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人間の利他行動は感情に起因すると私は思っていたが、
フランス・ドゥ・ヴァールは著書『道徳性の起源』で次に述べている。
人間の利他行動は、困った者に対する共感から生まれる。
(著書45頁)。
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こんにちは、ゲストさん
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人間の利他行動は感情に起因すると私は思っていたが、
フランス・ドゥ・ヴァールは著書『道徳性の起源』で次に述べている。
人間の利他行動は、困った者に対する共感から生まれる。
(著書45頁)。
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おっと、「愛」を語っていたら<愛>が現れた。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午前 11:45
うん、
「慈悲喜捨」
「慈悲と智慧」の二本柱
いいね。
実にいい。
<愛>はそれを大事にすればいい。またその見識は無敵だ。誰も反論できない。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午前 11:49
前にも指摘したが、キリスト教は神の分析に力を注いだ。神観や神論だ。
仏教は人間の分析に力を注いだ。
したがって、やみくもに「汝の敵を愛せよ」と言われても、キリスト教徒はそれを実践できなかった。いくら神の命令でも出来ないことは出来ないとし、その原因を人間の不完全性に求め納得すると同時に「罪びと」であると自虐していた。
このカテゴリに関しては仏教のほうが優れている。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午前 11:57
ユダヤ教とキリスト教に共通する関心ごとは
「義と罪」、「懲罰と救済」なのだ。
神対人間という構図なのだ。
仏教は神などいないに等しい。神的な仏も存在しない。
ただただ人間のことが関心ごとなのだ。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 0:02
<愛>、ひとつだけ言っておく。
「慈悲喜捨」・・・これは人間の共感から生じるのだ。
それを釈迦は知らなかったのだ。
孟子は知っていたと思われる。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 0:08
共感でしょうね。
[ 愛 ]
2015/3/15(日) 午後 0:16
まだ時間があるので細かいことを指摘する。
>母親が我が子に見返りを期待しないように、仮に助けた相手が無礼でも全く気にしない。
少しちがうのだな---。
見返りを期待しないようなことを「無償」または「無償の愛」と表現するのであろうが、
人間の利他行動は、咄嗟の共感により生じるのだ。
「無償」そのものなのだ。たんに困っているから助けようとする心なのだ。
前を歩く人が何かを落としたら、「落としましたよ」と瞬時に声をかけるようなことだ。
そして事後に相手の態度がどうのこうのという「別の感情」が生じるのだ。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 0:21
相手が無礼であると云々というのは事後のことだ。
別の問題であるが、連続して関連していることであるので、相手が無礼であったときはマイナスの感情が生じるのだ。そのマイナスの感情を捨てろということだろう。
エグゼルに言わせれば、当該マイナスの感情からいち早く脱出しろ、だ。
ところが世間では相手の無礼な行為があるから、その経験から「無償の行為」をすることを躊躇い、次第にそのような状況に無関心になることがありえる。
つまり、社会が「無礼」でなればなるほど人心も乱れるということだ。
一人ひとりの集合が社会であるから、一人ひとりが「よく」ならなければ社会は「よく」ならないのが理屈だ。
そこでユートピアは存在しないと悟った釈迦は社会を捨てた。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 0:45
昼食後に自分のコメを読み返して、整理整頓したくなった。
愛についてであるが、愛には無償の愛すなわち共感から生じる愛があるが、欲から生じるものもある。
人々はそれを混同する。
無理もないことだ。
釈迦自身が混同したからだ。
だから釈迦は欲を捨てろと言ったのである。
その事例に愛するものをつくるから苦が生じることをあげている。
無償の愛は欲から生じるのではないから、エグゼルは釈迦が共感を知らなかったと断定したのである。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 2:17
