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8月18日、13時から15時過ぎまで、大東市サーティーホールの公民館に6人が集まりました。今月のテーマは第2章交換過程の最後の二つのパラグラフです。15パラグラフでは、貨幣(商品の等価形態・金)の量的な規定がされる様子が描かれています。「金の相対的な価値の大きさはその生産源でなされる物々交換によって確定される」といいます。16パラグラフでは物神的な性格が問題になっています。商品の物神的性格が目に見えるようになると、それは貨幣物神として現れます。それぞれの文を順番に読み、レポーターに報告してもらい、その後に議論しました。

初めに議論になったのは先月のまとめ(内容分析)をめぐってでした。先月やった第7パラグラフに「交換の歴史的な広がりと深化は商品性質の中に眠っている使用価値と価値との対立を展開させる」という文があります。その時「使用価値と価値との対立」とはどういう意味かという質問が出ました。これは資本論を理解する上で基本的な問題だと思われますが、一言で言うのはなかなか難しい問題です。レポーターはこれについて、使用価値と価値の「矛盾」と表現することの意義を力説しました。もっと聞きたいという声が出ましたが、時間の関係で途中までで、後は来月に回すことになりました。「矛盾」や「対立」の「論理的な意味」まで問題になり興味津々です。

次に問題になったのは15パラグラフの最後の4行ぐらいの文でした。ここの4行ぐらいの文で問題になっているのは何かという疑問です。ここで「貨幣が商品であると云うのは大事な認識だが、肝心なのは商品が貨幣になる理解だ」ということを述べている、それでいいのか確認したいというものでした。これはこれで了解されました。そしてこの問題は15パラグラフの前半で問題にしていること違うと確認されました。

さらなる問題はこの中の「商品は(いかにして)(なぜに)(何によって)貨幣であるかを理解する」という点でした。マルクス経済学者の久留間さんが言っていますが、「いかに」は1章の第三節で、「なぜに」は第4節で、そして「何によって」はこの第2章で言われています。「いかに」の第3節や、「何によって」の第4節は分かるが、「なぜに」の第4節(物神崇拝)が分からないという疑問が出ました。これについては参加者から諸説が出ましたが、紹介は長くなるので割愛します。

参加者から「第1章第3節の価値形態と第2章交換過程を読んでのイメージ」と題した資料が提出されました。時間軸を横にとり、縦軸に生産力と生産関係を記し、原始共産主義から資本主義までの変化を描き、今後の未来社会の「課題」まで記したものです。これをめぐって活発な意見が出され、時間はあっという間に過ぎました。

資本論の第1章や第2章について、その学習の困難さが改めて出されました。これには共感する声が出て、他の参加者から色々なアドバイスが出されるなど、みな他人ごとではない雰囲気が広がりました。

最後に先月出た問題が改めて出されました。何が貨幣材料になり得るか、土地は?というもので、再度調べてみることになりました。

以上で報告を終わります。NS

次回は9月15日(土)13時〜15時
場所は大東市サーティホール公民館で開催します。
テーマは第3章貨幣または商品流通です。

連絡先 080 3134 8150

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7月の「資本論まなぶ会」の報告をします。21日、1時から3時過ぎまで、大東市サーティーホールの公民館に、6人が集まりました。
テーマは先月に引き続いて「第2章の交換過程」でした。今月は第7パラグラフから第14パラグラフまででした。
輪読、報告、そして出された疑問点をめぐっての論議が行われました。

議論になった点は以下の通りです。
➀第7パラグラフで「商品性質の中に眠っている使用価値と価値の対立」というが、それはどういう意味か。
第9パラグラフで「直接的な生産物交換において、すべての商品は直接にその所有者にとっては交換手段であり、その非所有者にとっては等価である。もちろんそれがこの非所有者にとって使用価値である限りにおいてである」というが、どんな事態を指しているのか。「すべての商品は直接にその所有者にとって交換手段である」と云うのは好いが、「その非所有者にとって等価である」と云うのは分かりにくいというものでした。
F韻限9パラグラフで「人間はしばしば人間自身を、奴隷の姿で、最初の貨幣材料にした。しかし、かつて土地を貨幣材料にしたことはない。このような思想はただすでに完成したブルジョア社会においてのみ出現することが出来た」というが「このような思想」とは何か。
14パラグラフで「交換過程は貨幣に転化する商品にその価値を与えるのではなく、その特殊な価値形態を与える」というが、「その特殊な価値形態」とはどういう意味か。またマルクスはよく「形態」という言葉を使うが、その意味は何か。
ズ埜紊法嵜佑亙財が一定の生産様式の基礎の上に得る社会的性格、又は労働の社会的規定が一定の生産様式の基礎の上に得る物財的性格、これらのものを単なる標章と唱えることによって、同時に、これらのものを人間の恣意的な想像の産物と称することになるのである。それは18世紀愛好の啓蒙風であって、成立過程を未だ解くことのできなかった人間的諸関係の謎のような形相から、少なくとも一応、無知の外観を除こうとしたのである」というが、「成立過程を未だ解くことのできなかった人間的諸関係の謎のような形相」とはどういう意味か。

