土浦・浦安プチ単身赴任生活

こんな終了の仕方で残念ですがありがとうございました!

日記

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突然ですが・・・。

こんばんは。

突然ですが・・・。

本ブログを立ち上げて2年。前作、前々作も合わせれば7年ですかね?不定期ながらも自分と家族の成長記録として続けてきたブログでしたが、ちょとしたトラブルが発生し、人に不快な思いをさせてしまいました。

もっと公開範囲に於いては注意を払うべきでしたが、このような顛末で非常に残念な気持ちで一杯です。

丁度忙しくなってきたこともあり、一度ブログを休止しようと思っています。

別の形で復活するようでしたら長年仲良くさせていただいている皆様には、なんらかの形でご報告、連絡させていただきます。

こんな時代ですからSNSには細心の注意を払わねばと反省でございます。こんな形で締めくくるのも情けない話ですが、またご連絡いたします・・・。


おはようございます。土浦のマンションから更新しております。いやいや週の頭はあんなに暖かかったのに、昨日から急に気温が下がりましたよね。寒いのももちろんですが、寒暖の差が激しいのは効きますねぇ。

唐突ですが、先日BOOWYについてちょっと語った記事があったのですが、それに関連してボクのお蔵から色々なチケットが出土しましたので、なんでも鑑定団よろしくで紹介しちゃいます。

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米米クラブも観に行っていたんだなぁ。千葉市民会館ってのがオシャレだよね。まだShake Hipなどが売れていた頃かな?まだまだファンの女の子達がやたらコアな感じがしたなぁ。

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小室だぁ〜。野球部の練習の後に坊主頭と制服で中野まで出掛けたな。これもGet Wildが出た頃かな?TMの人気がどんどん上昇していった頃だよね。2,800円かぁ時代を感じるなぁ。宇都宮の歌下手だった。

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こんなのも出てきた。De−LAX?知らないでしょ?BOOWY解散後ドラムの高橋信が所属していたバンドだ。インディーズのカリスマ宙也(チューヤ)率いるロックバンドで結構はまったな。ベスト盤なんかも持ってるけど知ってる人いる?90年2月1日は東京は大雪で、開催も危ぶまれた位だけど、当時乗っていた親父のギャランにチェーンを巻いて空き空きの永代通りを通って武道館まで出掛けたのを覚えている。

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85年だ。高校1年生の時かな?今やCCレモンなんて名前が付いているが、元渋谷公会堂。中村あゆみを観にいった。なんと席は最後列だったが、当時「翼の折れたエンジェル」でブレイクしていたけど、男どもが野太い声で「う〜♪翼の折れたエンジェー♪」なんて盛り上がっていたよね。

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そして今日のメインはコレだ。甲斐バンドの(第一回)解散ライブin武道館。この翌週に以前紹介したBOOWYの初武道館を観に行ったわけだが、この時期中間テストの期間で母親に置手紙をして“逃げた”覚えがある(笑)。

お友達のけんじさんが甲斐バンドの大ファンで、カラオケでは甲斐バンドを熱唱していると言うことだが、ボクの甲斐バンドは小学校3年?4年の頃だ。けんじさんには負けちゃうな。

車椅子の母親についてはブログで何度か紹介しているが、だいちゅけの両親はどちらも公務員で、共稼ぎだった。当時は「何故母親が働きにいくの?」とか「そんなにお金に困っているの?」と周りの共稼ぎに対する視線は冷たかったようだ。

だいちゅけの弟が生まれたのは小学校2年だったので、それまではまさに一人っ子で育てられ、両親が仕事から帰って夕飯を終えると、必ず3人でフルーツを食べながら音楽を聴くという習慣があった。その時聴かされていたのは井上陽水。当時は結構キワモノだったね。その後興味はアリスに移り、毎日「冬の稲妻」「今はもうだれも」「ジョニーの子守唄」なんかを熱唱していたませた小学生だった気がする。

