日本の将校

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根本博

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今回は、1949年に台湾へ渡り、中国人民解放軍と戦いました「根本博」閣下についてです。
「根本博」閣下は、1891年6月6日に福島県で生まれました。
そして仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校、陸軍大学校に入りました。
卒業後は、原隊復帰を経て、主に支那畑を歩みました。
そして1927年3月南京事件に南京領事館附駐在武官として南京に駐在していたさい遭遇し、
領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に素手で立ち向かったものの銃剣で刺され、
更に二階から飛び降りて脱出を図った際に重傷を負ってしまいました。
帰国後、1928年6月に起きた満州某重大事件を皮切りに、
1928年11月に9名で結成された無名会に参画、
さらに1929年5月に「二葉会」に吸収される形で成立した一夕会に加わりました。
そして1936年2月26日二・二六事件の際は、
陸軍省新聞班長として部下に、戒厳司令部発表を反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器を通じて放送させ、
反乱軍を動揺させて切り崩し工作を図りました。
二・二六事件後は、陸軍再編により原隊の連隊長に就任し、
日華事変後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における
参謀長や司令官を長らく務めました。
1945年8月のソ連軍の満州侵攻時には、駐蒙司令官として、
蒙古地域に滞在していました居留民4万人の命を救うべく、守備隊に対して攻撃命令を下しました。
途中幾度と停戦交渉を試みるもソ連軍は攻撃を止めず、
部下将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、
すさまじい白兵戦をも乗り越え、更に八路軍からの攻撃にも必死に耐え、
居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜きました。
ソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、
日本軍の必死の反撃にソ連軍が戦意を喪失した為、守備隊は1945年8月21日以降撤退を開始しました。
そして1946年8月、根本は最高責任者として、最後の船で帰国しました。
復員後の1949年6月、東京から、元上海の貿易商であった明石元長の仲介で、
極秘裡に台湾へ渡り、中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命され、
1949年10月には、本土から数kmしか離れていない金門島における古寧頭の戦いを台湾軍として指揮、
上陸してきた中国人民解放軍を破り、金門島を死守しました。
「根本博」閣下が帰国後も、この島を巡って激戦が展開されましたが、
台湾側は攻撃を凌ぎ、現在に至る台湾の独立自主が確定しました。
そして1966年5月24日に死去しました。

酒井隆

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今回は、対米戦勃発時に香港攻略を指揮しました「酒井隆」閣下についてです。
「酒井隆」閣下は、1887年10月18日に広島県賀茂郡原村に生まれました。
神戸一中、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て、
1908年陸軍士官学校を卒業し、歩兵第38連隊付少尉に任官しました。
そして1916年には陸軍大学校卒業しました。
1924年に少佐、 1928年に中佐、1932年に大佐と昇進を重ね、
1936年、歩兵第23連隊長に就任しました。
1937年、少将任官と同時に歩兵第28旅団長となり、
張家口特務機関長、興亜院蒙疆連絡部長官などを経て1939年中将に昇進ました。
そして1941年11月、第23軍司令官に任命され、
1941年12月、英国植民地香港攻略作戦を指揮しました。
そして香港攻略後は1942年2月20日に磯谷廉介陸軍中将が
香港総督として着任するまで香港軍政庁長官でした。
1943年4月、予備役に編入され、 1945年2月、北京に酒井機関を設置したが、
間もなく終戦となり、1945年12月、中国国民党政府に戦犯容疑で逮捕されました。
1946年8月27日、南京軍事法廷で死刑判決を受け、
1946年9月30日に南京雨花台で銃殺刑に処されました。
ちなみに「酒井隆」閣下は、は、駐中華民国公使館の副武官参謀本部作戦部中国課課長
天津駐屯軍参謀長、香港軍政庁長官、北京の特務機関長などを歴任しており、
帝国陸軍きっての中国通だったそうです。


「酒井隆」閣下が妻にあてた手紙
「ラジヲでおききでしょうが戦犯として今日決定します。
これによつて中日がまことの道を歩くこととなり、
日本を侵略と言われないですむ道に出れば私の本願です。
好きな中国で死んで私はよろこんで逝きます」
「死ねば心はすぐ 日本へかえる。いつでも刑にかけてといのる。
いつ迄も牢屋に生きるよりか放たれ日本の空に、我は祖国の礎となる。
大好きな日本、私は空とぶ姿でかへる」

