お出掛け日記

いつの間にか10万越え。ありがとうございます。

歴史を感じた風景

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野山獄

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萩に来ています(^-^)/

写真は今日最後に訪ねた野山獄跡です。

松陰さんは松下村塾で教える前にここで過ごしたのですね。
仕事がだいぶん落ち着いてきましたので久々に更新しています。

前回、長崎街道の龍馬のことをふれましたが、そこで登場の横井小楠(よこいしょうなん)。
龍馬や勝海舟、福井藩主・松平春嶽など多数の人物に影響を与えた人物ですが、ゆかりの地は熊本市街地のほか益城熊本空港ICを降りて近い位置にあります。


今回は小楠の墓がある小楠公園と横井小楠記念館、四時軒(住居兼塾)を訪ねました。


益城熊本空港ICから熊本市内方面へ走ってすぐ、マックやセブンがある桜木6丁目の交差点を左折し南下。
ヤフー地図では桜木2丁目と記してあったが、信号には沼山津4丁目とあった交差点を左折。

150メートルくらい走ってすぐ右手に公園が見えてます。
入口の駐車場に車を止めて公園に入ると小楠の銅像の背中が右手に見えてきます。


そこを少し歩いて振り返ってみた風景。
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左手に銅像、中央に顕彰碑、そして右手、銀杏の先に遺髪が葬られている墓があります。


まずは手を合わせます。
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「小楠先生横井君之墓」
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お酒で色々とトラブルがあった小楠さんですが、お酒が供えてありました。


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銅像も顕彰碑もちょっと高い位置にあるのが拝見するのにつらかったな。。
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公園には遊具があるので、その上に登り、目線の位置から撮影。
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実に緑豊かな公園で、小楠さんも満足されていることでしょうね。



公園を後にして記念館へ。

我が家は来た道を戻り、来るとき左折した沼山津4丁目信号を今度はそのまま直進。

地図によればリンガーハットがある手前の道を左折してクネクネ道を進むのが一番近いようで、そう進みましたが、記念館の表側の駐車場は段差があり、我が家のような車はお腹をこすります(^_^;)


そこで記念館の方に聞いた道を進み、記念館裏手にある第2駐車場へ。
(おそらく沼山津4丁目信号を左折し、川にぶつかったら橋を渡らずに土手を走る)
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裏手からはまず四時軒がありました。
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四時軒は記念館の中から入れます。


ちなみにこちらが表門。
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記念館は資料や書簡などが多数展示されており、生涯を辿って行く流れで説明が続きます。


唯一撮影OKだった銅像原型。
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記念館は撮影不可でしたが、四時軒はOKでした。


松平春嶽公書によるもの(レプリカ)。
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小楠さんは福井藩の顧問もされてました。


応接間。
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龍馬もここで会ったのでしょう。
1回目、2回目は勝海舟に同行した際。行きと帰りですね。

3回目は薩長同盟を画策中に。
長州征伐に熊本藩が参加するということで、大喧嘩になったらしい。。


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お庭。
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四時=四季、ということで季節の風景を楽しめるこの地を選んだんでしょうか。。
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お庭にしだれ桜がありました。
その季節にまた来たいな。。
長崎街道は江戸時代、小倉から長崎までを結び、参勤交代など交通上の重要な道でした。

その長崎街道、坂本龍馬も通ったとされてます。

龍馬は30歳のころ、軍艦奉行並・勝海舟の門弟として長崎へ行ってます。
亀山社中の前です。

いはゆる4か国連合艦隊(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)が、関門海峡で砲撃を加えた(攘夷をした)長州藩の下関を攻撃するということで、その4か国に中止を求めるため江戸幕府の代表として勝が出向いたわけです。


