中年リーマンの壊落(快楽)人生

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壊落人生

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良く言われる事で「結婚は簡単に出来るが離婚は結婚の数十倍のエネルギーが必
要」と。まさに痛感させられました。

結果的に破局は平成7年4月でした。その間に色んな事があったのですが本当に
子供には迷惑をかけました。

上の子が中学3年 下が中学1年ですから最も多感な時ですので色んな葛藤が有
ったでしょうに。でも私の性格が一旦言い出すと止められない、自分でも判って
いるんですが悪い性格なんです。

上の子は時々メールをくれますが結婚して落ち着いているので安心してます。

離婚してから今年で12年立ち、勿論今も一人暮らしをしていますが結果は良か
ったんだか悪かったんだか私が死ぬまで結論は出ませんね。

(壊落人生 終了)

上の子供が生まれたのが昭和55年、下の子が57年で、その頃になるとようやく
しこりも取れて嫁の実家に出入することになりました。

毎年正月、GW お盆と年に3回は必ず遊びに行っていました。私は特にGWと
お盆は楽しみで、ドラキチでアンチ巨人の私は名古屋球場にドラゴンズを見に行
きました。球場の雰囲気最高でしたね。

それと、正月は静岡の袋井インターを降りた近くにある法多山の神社にお参りに
行くのが恒例となりました。日本海側と違い冬は毎日が晴で温暖で羨ましく感じ
ました。
法多山の神社に行く道すがら、両側にある茶畑が大変懐かしいです。

嫁の実家は農業で、主に刺身のつまに使うしその花を栽培しており、よく農作業
の手伝いもしました。

私の仕事も結婚当初に勤めた会社は経営者の放漫経営で勤めて1年で倒産してし
まいつまずきましたが、その後の会社は極めて順調で私の社内の地位も上がり
酒を飲まない(付き合いでは全然OK.しかしいまだに晩酌はしません)私が友人
と遊び始めたのもこの頃からでした。

上の子供が幼稚園の年長になった時に嫁がそろそろ家を建てないかとの話が有り
昭和61年2月に完成して引越しをしました。

最初の壊落人生1(転落の始まり)でも書きましたが仕事も順調になって来ると
金廻りも良くなり最初の内は家族旅行で香港やハワイなども出かけて居ましたが
それが仲間内の旅行になり、後は内緒で1人でも出かけて行きました。

家族旅行で一番印象に残ったのが上の娘が中学1年生になったGWで2年生になれ
ばそろそろ受験準備があるとの事で、4人で香港に行ったのが最後の家族旅行で
した。これが平成5年の5月ですからその2年後に破綻しました。
      (以下次号)

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1週間後位にどこをどう探したのかK子の親が突然私の実家を訪ねてきました。
当然の出来事ですがK子は親と会おうとしません。

K子の親はどこの馬の骨かもわからない私の事を見に来たでしょうが一緒に来た
K子のおじさんに説得されてようやく一緒になる事を承諾してくれました。
後で聞いた話では一応立派な家が有り、私の両親にも会って話をしてなんとか納
得したようでした

その場で結婚式の話になり豊橋で結婚式を挙げる事になりました。
私の親は不服なようでしたがこの話をまとめる為にしょうがなく同意したようで
した。

正式な結婚式を挙げるんだからK子に一旦帰って来る様に伝えて両親とおじさん
は帰って行きました。
花嫁道具は少ないながらもタンス等はこちらに来てすぐに買って置いたのを両親
が見て行きましたので嫁の両親はなにも用意しない事になりました。

その後K子は豊橋の実家に帰り、1ケ月に1回程度のペースで新潟まで来ると言
う生活を続けて翌年春にようやく豊橋の神社で式を挙げました。

私の方からの参加者は父、母、姉 弟それにおじさん2人でした。別にK子の実
家に呼ばれたわけでもなくて相当なジミ婚式でした。

結婚式の後で私の実家で生活することになったのですがちょっとしたことで嫁と
しゅうとめの関係が悪くなり別居する事になりました。
結果的には長男が家を継がずに出てしまい、後に自分の家を建てたのですから今
となっては親に悪い事をしたと反省してます。

結婚した年の大晦日に嫁の実家に挨拶に言った所、まだしこりは取れておらずに
全然歓迎されずに正月元旦に家を出て豊川稲荷に年始参りをして帰ってきました。
      (以下次号)

7月から新しい現場が名古屋の緑区の住宅でした。建主は市役所職員で3階建て
の2世帯住宅でした。

K子との付き合いも順調でしたが相変わらず父に反対されている状況は変わりま
せんでした。8月のお盆に2人で長野の蓼科高原に行く事にして親に話したら当
然反対されましたが無視してでかけました。当時はK子相当親に反発していまし
た。

8月後半に仕事上のトラブルが発生してしまいました。
現場で鉄骨の建て方をしている時にクレーンオペレーターのミスで鳶職人が骨折
してしまったのです。

悪い事は重なるものでその後もいろんなトラブルから会社をやめる事にしました。
この頃になると私の親も豊橋で働いているのが判っていまして、長男でもある私
に帰って来いというようになりました。

K子にこの話をするともちろん一緒に行くとの事で親に話してもどうせ通じない
との事で2人で作戦を考えました。

決行当日、夜10時過ぎにK子の家の裏側の道に行きました。丁度道路の上がK
子の部屋です。そこから持てるだけの荷物を投げて私が受け取るという夜逃げか
又は駆け落ちという状況でした。

二人で車に乗り東名高速豊川インター手前でK子の家に電話をして新潟に行くと
言って夜の高速道を名古屋に向かい、中央高速を長野方面に走って途中国道19号
線から18号で新潟まで来ました。
(以下次号)

A子の病名はママに内緒にしてほしいと言われて病院に見舞いにいきました。
本人は以外に元気でまだこの頃は検査の段階で放射線治療も行っておらず「早く
元気になれよ」って励ます事ができました。

その頃の私の現場は小牧の現場が終って岡崎の店舗と伊良湖の近くの住宅の現場
を見ていました。A子が入院してしまったのを境にママの店に顔を出す回数が
めっきり減ってしまいました。

4月に入って会社に新入社員が入ってきました。その中に私の人生最大の出来事
となる原因のK子がいました。なんか新入社員歓迎会で飲んで意気投合してしま
ったんです。

別に天秤にかける分けではないですがその後もA子の病院には行きました。
でも行くたびに表情が変わって来て、頭は放射線治療の影響で多分頭髪が抜けて
いただろうに、いつも帽子をかぶっていました。

K子との仲は順調で実家が豊橋の豊川近くの農家の娘で私と6っつ違いでしたが
親が大変厳格な家庭でいつも嘆いていました。そうこうするうちにK子から親に
合って欲しいと言われ、お母さんが私の下宿先を訪ねてきました。

翌日K子に聞くとお母さんは賛成してくれたが父が大反対といわれました。
その当時まだ結婚は考えておらず、又、社長夫人から会社のもう一人の事務員と
一緒になれみたいな事を言われていましたので心は混乱していました。

A子とは縁を切ろうと思いK子を連れて病院に最後のお見舞いに行きました。
もちろんK子は病室には来ませんでしたが、でもA子の顔を見るともう来ないと
も言えず、その後ママの店に行きました。

丁度ママのおじさんが店に居て見舞いに行ってきたと言うとA子を頼むって言わ
れました。ママの代弁をしたのでしょうがK子を見て悟ったみたいでした。
本当に気まずかったのですがしょうがありません。

その後1年半程たってからママに電話した時に娘の死を知らされて相当落ち込み
ました。
      (以下次号)

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