阿南惟幾

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今回は、誠実な人柄で人望が厚かった「阿南惟幾」閣下についてです。
「阿南惟幾」閣下は、1887年2月21日に大分県竹田市に生まれました。
「阿南惟幾」閣下の父「阿南尚」殿が、内務官吏でしたので、
幼少時は東京・大分竹田、徳島などを転々としながら育ちました。
早くから陸軍将校を志望していたが、徳島中学校2年生の時に、
当時第11師団長でした「乃木希典」閣下の助言もあり陸軍幼年学校を受験して入校し、
幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校も試験に3度失敗したものの、
卒業の席次が60人中18番にて合格しました。
しかし人望や職務への精勤ぶりが徐々に評価され、政治的に無色であったことも幸いし、
陸軍省人事局長就任頃から「同期に阿南あり」との認識が生まれていきました。 
そして、陸軍省兵務局長や陸軍省人事局長等の色々な役職を経験した後、
大東亜戦争末期に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任しました。
そしてポツダム宣言受諾問題では国体護持のための徹底抗戦を主張して
政府内の和平派と対立しましたが、
昭和天皇の聖断によって最後には終戦の詔書に同意し、
終戦に納得せず軍事クーデターを求める部下の軽挙妄動を厳しく戒めながら、
1945年8月15日未明、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で割腹し、
介錯を拒み、早朝にお亡くなりになりました。
そして8月14日深夜に始まったクーデターは、
「阿南惟幾」閣下のクーデター拒絶により、宮城事件として未遂になってしまいました。
なお「阿南惟幾」閣下が自刃したとの報が流れ、東郷茂徳外相は
「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語り、
鈴木貫太郎は「真に国を思ふ誠忠の人でした」と評しました。
「阿南惟幾」閣下と閣議でいつも衝突していました
米内光政海相も「我々は立派な男を失ってしまった」と語っており、誰よりも早く弔問に訪れたそうです。
ちなみにこうした抗戦派・終戦派どちらに属しているか分からないよう言動については、
「阿南惟幾」閣下の部下であり、その自刃にも立ち会った井田正孝陸軍中佐によれば、
「阿南惟幾」閣下が求めていたのはただ国体護持のみであり、
その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、
抗戦派・終戦派の何れにも解釈できる態度を取っていたそうです。

〜「阿南惟幾」閣下の遺書〜

一死以て大罪を謝し奉る 

昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 

神州不滅を確信しつつ    


〜「阿南惟幾」閣下の辞世の句〜 

「大君の 深き恵に 浴みし身は 言ひ遺こすべき 片言もなし」

宇垣纏

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今回は、「戦藻録」で有名な「宇垣纏」閣下についてです。
「宇垣纏」閣下は、1890年2月15日に岡山県岡山市に生まれました。
そして、1909年に海軍兵学校に入校し、1912年、海軍兵学校40期生として卒業しました。
ちなみに1941年10月16日から「戦藻録」を書き始めました。
そして連合艦隊参謀長に就任後は「山本五十六」閣下と、
真珠湾攻撃計画の許可を渋る軍令部に対し説明と説得に当たりました。
対米開戦後は、連合艦隊参謀長としてもくもくと仕事をこなしていて、
「ミッドウェー海戦」の敗北時、「黒島亀人」閣下ら参謀達がパニックに陥った時にも
冷静に対応し参加部隊を統率し撤退させました。
この時「ミッドウェー海戦」の敗北で二段攻撃の約束を破るなどした第一航空艦隊を厳しく非難しましたが、
敵情変化を連絡しませんでした連合艦隊側の責任も認めており「戦藻録」に聞き残しています。
やがて1943年4月18日に「海軍甲事件」で負傷してしまい、戦艦「武蔵」で内地に帰還しました。
そしてしばらく療養に入り1944年2月第一戦隊司令官として復帰し、
「あ号作戦」や「捷号作戦」に参加しました。
そして1945年2月に第五航空艦隊司令長官に就任し沖縄作戦を指揮ました。
就任時に「宇垣纏」閣下は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させたそうです。
そして1945年8月15日8月15日早朝に、
「宇垣纏」閣下は艦上爆撃機彗星を5機用意するように部下の
宮崎先任参謀、田中航空参謀、中津留達雄大尉に命じました。
しかし用意された機体は11機と6機多く、しかも指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、
そのことについて「宇垣纏」閣下が問いかけると、
中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」
と憤慨し怒鳴ったそうです。
やがてこの日の正午に発せられた玉音放送を聴き、「戦藻録」最後のページを書き終えた後、
自ら中津留大尉の操縦する艦上爆撃機「彗星」に搭乗し、沖縄沖に向かって大分基地から離陸しました。
そして訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えました。