そのときの勝一行のルートは、神戸から船で佐賀関へ入り、そこから阿蘇の北側、大津を経て熊本へ。
ちなみに熊本では、龍馬は勝のつかいとして横井小楠と会ってます。

その後は船で島原へ渡り、そこから長崎へ向かいます。

橘湾側よりを歩き、今の愛野から矢上(長崎市)か日見(長崎市)あたりで長崎街道に入ったと思われます。
帰りも同じルートであった、と当時の記録が残ってます。


この長崎行きは、4か国の攻撃を止めるという目的がありましたので、とにかく急いでます。

元治元年(1864年)2月5日に勝が江戸を出発し、2月14日には神戸出航。
長崎には2月24日には入ってます。

つまり、わざわざ遠回りして、この茶屋がある久山(くやま)を通ったか?ということです。

ロマンとしては楽しいことです。

ここで龍馬が休んだのかと思うとウレシイ感じはします。


とりあえず、歴史検証は置いといて、楽しもうかなと思います。



諫早方面から来ると久山の信号で左折、少し進むと長崎自動車道の高架を潜ります。
そこからちょっと進むと右斜めに入る細い道があり、橋を渡ります。

そこからスグ。
民家の入口付近に井戸があります。
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古い写真では井戸には何も掛ってないので、近年屋根などが付けられたのでしょうか。
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旅の途中で冷たい井戸水をおいしく飲んだのでしょうね。
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この井戸の先には長崎へ向かう長崎街道が続きます。
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当時の道はどうだったか分かりませんが、今は風情がある道になってますね。
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駐車場がないので路肩に止めました。

奥が長崎になります。
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変わってココは多良見付近。

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ここも路肩スペースに車を止めて、反転、歩きます。

1分程度歩くと道の分岐点と碑に出会います。
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ここから左は佐賀藩の領地だと書いてあります。
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右は大村藩の領地ということですね。



実はここ実家から近く、いつも通るたびに気になってました。
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右へ進むと国道34号線に合流することになります。
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佐賀藩の方へ少し歩きます。
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上の写真で軽トラが止まっているあたりに、この案内板があります。
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当時このように開けていたか分かりませんが、変わってなければここは風も通る景色がいいとこだったでしょうね。
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龍馬が次から長崎に来るときは船ですから、この道は印象に残った道だったのかもしれません。

井上九郎右衛門

昨年の大河ドラマ「軍師官兵衛」が佳境を迎えている頃、同じくして「信長協奏曲」が始まりました。

しかも「軍師官兵衛」に出ている俳優が別の役柄で。

「信長協奏曲」は原作はアニメらしい。
ストーリーは史実とは全然異なるけど、とても面白かった。

その中でも、高橋一生さんが演じた浅井長政は清々しくてとても印象に残りました。

「軍師官兵衛」では高橋さん演じる井上九郎右衛門は、官兵衛の父・職隆、官兵衛と仕えますが、実直で冷静な姿が心地よかった。

「軍師官兵衛」石垣原の戦いの回で、吉弘統幸(よしひろむねゆき)(的場浩司さん演)と戦うシーンは、「信長協奏曲」小谷城の戦いでの最後のシーンと重なり、感動的だった。

なお、信長公が義景・久政・長政公のドクロで酒を呑むシーンがドラマなどでありますが、その史実はなんとも言えないようです。それを裏付ける資料がないそうです。



さて、寄り道しましたが、少し前に井上九郎右衛門が眠る福岡県岡垣町の龍昌寺へ行って来ました。
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お寺の歴史は古く、1500年ころに建てられたそうです。
時代は流れ、お寺も衰えましたが、それを復興させたのが井上九郎右衛門だそうです。

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参道にはかわいい仏様がいっぱいいます。
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拝んだ後、左手の道を通ると井上九郎右衛門の墓があります。

井上周防守之房公、とありますが、これは1607年に徳川秀忠・家光公に拝謁した時に周防守となったそうです。大坂冬の陣の7年前です。

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お墓は木々に囲まれた静かなところにありました。
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高橋一生さんの姿を重ねながら、ドラマのシーンを思い浮かべながら、合掌。。



そのあとは北九州市にある、井上九郎右衛門が住んでいたとされる舎月庵へ。
井上九郎右衛門は黒崎城主でしたが、一国一城令によりお城はなくなり、この地に住んだということです。
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井上九郎右衛門が眺めていたであろう庭園は、今は病院になっています。
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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の家臣、栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門・後藤又兵衛。。とても印象に残った方々でした。
さらに官兵衛が有岡城に荒木村重によって囚われていたくだり。

播磨の国でも出来事がドラマでは多かったけど、そこで活躍した家臣たちは福岡藩に移ったあとも色んな足跡を残しているんですね。

黒田家は福岡城を中心に置きますが、家臣たちはその周りに居城を築き、そこに史跡を残してくれました。

そこで官兵衛の時代を想うことも出来ました。

体調を崩したので、全部廻れませんでしたが、年内に又兵衛以外は廻ってお墓で拝むことが出来ました。



官兵衛が荒木村重によって有岡城の土牢に囚われていたとき、その牢番をしていたのが加藤又左衛門でした。
大河ドラマでは官兵衛と会話するシーンもありました。
その又左衛門の子供が犬を連れて牢に来ていたシーンもありました。