その頃、アノ「ザ・ベストテン」と言う番組の中で、甲斐バンドが「HERO・・・」でランクインした。あの番組は今思うと過激な番組で、土足で色々なところまでアーティストを追っかけていって、どこでも中継をしてしまうという掟破りな構成をされていた。当時甲斐バンドは松山千春や中島みゆきらと共に、TVに出ないアーティストで、NHKのラジオを甲斐よしひろが担当していたこともあって、「NHKオンリー」を標榜していた。

そのNHKの公開録音の場にベストテンが乗り込み中継をしたことがあったのだが、甲斐よしひろが「オレ達のNHKに今日はTBSの野郎達が乗り込んで来ている」的な発言をしたと思う。それが妙に格好よくて、脳裏に「甲斐バンド」が焼きついた。

その後4年生の社会科見学だったかな?京葉工業地帯に製鉄所を観に行ったような気がするが、その帰りのバスのなかで流れていたラジオで甲斐バンドの「ビューティフルエネルギー」って曲が流れてきた。この曲は甲斐バンドが化粧品のCMのタイアップで作った曲だったと思うが、この歌が妙に心に沁みた・・・。あの夕日とあの曲・・・実は小学校一の思い出になった気がする。

その後当時のテープレコーダーでAMラジオで「ビューティフルエネルギー」をエアチェックし、SONYのCHF(一番安いテープだね)が擦り切れるぐらい聴いていた。その後母親も甲斐バンドを侵犯しだして、ミュージックテープを買ってもらえることに。

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甲斐バンドの名盤「甲斐バンドストーリー」。まだ初期メンバーだね。この後ベースの長岡和弘が脱退する。この後に名曲「安奈」がヒットし、84年には、なんとARB(石橋稜のバンド)からリーダーである田中一郎が脱退し甲斐バンドに加入する。

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武道館2DAYSを収めた「流民の歌」。こういうミュージックテープって最近見ないよね〜。高速道路のSAで演歌歌手のミュージックテープを見るくらいだ。

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アルバム「地下室のメロディー」。この頃は年間85回のライブをこなし、当時コンサートの動員数NO.1を獲得していたらしい。そして両国国技館のこけら落としLIVEと共にバンドの解散を発表する。

その解散ライブが先のチケットなのだ。北の旅人さん的な記事の進行をするなら、そのライブで隣の席の女性(ボクが16歳、彼女は25歳くらいかな?)が、「安奈」の曲の途中に一すじの涙を流したのを妙に覚えている。この涙が今でも美しい甲斐バンドの思い出としてボクの中に残っているのだ。

こんな甲斐バンドだったが、その後解散、再結成を繰り返し、ちょいと顰蹙すら買うぐらいになっている。この辺はBOOWYの格好良さと一線を画しているけどね。

小学校5年から中学校2年生まで大学ノートに「だいちゅけの週間ベストテン」ってのを書いていて、毎週「自分の好きな順位」を付けて(笑)、毎週休まずに書き付けていた。その総合1位は多分「ビューティフルエネルギー」ではなかろうか?けんじさんに言わせれば「甘い甘い」なんだろうけどね。

今は「テレフォンノイローゼ」「きんぽうげ」「ダニーボーイに耳をふさいで」なんかが沁みるよね。以前けんじさんが「メモリーグラス」って曲(堀江淳じゃないよ)にハマッているなんて書いてたけど(笑)。

なんだかYahoo!ブログの新規投稿画面がなんか変!!!皆さんはいかがですか?なんだか背景が水色だしdelete出来ないし散々でございます。

おはようざごいます。寝苦しかったなぁ〜昨晩は。今朝がたは急に涼しくなりましたけど、夜はきつかったですね。勿論冷房は扇風機だけなので・・・
 
一昨日と昨日で若洲のキャンプ場でキャンプをしたことは前稿の冒頭で触れました。いやいや結構キャンプって疲れますね。キャンプ当日もそうなんですけど準備と後片付けがハンパないっすね。昨日の夕方も洗剤でごしごしとBBQコンロを洗ったり、寝袋を4セット干したり、クーラーBOXを洗ったり・・・。妻もたまりにたまった洗濯物に悪戦苦闘しておりました。
 