杉山元

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今回は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の、
陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなりました「杉山元」閣下についてです。
「杉山元」閣下は1880年1月1日に福岡県小倉市に小倉藩士の子として生まれました。
豊津中学を経て、士官学校12期卒後、日露戦争に従軍していて、
杉山は第12師団隷下の歩兵第14連隊第3大隊副官として出征し、
1904年10月8日、沙河会戦の一部として行われた本渓湖付近の戦闘で顔面を負傷しました。
その傷痕は後まで残り、さらに左目が大きく開かなくなるという後遺症を残したそうです。
そして陸軍大学校卒業22期卒後、参謀本部の第二部に勤務し、
1912年に海軍軍令部員と共に、商社マンに扮してフィリピン・マニラに潜入し、諜報活動を行ったそうです。
そして1915年にインド駐在武官任命されたと気この時の縁で、
インド独立運動家の「ラス・ビハリ・ボース」や「スバス・チャンドラ・ボース」の、
日本招致や太平洋戦争中の対印工作に関与しています。
1918年には、中東戦線を視察した時、
エドムンド・アレンビー将軍率いる英軍の戦いぶりに衝撃を受けたそうです。。 
その後、国際連盟空軍代表随員になり、1918年に陸軍飛行第2大隊長、
1922年に初代陸軍省軍務局航空課長となり、陸軍航空隊育ての親と称されました。
1928年には陸軍省軍務局長になり、満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表しました。
1932年2月29日以降は久留米第12師団長や陸軍航空本部長、参謀次長兼陸軍大学校校長などを歴任し、
二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮しました。
そして1936年に教育総監になり、陸軍大将になりました。 
1937年、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任し、続く第一次近衛内閣でも留任しました。
盧溝橋事件では強硬論を主張し拡大派を支持していて、
天皇陛下にこの時、「1ヶ月で片付程度で片付く」といったそうです。
この後、帝国国策遂行要領決定時に対米戦も楽観的な回答をしたとき、天皇陛下に叱責を受けたそうです。
そして1938年に陸軍大臣辞任して軍事参議官となり、
1938年12月北支那方面軍司令官となり山西省攻撃を指揮します。
1939年、靖国神社臨時大祭委員長になり、1940年から1944年まで参謀総長に就任し、
対米戦開戦の立案・指導にあたりました。
1943年に元帥になり、1944年の「東條英機」閣下の参謀総長兼任の際には統帥権独立を盾に抵抗しますが、
山田乙三教育総監を味方につけた「東條英樹」閣下と、
その一派の策略に屈して辞任し、教育総監に再任します。
しかし小磯國昭内閣で陸軍大臣に再任され、
1945年、鈴木貫太郎内閣成立後、本土決戦に備えて設立された第1総軍司令官となり、
最後まで元軍令部総長の「永野修身」閣下とともに、本土決戦を唱えました。
敗戦後の昭和20年9月2日、「杉山元」閣下は横浜の第8軍司令部に呼び出され、
米軍の司令官「アイケルバーガー」中将より、第1総軍の復員を全うするよう指示を受け、
第1総軍の復員は1945年9月11日に完了し、「杉山元」閣下はその翌日に自決しました。
なおこの時に自決に立ち会いました田中忠勝大佐は、
自決の日を12日に選定した理由について、
総軍の復員完了を見届けてから自決する覚悟だったからではないかと推測しています。
また、葬儀は第1総軍の部隊葬として執行され、
「アイケルバーガー」中将が出席するという話が一時米軍側より伝えられましたが、
後に取りやめとなったそうです。
ちなみに「杉山元」閣下は、一度は東條閣下が天皇の命により止められていました、
日本製原子爆弾開発を進めたそうですが、ロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発し、
天皇陛下に、「まだやっていたのか!」と強く叱責され、やめたそうです。

「杉山元」閣下は1945年8月15日の段階で「御詫言上書」と題する遺書をしたためていたそうで、
その遺書は自決後の9月13日、昭和天皇の上聞に達しました。
内容は、↓の通りです。

御詫言上書

大東亜戦争勃発以来三年八ヶ月有余、或は帷幄の幕僚長として、
或は輔弼大臣として、皇軍の要職を辱ふし、忠勇なる将兵の奮闘、熱誠なる国民の尽忠に拘らず、
小官の不敏不徳能く其の責を全うし得ず、遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り、
数百万の将兵を損し、巨億の国幣を費し、家を焼き、家財を失ふ、
皇国開闢以来未だ嘗て見ざる難局に擠し、国体の護持亦容易ならざるものありて、
痛く宸襟を悩まし奉り、恐惶恐懼為す所を知らず。其の罪万死するも及ばず。
謹みて大罪を御詫申上ぐるの微誠を捧ぐるとともに、
御竜体の愈々御康寧と皇国再興の日の速ならんことを御祈申上ぐ。

昭和二十年八月十五日 認む      恐惶謹言

陸軍大将 杉山 元

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