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帝国海軍機動部隊による真珠湾攻撃に先立つこと約2時間前、 1941年12月8日午前1時30分 、 第18師団・歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊が マレー半島東北端コタバルに敵前上陸を敢行しました。 そして上陸した佗美支隊は英軍守備隊を撃破し、1941年12月9日、コタバル市を占領ました。 先遣隊はその後1941年12月11日には補給基地トンバット、1941年12月12日はムロン、 1941年12月13日は航空基地タナメラと電撃的に部隊を進めましました。 そして1941年12月8日に、日本軍がマレー半島に侵攻したとの報を受け、 戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を中心とした艦隊は、 上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃しましたが、 1941年12月10日にマレー半島東方沖で帝国海軍陸攻隊によって撃沈されてしまいました。 その一方シンゴラに上陸した第5師団主力は、 佐伯捜索連隊を先遣部隊として前進を開始し、 第5師団長松井中将は、時間の経過とともに敵陣の強化と交通路の破壊が進むと判断し、 先遣連隊を第9旅団長・河村少将の指揮下に入れ、 速やかに国境を突破させるべく「佐伯挺身隊」を組織、一挙に突撃路を開くべく進撃し、 11日アースンの国境陣地に入った佐伯支隊は、 戦車中隊を先頭に英軍と交戦して小マジノ線とも称されたジットララインに迫り、 1941年12月12日に敵の砲撃を受けた佐伯支隊長は、ジットラ東側陣地に夜襲を命令し、 敵の激しい抵抗を撃破して敵の第2線陣地の一角を占領しました。 そしてその夜の夜襲を決意し準備を進めていたところ、 なんと午後5時に英印軍はジットラ陣地から全面退却してしまい、 ジットラ陣地をわずか1日で、しかも581名の佐伯挺身隊が突破するとは大本営ですら驚愕した勝利でした。 そして19421月末、帝国陸軍はマレー半島最南端のジョホール・バルに迫り、 英軍はマレー半島内での抗戦をあきらめシンガポール島内へ退却しました。 やがて1942年1月31日、最後の部隊がジョホール・バルを脱出し、 工兵隊がマレー半島とシンガポール島とを結ぶ土手道を爆破しました。 結果、第5師団と近衛師団の先頭部隊は相次いでジョホール・バルに突入、 ここにマレー半島での戦闘は終結しました。 なお帝国陸軍は12月8日の上陸から55日間で、 95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃したそうです。 1942年2月8日、帝国陸軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸しました。 主要陣地を次々奪取し、1942年2月11日にブキッ・ティマ高地に突入しますが、 そこで英軍の砲火を受け動けなくなってしまいました。 そして1942年2月15日、日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、 英軍が突如、降伏を申し入れてきました。 理由は水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念したからだそうです。 1942年2月15日午後7時、ブキテマ高地北方のフォード自動車工場の一室で 山下中将とパーシバル中将との会談が開かれましました。 約3時間あまりの交渉の末、山下中将の「イエスか、ノーか」の問いに パーシバル中将は無条件降伏を受諾し降伏文書にサインをし、シンガポールは陥落しました。 かくして1942年2月15日午後10時をもって停戦になり、シンガポール攻略作戦は終了しました。 |
大激戦
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1939年4月に満州を守備する関東軍の関東軍司令官植田謙吉大将は、 「満ソ国境紛争処理要綱」を作成し,対ソ連の国境紛争の基本方針を定めていました。 ここでは,「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」しとして 関東軍の現地司令官のイニシアチブを重視し、 「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」としました。 つまり、日本側の主張する国境線を越境してきた敵に対しては、 即座に攻撃・撃退するという強硬な方針を示していました。 しかし,満州の外周は,ソ連と外蒙に境を接しており、 国境には流れを変えるハルハ河、アムール川、中州丘陵、草原があり、 この所属が、ソ連、満州国、外蒙の間で、決められていませんでした。 ソ連軍は外蒙に駐屯していましたが、そこでハルヒン河に外蒙軍兵士をパトロールに出し、 満州軍国境監視哨と銃撃戦を起こさせました。 関東軍は、現地から700名の捜索隊が越境してきたと報告をうけると、断固排除することを命じ、 そこで倍する兵力で攻撃を仕掛けましたが、それをソ連側は威嚇攻撃として反撃してきた。 こうして、ハルハ河を挟んで、関東軍とソ連軍が戦闘を開始したのが第一次ノモンハン事件です。 外蒙軍総司令官「チョイバルサン」元帥は、 国境警備隊にハルハ河で日本軍を阻止するよう命じ、第6騎兵師団を派遣し、 ソ連軍とともに,関東軍捜索隊の撤収後の東岸に陣地を気づきました。 そこで、国境に入り込んだ敵を撃退するために、 小松原師団長は再び岸のソ連軍・外蒙軍を兵2500名で攻撃しました。 そして激戦の中、関東軍の出動した兵力の半数が死傷する大損害を受けたが、 ソ連側も同じように大きな被害を受けました。 