いずれの問題も難しく、議論は盛り上がりました。そのすべてを報告することはさらに難しく、ここでは最後の問題に絞ります。
当初これは「差別とか貧富の問題」を意味するかの発言がありました。「謎のような形相」と云うのですからなおさらです。ただ、それはそれとして、自然史の中から生まれてきた人類史全体を想定すべきではという意見が出されました。その時、私は気付きませんでしたが、ここで問題になっているのは生産物が商品になることによって、それに付きまとう物神的な性格です。それを単に人間の恣意的な産物だとは言えません。人類史の発展を理解することが課題です。

来月は8月18日の予定です。

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6月の資本論まなぶ会の報告です。16日、大東市サーティーホールで参加者5人が1時から行いました。テーマは第二章・交換過程です。

第一章・商品が終わった直後ですので、復習として次のような確認をしました。その第一節では商品の使用価値と価値の違いが明らかにされ、第二節では、使用価値と価値とに結実している労働の二面的な性格が描かれている。そして第三節では、商品の価値が他の商品の使用価値によって表現される様子が描かれている。最終的に商品の価値が貨幣によって表現されるに至る過程が示されている。第四節では、商品が商品である限り、使用価値と価値との区別は明らかでないことが指摘されている。労働の二面的性格はマルクスが歴史上初めて明らかにしたものである。ブルジョア的な常識によって生ずる不思議な事態が明かされている。

以上が商品についての考察ですが、第二章の交換過程は市場における商品が考察の対象になっています。商品所有者が登場します。

議論になった点は以下の通りです。「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意思関係である」(第一パラグラフ)というが「法律的に発展している」とは?という疑問が出ました。「適法的」という訳があり、違法ということが問題になっているかに言う意見が出ました。しかしいろんな訳文を見ると、ここではチャンとした法という形をとっているかという意味であると思われました。英語版では「この法律上の関係は(その形は契約で、発展した法律の一部か否かは別にして)二人の意志の間の関係であり、これは経済的な関係を反映している」です。

次は「商品所有者を特に商品から区別するものは、商品にとってはすべての他の商品体がただ自分の価値の現象形態と考えられるに過ぎないという事情である」(二)というが、ある商品が他のすべての商品体を自分の価値の現象形態と考えるとはどういう意味か?という疑問が出ました。「他の商品体を自分の価値の現象形態と考える」と云うのは、他の商品体を自らの等価だと見なすという説明があり了解されました。しかし「商品体が考える」という商品を「主体的」に捉えた話には違和感が起こりました。

次の疑問は「同じ過程が同時にすべての商品所有者に対してもっぱら個人的であって同時にまたもっぱら一般的に社会的であるというようなことはあり得ない」(四)というが、個人的とか、一般的に社会的という意味が分からない、というものでした。これに対しては「あらゆる商品所有者はその商品をただ彼の欲望を充足させる使用価値を持つ他の商品に対して譲渡する、その限り交換は彼にとって個人的な過程だ。・・・彼はその商品を価値として従って同一価値を持っている任意のあらゆる他の商品に実現しようとする、・・・その限り交換は彼にとって一般的に社会的な過程である」といわれている。商品所有者は市場において、自らが欲しいものを手に入れたいし、持参した生産物が他人から価値として認められることを望んでいる。すべての商品所有者が同じようなことを欲しているがゆえに陥る困った事態が描かれているという話が出ました。

最後に「我が商品所有者たちは困り果ててファウストのように考える。初めに行いありき。したがって彼らは彼らが考える前にすでに行っていた」(五)というが、以前同じようなことが言われていた。それは「彼らはその各種の生産物を相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし彼らはこれをなすのである」(第四節八)というものだ。ここで言う「人々は考える前に行っている」とはどういう意味か、まだそれを指摘しているマルクスの立ち位置はどういうものかという疑問が出ました。「人々は考える前に行っている」と云うのは、自然だけでなく社会において人の考えは現実の後から生ずる唯物論的な事態を指摘している。ただ、それはそれとして、問題はここでマルクスが指摘している「商品から貨幣が発生する」とか「商品生産につきものである物神的な性格」です。これまでは誰も問題にさえしてこなかった事態です。彼の先見性、卓越ぶりにみな驚きました。

