米軍の兵器

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B-10爆撃機

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今回は、日本本土に軍事作戦で侵入した初めての爆撃機「B-10爆撃機」についてです。
1930年代、米国のマーチン社はこれまでの爆撃機よりも
劇的に進化した構想に基づく機体の開発を 開始しました。
「モデル123」と名付けられたその機体は1932年2月に原型機が完成し、
「XB−907」の名で公式に審査され、
この審査で米国陸軍が当時保有するどの戦闘機よりも高速を示したため、
1933年に「YB-10」として48機が発注されました。
生産型の納入は1934年半ばよりはじまり、パナマやハワイ諸島の部隊に配属されました。
生産は1937年初めまで続き、121機生産されましたが、
就役後まもなく旧式化してしまい、1939年頃には米国陸軍から退役しました。
しかし「B-10」は1936年に輸出許可が出たため、各国に輸出され、
オランダ、アルゼンチン、中華民国、トルコ、タイなどにも輸出されました。
ちなみに1938年5月19日に中華民国軍所属のB-10Bが、
大陸から日本の九州上空に飛来して、鹿地亘作成によるプロパガンダビラを散布する軍事行動をし、
そのため、日本本土に軍事作戦で侵入した初めての爆撃機となりました。

M22ローカスト

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今回は、第二次大戦に参加しました空挺戦車「M22ローカスト」についてです。
米国陸軍は1941年、空挺部隊に随伴できる新型戦車の開発を決定しました。
当初は実現不可能と思われましたが、
小型車両輸送も可能な大型グライダーを開発中でした英軍が目をつけ、
英国からの要望もありまして要求仕様案がまとめられました。
この要求案に応じ、ゼネラルモーターズ社など3社が試作案を提示した結果、
マーモン・ヘリントン社の案が採用されました。
そして試作車は「T9」と命名され、
米軍からは「T9」が完成する前の1942年4月に早くも500輌の量産命令が出され、
更に1,400輌の追加発注が行われましたが、
1944年2月に830輌が完成した時点で生産は打ち切られました。 
このうち280輌がイギリスに送られ、「ローカスト」の愛称がつけられました。 
なお、「M22」として制式化されましたのは1944年9月のことで、
生産が終了した後に制式番号が付与された珍しい戦車になりました。
「M22ローカスト」は米軍では、あまり使用されませんでしたが、
英軍が1945年3月に行われたライン川渡河作戦やヴァーシティー作戦に使用しました。
戦後は米国では訓練用として短期間使用されましたが、すぐに退役し、
英国でもすぐに退役しましたが、ごく少数がエジプトに渡り、
1948年に勃発しました第一次中東戦争で使用されたそうです。

M5スチュアート

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今回は、太平洋戦線では、1943年末頃に「M4シャーマン」が大量に配備されるまで
活躍しました「M5スチュアート」についてです。
米国陸軍初の本格的な軽戦車として大量生産が行われました「M3スチュアート」でしたが、
生産数が増えていくにつれて、「M3スチュアート」に搭載するエンジンの生産が、
車体の生産に追いつかなくなってしまいました。
そこで米国陸軍では供給不足を補う策として、
ギバースン社製のエンジンを搭載しました「M3スチュアート」も生産しましたが、
ギバースン社製のエンジンは実戦部隊の評判が良くなかったため、
主に訓練任務に使用されるのみにとどまりました。 
そして1941年になり、GM社が「M3スチュアート」に
自社製自動車用エンジンを搭載することを提案し、試験用車両がテストを行った結果、
高い性能を示したため1942年9月に「M5スチュアート」という名で、正式採用されました。
そして「M5スチュアート」は、ヨーロッパ戦線では偵察車両として終戦まで使用されましたが、
太平洋戦線では帝国陸軍の戦車を相手に圧倒的な威力を発揮し、
1943年末頃にM4中戦車が大量に配備されるようになるまで活躍しました。

B-32ドミネーター

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今回は、と第二次世界大戦最後の空戦をしました「B-32ドミネーター」についてです。
ボーイング社が「B-29」を開発するきっかけとなりました米国陸軍要求項目と
同じ仕様により開発されたコンソリデーテッド社の爆撃機で、
米国陸軍ではボーイング社とコンソリデーテッド社両社に対して3機の原型機製作を発注し、
コンソリデーテッド社案についてはXB−32の呼称が与えられました。  
コンソリデーテッド社が3機製作した原型機の内、
原型1号機は「Bー29」の原型機よりも2週間早い、1942年9月7日に初飛行しました。
そして1943年3月17日には「B-32ドミネーター」の練習機型「TB-32」合わせて300機の発注がなされ、
1944年には追加で1,500機の発注がされました。
しかし与圧装置が不良のため、与圧装置なしで量産を行うこととなり、
1944年9月に量産初号機が完成しましたが、すでに「B-29」が実戦配備されていたこと、
与圧装置がないことにより高高度爆撃ができず、ほとんどの生産はキャンセルされてしまい、
大量生産はされず115機程しか生産されませんでした。
そして「B-32ドミネーター」は、1945年5月よりルソン島に送られ、
そこにて装備部隊の編成・練成が行なわれ、
ルソン島や沖縄を基地に、フィリピンや台湾への偵察や爆撃を行ないました。
そして、第二次大戦終結後は生産されず、就役しました機体もすぐに現役から退いてしまいました。
ちなみに、日本がポツダム宣言受諾後の1945年8月18日に連合国占領下の沖縄の基地より、
「B-32ドミネーター」2機が日本本土の偵察のために関東上空に飛来しましたが、
その際、房総半島から伊豆諸島にかけての上空で、
坂井三郎率いる、帝国海軍戦闘機「紫電改」及び「零戦」と第二次世界大戦最後の空戦を展開しました。
結果は搭乗員1名が死亡、2名が負傷し、日本側に損害はありませんでした。

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今回は、米国海軍の艦載機や艦上機の中で、
最初に射出式カタパルトからの発進を行った機体である「OS2U キングフィッシャ一」についてです。
「OS2U キングフィッシャ一」は、複葉観測機である
「O3Uコルセア」の後継として開発されました単葉艦載観測機で、
1938年3月に陸上機型が、そして1938年5月に水上機型が初飛行しました。
そして試験結果は良好でしたので、、1939年に制式採用されました。
1940年から部隊配備され、水上戦闘艦の艦載機として偵察・観測任務に従事した他、
近海哨戒飛行隊において対潜哨戒任務や海上捜索救難任務に活躍しました。
しかし、性能は同時期の他国の機体と比較すると性能は低く、
第二次世界大戦が終結すると急速に退役していきました。
なお最終的には、約1500機ほどが生産されましたが、その半数以上が陸上型だったそうです。

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