そして関東軍は撤退し、ソ連軍も1939年5月30日にはハルハ河西岸に撤退しました。 こうして、第一次ノモンハン事件は終了しました。 しかしソ連軍は1939年6月にハルハ河東岸の国境を守備し、 日本軍への反撃を準備するために、 ロシア西部にいた「ジューコフ」中将を新たな第一軍集団司令官に任命しました。 そして第二次ノモンハン事件では、 1939年7月1日から関東軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と、 東岸での戦車攻撃を実施しましたが、いずれも撃退されました。 このあと関東軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地にいましたが断念しました。 1939年7月23日に関東軍が再興した総攻撃は3日間で失敗しました。 その後戦線は膠着してしまいましたが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して関東軍を包囲し、 1939年8月31日に関東軍をソ連が主張する国境線内から後退させました。 一方、ハンダガヤ付近では、関東軍が8月末から攻撃に出て、 1939年9月8日と1939年9月9日に外蒙軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させました。 1939年9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうちノモンハン付近はソ連側が占めたが、 ハンダガヤ付近は関東軍が占めていた。 そして停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれました。 なおこの戦いで「スターリン」はソ連軍の大敗に怒って、 「ジューコフ」を殺そうとしましたが、「ジューコフ」は身代わりに「シュテルン」大将を差出し、 記録を粉飾して提出したので助かりました。 |
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1942年4月18日に空母「ホーネット」から発艦しましたドーリットル隊の「B-25」爆撃隊は、 東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃し、中国大陸に脱出するということが起こりました。 そこで山本五十六はこのような事をなくすために、 ミッドウェイに進出して、米機動部隊を補足撃滅するという作戦を立てました。 反対意見もありましたが、軍令部総長の「永野修身」が4月5日に決定しました。 そして帝国陸軍を巻き込みながらミッドウェイ攻略作戦は一気に進められました。 連合艦隊は5月27日から29日にかけて出撃してミッドウェイに向かいましたが、 1942年6月5日午前1時30分に南雲艦隊はミッドウェイ基地へ向けて第1次攻撃隊108機を出撃させました。 この時に7機の索敵機も一斉に発進させる予定でしたが、 そのうちの1機がカタパルトの故障で30分遅れてしまいました。 ミッドウェイ島に向かった第1次攻撃隊は哨戒機に発見され、 米軍は日本軍の空襲前にすべての航空機を離陸してしまい、 第1次攻撃隊は激しい迎撃を受けてしまい基地攻撃しますが、 攻撃隊長は攻撃効果を不充分として「第2次攻撃の要ありと認む」と打電しました。 この時まだ米機動部隊は発見されておらず、 第2次攻撃隊を向かわせるべく、魚雷を陸上攻撃用の爆弾に積み換える作業が始められました。 この作業中に、遅れて発進していた索敵機から敵機動部隊発見の報告があり、 再度魚雷への積み換え命令が出されてしまいました。 そんな中、午前10時23分太陽を背にした艦爆部隊に襲われてしまい、 「南雲忠一」自らが、空母「赤城」の操艦を艦長に代わって行い、魚雷6本を回避するも、 魚雷と爆弾を抱えて甲板上と格納庫内にありました航空機が誘爆を起こして、 空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」が炎上してしまいました。 この時、空母「飛龍」に乗艦していました「山口多聞」が、 「我航空戦の指揮をとる」といって空母「飛龍」から攻撃隊を出撃させ、 米空母「ヨークタウン」を航行不能にさせますが、 空母「飛龍」も米軍の攻撃をうけ炎上してしまいました。 これを受け、「山本五十六」はこれ以上の作戦続行は不可能と判断し、撤退しました。 (この後米空母「ヨークタウン」は帝国海軍潜水艦「伊一六八」の魚雷2発によって撃沈されました。) |
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米太平洋艦隊の戦力低下により、帝国は西太平洋海域の制海権を確保し、 これにより南方作戦を成功させました。 真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領の要請により、米合衆国議会は定刻に対して宣戦布告しました。 12月10日、ヒトラーは軍部の反対を押し切って米国へ宣戦布告し、 第二次世界大戦は欧州と北アフリカのみならず亜細亜や太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大しました。 当時モンロー主義を色濃く残していた米国は、 欧州での戦争にも日華事変にも介入には消極的で、 連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていましたが、 真珠湾攻撃を受けて米国の世論は一気に参戦へと傾いてしまいました。 さらに、日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃を始めた事、 その文書は交渉打ち切りの文書であって開戦や武力行使を示唆する言葉が無かったこと、 日本が数日から数週間以上前より戦争準備を進めていたことが明らかなことから、 真珠湾攻撃が「卑劣な騙し討ち」として宣伝されることとなったことも世論に影響しました。 ちなみに真珠湾攻撃が宣戦布告を伴わない奇襲攻撃という認識がありますが、 外務省がパープル暗号で送った命令書では 当初は攻撃開始30分前の宣戦布告を予想していましたが、 東京から日米交渉打ち切りの通知を告げる内容の電文が送信された際、 日本大使館員全員が宿直も置かず、大使館を空にして同僚の送別会を行っていた事など、 諸事情によりワシントンの日本大使館一等書記官でした奥村勝蔵の英訳親書のタイプが大幅に遅れ、 攻撃開始時刻に日米交渉打ち切りの通知が間に合わなかったそうです。 |