7月の資本論まなぶ会は21日の予定です。

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5月の資本論まなぶ会の報告をします。
5月19日、1時から、大東市サーティーホールの公民館で、資本論まなぶ会が開催されました。参加者は6人でした。
テーマは第一章「商品」の、第4節「商品の物神的性格とその秘密」です。第4節は21パラグラフからできています。1〜4パラグラフでは、商品の物神的性格とはどういうものかが問題になっています、5〜10パラグラフではその物神的性格は、どこから生まれたかが問題になっています、11〜15パラグラフでは、物神的性格のない生産のあり様が問題になって、16〜21パラグラフでは、物神的性格に囚われた人々の考えが描かれています。今月のテーマは16パラグラフからです。
レポーターからはいつもながら丁寧な説明がありました。その後輪読をしながら出された疑問点の論議を進めていきました。
出た疑問の一つは次のようなものでした。16パラグラフで「商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に統一の人間労働として相連結するということにある。このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、特にそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論などにおいて、もっとも適応した宗教形態となっている」と言います。商品生産者の社会にとって、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、もっとも適応した宗教形態と言います、意味が分からないという疑問が出ました。
ここでは抽象的な人間の労働が商品の価値として、物的な形をとる商品生産社会の特徴と、抽象的な人間を神として崇め奉り、それをそれとして捉えないキリスト教との共通性を指摘しているのではないか、という考えが出されました。
次に出た疑問は次の文の意味についてでした。「これまでまだ一人の科学者として真珠またはダイヤモンドの中に交換価値を発見したものはない。しかし特別の深い批判力を持っているこの科学的実体の経済学的発見者たちは、物財の使用価値がその物的属性から独立しているのに反して、その価値は物としての属性に属しているということを発見している。」と云うが、訳が分からないというものでした。
これに対しては、真珠やダイヤモンドは一般に特別に高価なものとみなされており、それは物としての真珠やダイヤの属性によると思われています。しかしどんな化学者と言え、物としての真珠やダイヤの中に、分子や原子を発見しはしましたが、交換価値を発見した人はいません。「特別の深い批判力を持っているこの科学的実体の経済学的発見者」と云うのは皮肉であり、関西で言う「おちょくり」だ、と言う返答がありました。

次回は7月21日(土)の13時半〜です。

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〇3月の「資本論まなぶ会」の報告をします。17日1時から3時まで、住道サーティーホール公民館に7人が集いました。レポートが行われ、第一章の第一節から第三節までの概略が説明されました。ついで、第4節の第一パラグラフから第5パラグラフまでを輪読し、その後レポートがなされ、質疑が始まりました。
〇マルクスがここで問題にしているのは、生産物の商品形態が有している不思議な性格です。商品は使用価値を有していますが、価値も有しています。商品を生産する労働は二面的な性格を有しており、その具体的な性格において使用価値を生産し、その抽象的な性格において価値を生産しています。商品はその価値をそれ自身で表現することが出来ません。他の商品の使用価値でもって表現せざるを得ません。その関係は発展し、商品と貨幣との関係が成立します。こうしたことを考えるなら、単なる生産物とは違う、商品の歴史的・発展的な性格を指摘せざるを得ません。それは何で、その根拠はどこにあるのでしょうか。
〇商品の「神秘的性格」とは何かをめぐっては議論が沸騰しました。それは「感覚的にして超感覚的なもの」という点にあるのか。実質は人間が作ったものであり、人間同士の関係がそこにあるのだが、それがそれとして認められていない、物の関係を通じてしか表現されない、そういった事態を指すのではないか、等々の声が出ました。
〇物神的性格というが、貨幣の物神的な性格については分かりやすい。しかし商品の物神的性格と言われてもすぐには何を指すのか分かりにくいという疑問が出されました。これに対しては恐慌や経済破綻を考えてみたらいいのではないか、生産物としてはそれを必要としている人がいるにもかかわらず、それを売り買いできなくなって、必要とする人のところにもっていくことが不可能。生産物が商品であることが、人々の生活にとって妨げになっているという話が出されました。
〇商品の物神的性格をめぐる議論は尽きませんでした。「人間に対して物の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係である」という点をもって、その内容を示すという意見が出されました。それに対し、確かに言葉としてはその通りだ。しかし、その文は、社会的なものを、自然の属性として取り違えることによって、生産物が商品になる、それと同じような例が視神経でも見られる、ただ、その例では不十分で、宗教幻想の例が取り上げられている文章の流れの中にある。物神的性格に真正面から答えているのは、むしろ第三パラグラフではないかという意見が出ました。この問題をめぐってはすぐに答えが出ませんでした。
〇最後に「価値対象性」という言葉をめぐって疑問が出されました。時間の関係で突っ込んだ議論は出来ませんでした。問題は次の通りです。第3パラグラフのはじめに「人間労働の統一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる」と言います。そして、第7パラグラフの最初に「労働生産物は、その交換の内部においてはじめて、その感覚的に違った使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対象性を得る」と言います。それぞれ「価値対象性」という言葉が使われています。意味は同じかです。

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