アクティブだいちゅけ、本日は実家の親父と母親をいつもの勝浦(別宅です)に連れて行こうと思っております。母親は脳梗塞で倒れて以来初めてのレジャーでの外泊なので、かなりウキウキしているようで。先日買った折り畳みベッドを勝浦のマンションに送ったとのことです。丁度次男と三男も暇そうだし、家にいると長男の受験勉強の邪魔をするので、こいつらも一緒に連れて行く予定です(笑)。
 
今、朝の情報番組を観ながら朝食を取っておりましたが、最近のSAやPAは運営を民営化したおかげでとっても魅力的になって来た。TBSの「あさチャン」(ボクはこれが一番好き)でも羽生のPA(上り)を紹介していたけど、実は5月末にここを訪問しているのでちょっとだけ紹介したい。
 
お友達のムーランさんも訪れていて、その記事を読んで行ってみることにした。
 
5月最後の週末だったかな?金曜日の夕方から関東方面の統括支店である宇都宮で会議があって、夜はディープな懇親会をやって、翌日は早朝から苦手なゴルフ。へとへとになって宇都宮から自宅の浦安に直接帰ることにしたので、ちょうど東北自動車道を上って行くことになった。
 
途中「羽生PA」の文字が見えたので「ムーランさんの記事にあったな」を思い出し車をPAに滑り込ませた。
 
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うおー!急に古民家群が現れる!とにかくトイレだ。
 
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ここ羽生PA(上り線)は鬼平犯科帳の世界を演出しているのだそうだ。なんで羽生?と思いつつも、まずは世界を見てやろうとPAの中へ。
 
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呉服問屋「近江屋」さんがある。本格的だね・・・。
 
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「そふとくりいむ」???にしても高いぞ!
 
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見世物小屋??なにがあるんだろう?しっかしなぜ羽生???
 
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PAの中はお店が一杯。この時は17:00頃だったので「今買い食いしては夕飯が不味い!」と思って我慢我慢・・・。
 
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お土産ものも一杯だ。思わず手を伸ばしてしまいそうになるが、ふと正気に戻ると
 
「なんでボクの地元のお土産を羽生で?」
 
と、根本の疑問が首をもたげる。オレ深川生まれだよ・・・。
 
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妻が船橋屋のくず餅が好きなので、土曜日にゴルフをやった罪滅ぼしと思わず並んじゃった。でもさぁ〜船橋屋って江東区の亀戸天神の入り口にあるんだよね〜。亀戸天神って言ったら中学生の時に合格祈願に行っていたがな・・・。
 
まぁそんなこと言っていたらココは楽しめないぞ!
 
こうして羽生PA巡りを終えた。最近はどこのSAやPAに寄っても何かとサプライズがある。やろうと思えばSAに特化したブログも書けそうだ。今日も勝浦に行くけど館山道の市原SAも有名みたいだから寄ってみようかな?
 
朝の情報番組。ボクは5:30には毎朝起きてしまうので、土浦に住んでと言うもの毎日チャンネルをかちゃかちゃ回して見ている。ボクの優先順位はTBS「あさチャン」⇒テレビ朝日「グッドモーニング」⇒日本テレビ「ZIP」⇒フジ「めざましTV」。とにかくボクはフジテレビが大嫌い。妻にも「そこまで言わなくてもいいじゃない!」って言われるけど、最近のTV文化のレベルを下げたのはフジだと思っている。お台場でもイベントやってるけど「なんなん?あれ!?」って白い目で見ているボク。
 
今TV曲は「テレビ東京」でしょ!土曜日の夜なんか最高の企画をやっているよね。「ガイアの夜明け」も「カンブリア宮殿」もテレビ東京だしね。「アド街っく天国」も相変わらずいいしね。「もやもやさまーず」も何だか観ちゃう(笑)。
 
