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「装甲艇」は、陸軍が上陸用舟艇の護衛と上陸支援のために専用の戦闘用舟艇の必要性が出てきたので、開発を計画され、1928年に試作艇一号が完成し装甲艇「さきがけ」と命名されました。 その後、試作艇二号「勝鬨」、三号艇と改良をしつつ、1930年頃から三号艇を基本とした量産型を生産開始しました。「装甲艇」は文字通り船体等を装甲で覆われていて、一号艇では37mm狙撃砲一門と機関銃二門、二号艇以降は八九式中戦車の主砲である九〇式57mm戦車砲一門と機関銃を搭載していました。 そして1938年以降は57mm戦車砲二門と機関銃を搭載するようになりました。 日華事変では沿岸や河川で広く活躍し、太平洋戦争でも上陸戦や海上輸送時に大発動艇などの護衛として使用されましたが、低速でしたので連合国海軍の魚雷艇に十分に対応できず、やがて第一線を退きました。 |
大日本帝国陸軍
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「九五式折畳舟」は大河等を渡河する際、既存の機材では無理があったため、1935年7月に仮制式が可決されました。これ以後、日中戦争や太平洋戦争で各地で使用され、ミッドウェー作戦では、一木支隊のミッドウェー上陸作戦の為に40隻が用意されていました。 「」は陸上輸送の為に、折り畳み構造になっており、基本的に手漕ぎですが、操舟機という船外機を装着して、動力航行することも可能でした。数隻を束ねて門橋や浮橋などとして、渡河に利用することもあったそうです。 |
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今回は大日本帝国陸軍で唯一採用されました信号拳銃である「十年式信号拳銃」についてです。 「十年式信号拳銃」は1918年末から研究が開始され、 1919年9月に試作銃が完成しました。 開発中に光弾の爆発事故が起こるなどありましたが、 1921年に正式採用となり主に地上部隊や航空部隊に配備されました。 しかしこの後に地上部隊や航空隊に配備されました。 しかし、同年制式化された「十年式擲弾筒」にも信号弾が用意されており、 さらに1929年に「八九式重擲弾筒」が制式化されると、 「十年式擲弾筒」が信号弾発射筒として機甲部隊に配備され、 武器としての汎用性に劣る「十年式信号拳銃」は生産は終戦まで行なわれたものの、 7,800丁程しかが製造されず、あまり配備されませんでした。 しかし大日本帝国海軍が航空機用信号銃として用い、 真珠湾攻撃時には第一次攻撃隊の攻撃合図として「十年式信号拳銃」が用いられました。 |
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投稿です。 今回は婦女子でも使用可能な携帯火器「打上阻塞弾」についてです。 「打上阻塞弾」は低高度の敵機を撃破するため、 1940年から陸軍技術本部が 研究していき開発された兵器で 有効高度が低く、 事前の入念な準備が必要等、 欠点がありましたが、 重量が軽く、 婦女子や年少者でも簡単に使え、 ジャングル等でも使用可能等の利点があり、 南方戦線にて戦果を挙げ、 さらに本土でも呉軍港が 空襲を受けた際に五機の米軍機を 落としたという話があり、 一時的ですが活躍しました。 |
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今回は、世界初の二輪駆動式サイドカー「九七式側車付自動二輪車」についてです。 帝国陸軍で使用していた側車付自動二輪車は一輪駆動式でしたので、 整備されていない路面での走行性能に問題がありました。 そこで、陸軍省は1932年7月から関東地方各地で二輪駆動式車両の性能試験を行い、 そこで性能が認められたため、各種演習にて実用化試験を行いました。 その試験にて、二輪駆動式車両が軍用目的に価値ありと認められたため、制式採用されました。 「九七式側車付自動二輪車」は日華事変やノモンハン事件、 大東亜戦争などの戦線はもちろん、 演習時に、内地での伝令や偵察、輸送に幅広く使用されました。 そして生産された一部は海軍陸戦隊などに供与されています。 また近衛師団にも配備されて、陸海軍の大元帥であった昭和天皇が行幸などで 日本各地を移動する際は、 裕仁天皇陛下が乗車した3代目御料車の四方を 「九七式側車付自動二輪車」に乗車しました近衛兵が警護を行ないました。 |





