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今年の初詣は2年前に転んで骨折した淵神社からリベンジ。 雨上がりのさわやかな中で参拝しました。 (1) 拝殿の左には、大友宗麟の孫・桑姫ゆかりの社があります。 縁結びの神様と書いてありました。 (2) このあとは奥にある干支ごとの社に参拝。 淵神社の横には稲佐山ロープウェイの駅があります。 世界新三大夜景に選ばれたので葉加瀬太郎さんが曲を作ったらしい。 (3) (4) 淵神社の拝殿の前の道の先には福山雅治さんゆかりの宝珠幼稚園があります。 (5) 入口にアルバムのPRポスターが貼ってありました。 (6) 遊具は変わったかもしれませんが、ここで遊んだのでしょう。 (7) そこを抜けると2年前ケガした階段。。 (8) 無事に参拝は終えました。 この後は、2社目・松の森天満宮へ。 (9) (10) ここも静寂さがあり好きな神社です。 最後は諏訪神社へ。 スゴイ人出です。 (11) 途中、珍しい狛犬を見て、 (12) (13) 諏訪神社の拝殿へ。 (14) (15) よいことがありますように。。 車は、坂本龍馬など多くの人物の写真を撮った上野彦馬さんの家があった跡に建っている駐車場に止めました。 ここから観る路面電車の風景、なかなかいいなと思いました。
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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の家臣、栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門・後藤又兵衛。。とても印象に残った方々でした。 さらに官兵衛が有岡城に荒木村重によって囚われていたくだり。 播磨の国でも出来事がドラマでは多かったけど、そこで活躍した家臣たちは福岡藩に移ったあとも色んな足跡を残しているんですね。 黒田家は福岡城を中心に置きますが、家臣たちはその周りに居城を築き、そこに史跡を残してくれました。 そこで官兵衛の時代を想うことも出来ました。 体調を崩したので、全部廻れませんでしたが、年内に又兵衛以外は廻ってお墓で拝むことが出来ました。 官兵衛が荒木村重によって有岡城の土牢に囚われていたとき、その牢番をしていたのが加藤又左衛門でした。 大河ドラマでは官兵衛と会話するシーンもありました。 その又左衛門の子供が犬を連れて牢に来ていたシーンもありました。 牢を無事に抜け出た官兵衛は又左衛門からその子を貰い受けます。 その子は養子となり、長政の弟として育てられ、長政が元服した後は家臣となり、ドラマでは割愛されましたが関ヶ原の戦いなどでも多くの武功を上げました。 その子が幼名・玉松、のちの黒田三左衛門一成(ドラマでは一成で出てたので以降はそう書きます)になります。 長政が福岡藩主になったとき、家臣も禄を与えられ、福岡周辺に居城を築きます。 筑後川の北側にあり、その東側は大分県の日田市に接する今の朝倉市。 そこに栗山善助。 その西側に黒田一成。三奈木という地域を所領としたので三奈木黒田家と呼ばれました。 さらに嘉麻市へ(国道322号線北上)行くと、そこは後藤又兵衛が出奔し、その後益富城主となった受けた母里太兵衛が居城とした地域。 井上九郎右衛門は北九州市の黒崎と、ちょっと離れている。。 その黒田一成。(かずしげと読む資料とかずなりと読む資料がある)。 三奈木へは善助の円清寺から国道386号線に戻り、福岡方面に走りバイパスを走るなら北三奈木、バイパスを走らないなら十文字の交差点から寺内ダムへ向かいます。 走っていると寺内ダムの姿が正面に見えてきます。 そして黒田家御茶屋敷跡という史跡が右手に現れます。 (1) ここは三奈木黒田家のいうなれば別荘があった場所です。 (2) (3) 立派な庭園があったそうで、三代藩主黒田光之(官兵衛==>長政==>忠之==>光之)も泊まったらしいです。 また、参勤交代で藩主が江戸に向かう前には三奈木黒田家を訪問するのが慣例と、信頼も家格も高かったようです。 (4) そしてここから更に北上すると、一成が眠る清岩禅寺があります。 (5) 一誠という方は三奈木黒田家の6代目。 (6) (7) (8) 隠居して名乗った「睡鴎」の名前が墓石に刻まれてます。 (9) そして三奈木黒田家当主の碑があちこちに建ってます。字がうまい。。 (10) また、島原の乱に従軍したということで、亡くなった方の供養塔もあります。 (11) ここで三奈木黒田家を後にし、嘉麻市へ向かいます。 嘉麻市へは国道322号線を北上し、秋月を抜けて、クネクネの山道を通り、国道211号線にぶつかるまで走ります。 ぶつかったら右折し、211号線を500メートル程度走ります。 寒北斗酒造にぶつかったら左折。そこに母里太兵衛が眠る麟翁寺があります。 ※駐車場あり。 前回訪問した時は時刻が遅く、参拝や拝観が出来なかったので、今回は住職に詳しいご説明などを頂き、大満足の参拝でした。 ※拝観、記念品、線香を添えての参拝。1家族:1500円。 (12) 正月を前に角松が設置されていました。 (13) 前回訪問時にはなかった顔出しパネルもありました。 (14) (15) (16) (17) 合掌。。 日本号のレプリカ。 (18) さて、母里太兵衛ですが、大河ドラマでは、「もり」たへえと出てましたが、住職に伺った話では、「ぼり」が正しいらしいです。 江戸城の天守台を複数の大名が建設を担いましたが、黒田家も請け負い、太兵衛がその責任者で、立派に完了させたということで、家康公から書状をもらったそうですが、その宛名が「毛利」となっていたそうです。 住職のお話では、「ぼり」と名乗ったのが、いはゆる訛りで、相手には「もうり」と聞こえ、それが記録・記憶され、文書上「もうり」になったと。。 長政公は誤って「毛利」と書かれたことを苦肉の策として、「大身の毛利氏にあやかり苗字を毛利と名乗るよう」と太兵衛に話し、以降、毛利太兵衛となりました。 毛利姓はその後維新まで続き、明治になって戸籍を作るときに「母里」姓に戻したとか。 では何故「母里」を「もり」ではなく「ぼり」と読んだか。。 それは黒田家に残る文書に名前をあいうえお順に書いてあるのがあり、「母里」が、は行に書かれているそうなのです。 ま行ではなく、は行、つまり「ぼり」だから。 この話、すごく納得できる話でした。 他にもいろいろ聞かせていただきました。 このように麟翁寺ご住職のお話は歴史ロマンを感じさせるものがあり、訪問して大正解と思ったのでした。
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