NHKも会長の勘違いがなければね・・・。
 
さてさて両親を迎えに行くかな・・・。
おはようございます。前項陸上自衛隊古河駐屯地祭の記事にお付き合いいただき有難うございました。
 
さてここからは、ファン登録いただいた方々の中でもディープな皆さん限定でお送りいたします。ってこの記事・・・。朝書き始めたのですが書き終えたのは夕方(笑)。なんだか歴史の教科書みたいになってしまいました。興味のない方は読まない方がいいですし、興味ある方も「ここは違うんだよ!」ってご意見もあると思いますので、コメント欄割愛にてお送りいたします。
 
前回の記事で「陸軍分列行進曲」について触れましたが、だいちゅけの知識の範囲で歴史背景をUPしたいと思いますのでお付き合いの程。
 
遡るは黒船来航。アメリカ東インド艦隊司令ペリー率いる艦隊が下田沖に現れたのが日本近代史の始まり。260年に及ぶ鎖国により海外との経済、文化交流を最小限の縮小していた日本が、初めて近代的な武力の前に騒然となった。日本人はそれまでの平和に安穏とした「日本という国(当時は日本という括りは一般的でなかった)」が世界という枠組みにおいてどの位置にあるのか?そして西欧列強にどのように対峙していくのか?初めて考えることとなる。
 
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そこで現れたのが「開国」という思想と「尊王攘夷」という思想。前者は国を開いて西洋の文化をどんどん受け入れこれを吸収し、西欧列強に追いついていこうという思想。そして後者は天皇を中心とした国家を再建し外国を打ち払おうという思想だ。徳川幕府の中枢部(当時は井伊直弼)は現実的な選択肢として開国して西洋の文化を取り入れていこうという考えを選び、日米和親条約、日米修好通商条約を結び日本の各港を開港していくわけだが、これに反対する攘夷思想家たちはこの井伊直弼の方向性に待ったをかける。
 
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もともと尊王攘夷思想の発信源は水戸藩。そしてその思想に大きく影響を受けた長州藩などで広がりを見せるが、特に長州藩では1600年の関ヶ原の戦いから徳川幕府に対する積年の恨みもあり、それが尊王思想とあいまって、倒幕(幕府を倒して天皇中心の新しい世の中にする)という考え方に発展するのだ。
 
井伊直弼は開国路線を阻害する尊王攘夷思想の大弾圧を行うが、その最たるものが「安政の大獄」なる事件。有名なのは長州の思想家吉田松陰の斬首。
 
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そしてこの安政の大獄に対する報復であり、開国思想へのテロともいえる事件が水戸・薩摩を中心とした脱藩浪士による「桜田門外の変(井伊直弼殺害)」だ。
 
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一方京都では長州藩が朝廷の尊王攘夷思想化を推進する一方、倒幕に向けての活動を活発化させるのだが、これを危険視した幕府が差し向けたのが会津藩。もともと会津藩の祖、保科正之は二代将軍徳川秀忠の隠し子。徳川秀忠の妻は大河ドラマでも主人公になった「お江の方」。この人めちゃくちゃ嫉妬心の強い方で秀忠に側室を持つことを許さなかったお方。秀忠も男の子で下女に手を付けて生まれたのが保科正之で、お江の方から匿うように隠密に保科家に養子に出した。
 
三大将軍家光の代になり、保科正之は表舞台に登場するのだが、この保科正之は現代のビジネス書でも取り上げる程「己を知る男」で、将軍の弟でありながら、養子に出た身と謙虚に家光に尽くす。諸大名に対しても末席に鎮座しでしゃばることをせず、その態度に家光は大いに正之を信頼し重用した。
 
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徳川家親藩の証「松平」の姓を下賜されても、自分の存命中はこれを辞退し、息子の代になり始めて「松平」姓を名乗ることになり会津の地を拝領するのだ。この保科正之の末裔故、会津藩松平容保(まつだいらかたもり)は「貧乏くじ」ともいえる京都の京都守護職(警察長官)を拝命し京都に駐屯する。この拝命の苦悩は現在文書が出てきて明らかになっていて、会津藩の宿命は将軍家を補佐することだと苦渋の選択をした。新選組はこの会津藩の管轄下の浪士による秘密警察。
 