そして釈迦は共感を知らなかったゆえに「慈しみのこころ(意)を起こすべし」と説いた。しかも智慧によって。
違うのだ。
智慧によって「慈しみの心」が起きるのではないのだ。
また「意」でもないのだ。「意」は思考してという意味なのだから。
本来人間が持っている共感、感情から利他行動が生じるのであるから、健全な共感、感情を育み、それに基づく行動をするようになればいいのだ。
釈迦が言ったことを知らない人々でも、仏教がいう智慧のない人々でも、利他行動はしているということが釈迦の偽誤を明示している。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 2:26
そして悪い智慧や意によって利他行動と思われる行為をする者は偽善者と呼ばれることになるのだ。
したがって共感から生じた利他行動は、けっして偽善ではないのだ。
その差異を見極めることだ。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 2:37
遠方で大震災が起きたことを知って、被災者はかわいそうだ、困っているだろう、何かできることがあるだろうかと瞬時に想うことが共感だ。
その後に自分でできることを思い巡らすのが思考であり、智慧の為せることだ。
寄付ぐらいしかできない。いくらぐらいにしようと考えていることが「意を起こしている」ことだ。
寄付の金額や送り先を決断して実践することによって利他行為は完了したことになるのであろう。
ただし、寄付をしなくても当初に「かわいそうだ、困っているだろう」と感じたこと自体が共感なのである。
それすら感じない人々は、たいてい人格障害者である。
[ エグゼル ]
2015/3/15(日) 午後 2:50
愛の反対は無関心である、とマザーテレサは言った。
論理的には可笑しいのであるが、実に含蓄のある素晴らしい言葉だ。
「愛」の対義語は「愛憎」というように「憎」であるが、マザーテレサが言わんとしたことは、
愛を示さない人は(愛の対象である)他者や出来事に無関心であるからだ、ということなのだ。
無関心・・・これは共感の欠如ということだ。
[ エグゼル ]
2015/3/16(月) 午前 10:20
育児放棄とか育児に無関心であるということは、わが子に無関心であり、共感(この場合は愛)の欠如なのだ。
したがって愛が欠如した、または歪んだ愛の環境で生育したこどもが人格障害者になる確率が高い。
というか、数多くに分類されている人格障害に通底することは、たったのひとつのことである。
即ち、「愛の欠如」または「歪んだ愛」。
[ エグゼル ]
2015/3/16(月) 午前 10:27
誠の愛、とはいわなくとも、普通の愛、普通の共感、普通の感情を持ち合わしていない人が道徳的な問題を引き起こすことが多いのだ。
そしてそれは人類が生を引き継いでいるなかで、常に再生産されている。
[ エグゼル ]
2015/3/16(月) 午前 10:34
情けは人の為ならず。
できる範囲で助け合っています。
[ - ]
2015/3/18(水) 午前 11:27
うん、そうだね。
「人の為ならず」をね、ブーメランのように、因果という思想のもとに「自分」に還ってくると捉えずにね、
「情け」を示せば、自分が幸福になると考えればいい。
「よい」とされることをすれば、心地いい、清清しくなる、悔いが生じない、ということなのだ。
因果果報と考えるから、報われなかったときにルサンチマンが生じるのだ。あるいは来世とか死後の救済を求めるのだ。エグゼルに言わせればナンセンスだ。
「還ってくる」ことを期待するのは、報酬を期待するのと同じだ。スピノザが痛烈に批判したことだ。
そうではなくて、「情けをかけた時点」で自分は幸福を得ていると思うべきなのだ。
[ エグゼル ]
2015/3/18(水) 午前 11:53
あ、
因果果報・・・因果応報と書いたつもりだった。
[ エグゼル ]
2015/3/18(水) 午後 0:13
何度も言っているが、
すべてのことに因果というものは成立しないのだ。
個々の出来事に原因があり結果があるということを否定しているのではない。
原因とされることの原因は?と遡れば、---無限後退すれば、---何にぶち当たる?
世界の始まりまで無限後退するが、その世界の始まりは未だ誰にもわからないことなのだ。
また今エグゼルが書いている原因は?
書きたいと思ったからだ。
じゃあ、何故書きたいと思ったのだ?
無限後退すればエグゼルが生まれたときにまで遡る。
ならば、エグゼルは生まれたときにすでに2015年3月18日に「この文章」を書くことが決定していたのか?
すべてのことに因果が成立するならば、そべてのことは世界の始まりから決定されている、ということになるのだ。
[ エグゼル ]
2015/3/18(水) 午後 0:25
龍樹のいう「縁起」は「因果」のことではないのだ。
龍樹は優秀すぎるのだ。
それを理解しきれない日本仏教はお粗末なのだ。
[ エグゼル ]
2015/3/18(水) 午後 0:26