牢を無事に抜け出た官兵衛は又左衛門からその子を貰い受けます。
その子は養子となり、長政の弟として育てられ、長政が元服した後は家臣となり、ドラマでは割愛されましたが関ヶ原の戦いなどでも多くの武功を上げました。
その子が幼名・玉松、のちの黒田三左衛門一成(ドラマでは一成で出てたので以降はそう書きます)になります。


長政が福岡藩主になったとき、家臣も禄を与えられ、福岡周辺に居城を築きます。

筑後川の北側にあり、その東側は大分県の日田市に接する今の朝倉市。
そこに栗山善助。

その西側に黒田一成。三奈木という地域を所領としたので三奈木黒田家と呼ばれました。

さらに嘉麻市へ(国道322号線北上)行くと、そこは後藤又兵衛が出奔し、その後益富城主となった受けた母里太兵衛が居城とした地域。

井上九郎右衛門は北九州市の黒崎と、ちょっと離れている。。



その黒田一成。(かずしげと読む資料とかずなりと読む資料がある)。
三奈木へは善助の円清寺から国道386号線に戻り、福岡方面に走りバイパスを走るなら北三奈木、バイパスを走らないなら十文字の交差点から寺内ダムへ向かいます。

走っていると寺内ダムの姿が正面に見えてきます。



そして黒田家御茶屋敷跡という史跡が右手に現れます。
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ここは三奈木黒田家のいうなれば別荘があった場所です。
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立派な庭園があったそうで、三代藩主黒田光之(官兵衛==>長政==>忠之==>光之)も泊まったらしいです。
また、参勤交代で藩主が江戸に向かう前には三奈木黒田家を訪問するのが慣例と、信頼も家格も高かったようです。
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そしてここから更に北上すると、一成が眠る清岩禅寺があります。
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一誠という方は三奈木黒田家の6代目。
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隠居して名乗った「睡鴎」の名前が墓石に刻まれてます。
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そして三奈木黒田家当主の碑があちこちに建ってます。字がうまい。。
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また、島原の乱に従軍したということで、亡くなった方の供養塔もあります。
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ここで三奈木黒田家を後にし、嘉麻市へ向かいます。

嘉麻市へは国道322号線を北上し、秋月を抜けて、クネクネの山道を通り、国道211号線にぶつかるまで走ります。

ぶつかったら右折し、211号線を500メートル程度走ります。
寒北斗酒造にぶつかったら左折。そこに母里太兵衛が眠る麟翁寺があります。
※駐車場あり。


前回訪問した時は時刻が遅く、参拝や拝観が出来なかったので、今回は住職に詳しいご説明などを頂き、大満足の参拝でした。
※拝観、記念品、線香を添えての参拝。1家族:1500円。
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正月を前に角松が設置されていました。
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前回訪問時にはなかった顔出しパネルもありました。
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合掌。。


日本号のレプリカ。
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さて、母里太兵衛ですが、大河ドラマでは、「もり」たへえと出てましたが、住職に伺った話では、「ぼり」が正しいらしいです。

江戸城の天守台を複数の大名が建設を担いましたが、黒田家も請け負い、太兵衛がその責任者で、立派に完了させたということで、家康公から書状をもらったそうですが、その宛名が「毛利」となっていたそうです。

住職のお話では、「ぼり」と名乗ったのが、いはゆる訛りで、相手には「もうり」と聞こえ、それが記録・記憶され、文書上「もうり」になったと。。

長政公は誤って「毛利」と書かれたことを苦肉の策として、「大身の毛利氏にあやかり苗字を毛利と名乗るよう」と太兵衛に話し、以降、毛利太兵衛となりました。

毛利姓はその後維新まで続き、明治になって戸籍を作るときに「母里」姓に戻したとか。

では何故「母里」を「もり」ではなく「ぼり」と読んだか。。
それは黒田家に残る文書に名前をあいうえお順に書いてあるのがあり、「母里」が、は行に書かれているそうなのです。
ま行ではなく、は行、つまり「ぼり」だから。

この話、すごく納得できる話でした。
他にもいろいろ聞かせていただきました。

このように麟翁寺ご住職のお話は歴史ロマンを感じさせるものがあり、訪問して大正解と思ったのでした。

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