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おっと幕末の大事なフィクサーである薩摩藩を忘れていた。薩摩藩は豊臣秀吉の天下統一事業に於いても最終段階まで臣下の礼をとらなかったし、関ヶ原においても徳川に相対する西軍に組し、関ヶ原敗戦の後も幕府から最も辺境の地で独自の発展をしてきた独特な藩で、260年の間も心から徳川幕府に忠誠を誓ってはいない藩とも言える。この薩摩藩の存在が幕末や明治維新を更にややこしくするのだ。
 
ここまでの会津藩・長州藩・薩摩藩の立ち位置が分かれば、案外幕末も読み解き易い。長州藩が京都にて倒幕活動をしている際、会津と薩摩は手を組み長州鎮圧に力を入れる。ここで起こったのが八月の政変(蛤御門の変)で京都でクーデターを起こそうとした長州藩や長州系の公卿を一気に京都から駆逐する。
 
もう一人幕末を難しくしているのが当時の孝明天皇。「夷敵が怖いから打ち払ってくれ」って言うから長州は攘夷を断行、しかし長州が力を持つと「長州が怖い〜」って言い出す始末。この天皇の発言(本当に言っていたかは定かではない。取り巻きが言わしていると思うけど)で政治は思いっきり揺れる。
 
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長州藩追放の後、天皇が「長州怖い〜征伐しておくれ」と言う意向を受けて行われたのが長州征伐。幕府側は長州藩征伐の為に西へ西へ軍を進める(内戦なんてやっている場合じゃねーぞぉー!!うかうかしていると西洋に呑まれるぞ!)。この遠征の総督が後の15代将軍徳川慶喜(一橋慶喜)なのだ。
 
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さて長州。ここで登場するのが高杉晋作率いる「奇兵隊」。これが日本の軍隊の始まりではないかと思われる。要は攻めてくる幕府軍を迎え撃つために、士族だけでなく町民・農民・神官・力士など様々な階級や諸種の人間たちを兵隊として採用する。それまでの戦争はちょんまげを結った士族階級がするもので、平民なんて領主が誰になろうと“生活をよくしてくれる人”なら誰でもいいと思っていた。
 
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幕府側から見れば町民や農民が鉄砲持って攻めてくるんだから「奇妙な兵隊だなぁ〜ありゃ〜!笑っちゃうぜ!」ってことになる。それが故の「奇兵隊」というネーミングなのだ。この町民・農民を徴発する考えが徴兵制度に昇華し、日本の軍隊が出来上がる。だから高杉晋作死後に奇兵隊を率いることになった山縣狂介(後の山縣有朋⇒椿山荘は山縣有朋の屋敷跡だよ)が、明治の陸軍を独占、専有するのもこの流れなのだ。
 
実は幕末は「開国」対「攘夷」、「朝廷(勤王)」対「幕府(佐幕)」、「武士階級」対「平民階級」というった様々な対立関係が存在しているので、教科書では教えるのは難しい。近代史を捉える上で“超”大事な日本の一大転換期なのに「大政奉還による徳川幕府の政権返上」位しか触れないもんな。
 
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このオヤジの人事いじりで日露戦争は苦労したなぁ・・・。
 
そして福山雅治が登場・・・。ちゃうか?土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎が登場。坂本龍馬は当時もっとも開明的で世界が見えていた男という評価がある。薩長同盟によりそれまで犬猿の仲だった(だって蛤御門の変で長州は薩摩にボコボコにされているもんね)二つの藩を「倒幕」という共通目的に、二国間貿易という経済的な手法で向かわせる。
 
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でも本当の龍馬の目的は倒幕でなく、西欧列強から「日本」を守ることの方が重要だったようだね。大政奉還という考え方がそれを如実に表している。
 
