは本人のみがなしうる。



 しかし、おれ自身はショ−ペンハウアーほど仮借なき立場に立つ勇気はとてもない。おれは、動機にもとづく善行は真の善行(おのずからなす善行)の練習になるとおもうので善いことだと信じたい。ただし、なんであれ練習する者は目的意識をもたねば上達しない。これは自分が真の善行に少しでも近づいていくためにやらせてもらうのだという自己の身にそくした緊張感がなければならない。


 現実は、たいていそのことを忘れているか、あるいはそもそもそのことに気づきもしない。


 練習でしかないギブアンドテイクの善行に満足し、自慢さえして、そんな自分に何の疑問も感じないのでは上達は絶望的といわねばならない。








「人間はひとたび生れればあとは永久に彼であり、自分が何であるかは、あとから追い追い認識していくのみである」


「このような人になりたい、あのような人になりたい、と決心して人間にはできるものではなく、また別人になるなどということが不可能なのもそのためである」


「人間はいっさいの認識に先立ってすでに自分で自分を作り上げている作品だ」

以上55

 ショーペンハウアーの人間観を読みすすむにしたがって、平均人や悪人に対する非難攻撃がしだいに無意味な徒労に思えてくる。
 さらにショーペンハウアーの人間観を見てみる。



「われわれはただア・ポステリオリに、経験によってのみ、他の人々を知るが、われわれが自分自身を知るのもそれと同様である」
55

※『ア・ポステリオリ』
  学習によって後天的に獲得すること



「他人の性格は曲げられない、このことをわれわれは経験を通じてはじめて知らされる。経験でこのことを悟るまで、われわれはだれかある相手に理性的な考えを与えたり、頼んだりすがったり、手本を見せたり義侠心に訴えたりして、相手にその人なりのやり方を止めさせよう、行動の仕方を変えさせよう、思考のあり方を違わせよう、さらにその人の能力までも拡大しよう、というようなことまでやれるものだとわれわれは無邪気にも信じているのである。
ところがこれと同じことがわれわれ自身についても言えるのだ。
われわれも経験をまってはじめて、自分が何を欲し、何をなし得るかを学び知るよりほかに仕方がない。
経験でこのことを悟るまで、われわれはそれを知らず、また無性格な人間なのであって、たびたび外部からの苛烈な衝撃を受けては、自分なりの道へつれ戻されるような仕儀にならざるを得ない」


「人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというのではそもそもない」


「決断が起こってみなければ、われわれは自分がどんな種類の人間であるか分からないだろうし、行為をしてみてはじめて、われわれはそれに映して自分というものを知るのである」

以上55


 このようであってみれば、他人の生き方を攻撃するのはむしろ理不尽ではなかろうか。



 これは人間の実際の姿であるが、同時に「人は自分はこういう者だと思っているとおりの者になる」という深いレベルにおける事実も確かにあるとおもう。
 この「矛盾」は見かけ上のものにすぎない。
 同じひとつの事実を表と裏から二通りに表現しているだけだ。






(過去記事統合増補編集再録)

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