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1941年11月1日、東條内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、 11月5日の御前会議で承認されました。 以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化しました。 「南雲忠一」指揮下の旗艦の空母「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする 帝国海軍機動部隊は11月22日に択捉島の単冠湾に集結しました。 12月1日、御前会議が開かれ、攻撃日が12月8日と決定しましました。 12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信されました。 そして奇跡的にオアフ島に接近できた帝国海軍機動部隊は、 日本時間で、12月8日午前1時30分に第一波空中攻撃隊として 艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進し、 午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進しました。 なおこの攻撃に先立ち、帝国陸軍は英領のマレー半島コタ・バルで奇襲上陸作戦を行っていました。 ちなみにこの時、米軍は、レーダーで、攻撃隊を確認しましたが、 偶然今日やってくる予定の爆撃機だと思い、警報をだしませんでした。 7時49分、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、 攻撃隊総指揮官の「淵田美津雄」が各機に対して「全軍突撃」のト連送を下命しました。 7時53分、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電し、 7時55分翔鶴飛行隊長の「高橋赫一」が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始しました。 7時58分、米国海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発し、 戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令されました。 8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中し、 その後8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中しました。 その結果8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、大破沈没しました。 戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中し、 戦艦「オクラホマ」は転覆沈没しました。 午前8時54分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命しましたが、 奇襲から立ち直った米軍は各陣地から猛烈な対空射撃を行い、 日本軍航空隊を阻止しようとしました。 第二波攻撃隊は、米軍の防御砲火を突破する強襲を行い、 小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行ないました。 この時第二波攻撃隊ハワイ・カネオ飛行場銃撃時に 空母「蒼龍」の戦闘機隊「飯田房夫」は、激しい対空砲火のため乗っていた零戦が被弾し、 ガソリンが尾を引き漏れ出しました。 そして「飯田房夫」は部下達に帰路を指示した後、 「われ燃料なし」を手振りで伝え、反転して飛行場の格納庫めがけて突入しました。 「飯田房夫」の最後に感銘を受けた米国海軍は、 遺体を基地内に軍葬の礼をもって丁重に埋葬し、後に顕彰の碑を建てました。 第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きく、 「加賀」攻撃隊だけでも零戦2機、艦爆6機を失い、19機が被弾してしまいました。 その後攻撃隊は順次母艦へ帰投しました。 午前9時頃、日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路につきました。 このとき石油タンクや海軍工廠の修理施設など港湾施設を徹底的に破壊するために 第三次攻撃を行う可能性もありましたが、 「三川軍一」のみが意見具申を行い、「山口多聞」は催促に留まりました。 1941年12月16日、第二航空戦隊司令山口多聞少将の指揮下の空母「飛龍」「蒼龍」と 護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」が、 ウェーク島攻略支援に向かいました。 そして12月23日機動部隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還しました。 |