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ここでまた薩摩。寝返るよねぇ〜要は薩摩藩はどう薩摩が日本を牛耳っていくかを考えていた(こんなこと書くと鹿児島の人に怒られるな・・・)のだと推測される。明治維新だけをとると老獪さは薩摩が抜きに出ている。それもそうだよね260年徳川に阿ることもなく独立国家を形成しているに等しかったわけだから。今更徳川政権を守ろうなんて本当に考えてはいなかった筈。長州藩の方が純粋に帝を外敵からお守りするという一念で戦っていた様だ。
 
そしてここからは龍馬伝でもご覧になっていれば分かる展開。本来は薩摩・長州は武力を持って幕府を倒し、自分たち中心の新政権を建てようと思っていたのだが、本来薩長の味方であったはずの坂本龍馬が肩すかしを食らわせる形で「大政奉還」を行い、徳川家を守ると共に内戦を極力行わないような幕引きを企てる。
 
龍馬は「一番心通わせていたのは徳川慶喜なのかもしれない」と大政奉還直後に言っていたとか(小説の作り話かな?)。
 
だから龍馬暗殺の謎の上で「薩摩藩殺害説」が根強いのは頷ける。薩長にとって武力による倒幕を阻害する邪魔者でしかないのだからね。
 
そして龍馬死後、薩長は有名な「錦の御旗(天皇の旗)」を独自に作成し、後の明治天皇である孝明天皇第二子を立て「我は官軍」姿勢を以て京都に攻め込むのだ。明治天皇は孝明天皇の次男でお母さんは中山忠能(このおっさんも倒幕側)の娘慶子さん。ここにも陰謀の色が見え隠れするね。だいたい孝明天皇は毒殺されたって話が今を以て定説の一つとなっているのがその証拠・・・。
 
西郷さん!あんたはヤバい人だよ!上野の山で暢気に犬の散歩をしている人じゃないんだよね?ねぇ???そーでしょ?
 
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錦の御旗を以て官軍は京都・大阪で会津を中心とした幕府軍を駆逐し東征する。各地では越後戦争や会津戦争、江戸開城様々な悲劇が生まれるのだが、ここで取り上げるは会津戦争。去年の大河ドラマ「八重の桜」でご覧になった方も多いと思うが、綾瀬はるかの言葉を借りれば「会津を苛めるな!」だよね。先に記した会津藩成り立ちの宿命を以て「貧乏くじ」を引かされた会津だが、薩摩は寝返るは、最後は徳川慶喜もとんずらするわで、散々な目に遭った。
 
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さらに倒幕に動いた志士たちを鎮圧したかどで、倒幕派からは目の敵にされ、ボコボコにされる。新選組の存在も「会津憎し!」を助長させた一つの要素かもしれない
ね。会津戦争に負けた会津藩は下北半島の先っちょに転封され、筆舌に尽くしがたい生活を送った。だから会津の人たちの中には「薩摩憎し!」の感情が自然に芽生えたと言ってもいい。
 
明治の世の中になっても会津の人たちは「賊軍」のレッテルを貼られ、政府の中枢に入るなんてことは絶対になかった。そこで明治10年の西南戦争だ。やっとここまでたどり着いた。
 
明治の世の中に入り四民平等の世の中になった。言うなれば初めて日本人が「国民」になったわけだ。そこで困ったのが旧士族階級。内戦もなくなってはおまんま食い上げと言うわけだ。更に徴兵制度が施行され旧士族の活躍する場がどんどん減り、特権階級として安穏としていられなくなった。そこで西郷は征韓論(せいかんろん)なる朝鮮を攻めることによって旧士族の食い扶持を維持しようなんて、とんでもない論理を持ち出し(豊臣秀吉バリだな・・・)、それが取り上げられなくなるとプイと明治政府から背を向けた。
 
ここが西郷隆盛という人物の限界であり、彼の頭は薩摩至上主義から出ることはなかったのだろうと推測される。明治政府の中枢にいても常に自分の故郷であり同胞を思うことのみで日本と言う枠組みでモノを考えるには至らなかったのだろう。その点盟友の大久保利通は違った。明治政府は大久保政府と言われるくらい大久保主導で運営された政府だが、大久保は維新が成就した瞬間、新しい世の中の枠組みを模索し始めた。
 
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明治4年には岩倉具視を首班とする岩倉使節団に同行し、世界と日本の歴然とした差を思い知ることとなる。今では考えられないのだが、内閣全員が内政をほっぽり投げて1年間の外遊に出かけるのだからすごい!それだけ西欧列強の経済や文化を早急に取り入れ、世界の一等国に名を連ねるべく奔走したのだ。絹と米しか産業のなかった弱小国が世界の列強に肩を並べようなんて、西洋の国々から言わせればちゃんちゃら可笑しい話に違いない。
 
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おっと西郷だ。ご存知の通り征韓論に敗れた西郷は政府から脱退し下野する。そこで薩摩の若い衆に担がれて西南戦争へ突入するわけだ。最後は故郷の若い衆の決起に参加してしまうあたり、大久保利通とはレベルが違うな。歴史家をして西郷隆盛は天才革命家ではあるが、平時の執政者としては甚だレベルが低い人物と言わしめている。司馬遼太郎の「竜馬が行く」の最終回で司馬は「坂本龍馬という人物は幕末という時代に神様がこの世に降臨させた人物」と言っているが、まさに西郷隆盛も同じように明治維新(革命)を起こすにあたって不可欠な人物だったのだろう。
 
その後、龍馬は暗殺と言う形で歴史から消えていくが、西郷も西南戦争という日本における最後の内戦で歴史から姿を消す。実は大久保利通も西南戦争が鎮圧されてからすぐに暗殺されている。
 
西南戦争に於ける若者の主張は「政府が腰抜けだから我々が貧困に喘ぎ、西欧列強に舐められるのだ」と言うもの。先にも述べた様に明治政府が行う一つ一つの政策(廃藩置県、版籍奉還、廃刀令などなど)が彼らの既得権益を侵すものであることが、政府糾弾の最大の理由なのだ。
 
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まぁ旧士族からすれば命を懸けて徳川幕府を倒したのに、元の世の中の方がまだ良かったなんてたまったもんじゃないもんね。郷里の青年たちにとったら政府の輩は自分の故郷をないがしろにして自分たちだけで利益を貪っているとしか思えなかったのだろう。
 
さて序盤は西郷と共に下野した桐野利秋(元陸軍中将)、篠原国幹(元陸軍少将)を中心とした薩摩軍が連戦連勝で北上し、新政府軍の拠点である熊本城を包囲した。この反乱を鎮圧するために新政府は大量の兵力と物資を投入する。
 
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これを率いるは旧薩長の陸軍幹部。薩摩藩にて西郷の同僚でありながら、袂を分かった弟の西郷従道や大山巌(西郷の従弟)などが中心となり鎮圧に向かう。軍隊だけでなく、薩摩藩出身の川路利良率いる警察も鎮圧に参加するのだが、この警察に会津藩の残党が多数参加している。明治政府の中枢にも軍隊でも冷や飯を食わされる旧会津藩の人々は、警察官の公募に対し「我こそは憎き薩摩をぶちのめす!」という復讐心で多数応募をし、多くが薩摩軍鎮圧に向かっている。
 
さて熊本城下での激戦に於いて、薩摩武士の斬りこみ隊が新政府軍を圧倒する。いくら進んだ火器を有していても、日本一剽悍な薩摩の武士に斬りこまれたら、平民出身の兵などは崩れるように退散してしまう。ここで新政府軍は「刀には刀を!」と言うことで、警察の中から白兵戦部隊を選抜することとなる。
 
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そこには前述の通り旧会津士族が参加するのだが、この新政府軍の斬りこみ隊を「抜刀隊(ばっとうたい)」と呼ぶ。とにかく会津の警官隊は積年の恨みを晴らすべく勇敢に薩摩の兵隊に襲い掛かる。この姿を見て腰の引けていた新政府軍は息を吹きかえし、新式の火器を投入して薩摩軍を次第に追いつめていくのだ。
 
さてさて「抜刀隊」は実は警察が会津藩を中心に選抜した斬り込み隊であり、本来は警察の曲とも言える。だから警視庁の観閲式や警察庁管轄の観閲式では陸上自衛隊と同じくしてこの「抜刀隊」が行進で流れるのだ。作詞は外山正一、作曲はフランスのお雇い外国人シャルル・ルルー。明治18年に鹿鳴館で発表されたとか。歌詞はまさに西南戦争を歌っており、その後陸軍が行進曲として採用している。
 
西南戦争が最後の国内の内戦であり。この後陸軍の単位は内向きの「鎮台」から、外征向けの「師団」という単位になる。
 
さてさて「抜刀隊(陸軍分列行進曲)」の歌詞は下記の通り。
 
抜刀隊
我は官軍我(わが)敵は  天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は  古今無雙(双)の英雄で
之に從ふ兵(つわもの)は  共に慓悍(ひょうかん)決死の士
鬼神(きしん)に恥(はじ)ぬ勇あるも  天の許さぬ叛逆を
起しゝ者は昔より  榮えし例(ためし)あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄(それまで)は  進めや進め諸共に
玉ちる劔(つるぎ)拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし

皇國(みくに)の風(ふう)と武士(もののふ)の  其身(そのみ)を護る靈(たましい)の
維新このかた廢(すた)れたる  日本刀(やまとがたな)の今更に
又(また)世に出づる身の譽(ほまれ)  敵も身方も諸共に
刄(やいば)の下に死ぬべきぞ  大和魂ある者の
死ぬべき時は今なるぞ  人に後(おく)れて恥かくな
敵の亡ぶる夫迄は  進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし

前を望めば劔なり  右も左(ひだ)りも皆(みな)劔
劔の山に登らんは  未來(来)の事と聞きつるに
此世(このよ)に於(おい)てまのあたり  劔の山に登るのも
我身(わがみ)のなせる罪業(ざいごう)を  滅(ほろぼ)す爲にあらずして
賊を征伐するが爲  劔の山もなんのその
敵の亡ぶる夫迄は  進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし

劔の光ひらめくは  雲間に見ゆる稻(稲)妻か
四方(よも)に打出(うちだ)す砲聲(声)は  天に轟く雷(いかずち)か
敵の刄に伏す者や  丸(たま)に碎(砕)けて玉の緒の
絶えて墓なく失(う)する身の  屍(かばね)は積みて山をなし
其血(そのち)は流れて川をなす  死地に入(い)るのも君が爲
敵の亡ぶる夫迄は  進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし

彈丸雨飛(だんがんうひ)の間にも  二つなき身を惜(おし)まずに
進む我身は野嵐に  吹かれて消ゆる白露の
墓なき最後とぐるとも  忠義の爲に死ぬる身の
死(しに)て甲斐あるものならば  死ぬるも更に怨(うらみ)なし
我と思はん人たちは  一歩も後へ引くなかれ
敵の亡ぶる夫迄は  進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし

我今茲(ここ)に死(しな)ん身は  君の爲なり國の爲
捨つべきものは命なり  假令(たと)ひ屍は朽ちぬとも
忠義の爲に捨(すつ)る身の  名は芳(かんば)しく後の世に
永く傳(伝)へて殘るらん  武士と生れた甲斐もなく
義もなき犬と云(い)はるゝな  卑怯者(ひきょうもの)となそしられそ
敵の亡ぶる夫迄は  進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし
 
抜刀隊を紹介するつもりがなんだか「3分で読み解く“だいちゅけによる幕末・明治維新史”」になってしまったなぁ〜。

イチローさんのお土産

前稿のイチローさんコラボで頂いたお土産紹介。
 
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先日讃岐うどんの名店「山」から頂いたうどんを食べた記事を書いた時、白ネギしかないことをぼやいたら・・・青い葱を買ってきてくれました!!
 
お菓子に佃煮。この佃煮朝ごはんにお茶漬けで食べたら超まいうぅ〜!!!どんどん御飯がお腹に入っていってしまた。きたじまのメンチも美味しかったっす!
 
「超きもちぃぃぃ〜!」
 
イチローさんありがとうございます!

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