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今回は、加藤隼戦闘隊で有名な帝国陸軍航空隊のエース「加藤健夫」閣下についてです。
「加藤健夫」閣下は1903年9月28日に、 北海道の上川郡東旭川村字上兵村の板葺き屋根の農家に生まれました。 「加藤健夫」閣下の父は京都から屯田兵として北海道に入植、 1904年8月に応召され、日露戦争では乃木軍に所属し、 1905年3月の奉天会戦で戦死を遂げていました。 父の戦死は「加藤健夫」閣下の進路に影響を与えたようで、 小学3年生の時には「将来の希望」という作文で 「軍人になってお父さんの仇をとる」と書いたそうです。 「加藤健夫」閣下の子供時代は秀才で正義感も強かそうですが、無口で温和な性格だったそうです。 その後、小学5年生で一家をあげて旭川に住む母の弟の家を頼り、以降は旭川で生活しました。 1918年9月には仙台陸軍幼年学校に入り、 1921年4月には陸軍士官学校予科に入学し、 1923年3月には士官候補生として帝国陸軍に入隊しました。 1925年10月26日に札幌歩兵第25連隊附の陸軍歩兵少尉に任官するも、 1926年10月27日には本人の希望で飛行第6連隊附の航空兵に転科し陸軍航空兵少尉になりました。 そして、1937年10月26日には日華事変に陸軍航空兵大尉、 飛行第2大隊第1中隊の中隊長として初陣を飾り、 1938年3月には航空部隊として始めて第1中隊に感状が授与されました。 1938年5月には陸軍大学校入校を命じられ戦地から帰国し、 1939年3月に陸軍大学校専科卒業後、陸軍航空総監部兼陸軍航空本部部員を拝命しました。 そして1939年7月には事変におけるエースとしての活躍が認められ、 「寺内寿一」閣下ら独逸、伊太利亜、米国等各国への視察旅行の随行員として訪欧しました。 なお独逸訪問時には、東部戦線や西部戦線の両戦線を視察しており、 加藤は戦闘機操縦者として先進ドイツ空軍の航空事情を調査し、 最新鋭の「 Bf109」に搭乗もしたそうです。 1941年4月には、陸軍少佐4代目戦隊長として飛行第64戦隊に着任しました 1941年8月末に部隊は「一式戦闘機 隼」に機種改編を行い、「加藤隼戦闘隊」が誕生しました。 そして対米開戦時には部隊長自らが「一式戦闘機 隼」を操り活躍し、 パレンバン空挺作戦やジャワ島航空撃滅戦等、南方作戦の成功に大きく貢献し、 特にジャワ島での戦闘では、敵航空隊250機ほどに大損害を与えたそうです。 しかし1942年5月22日、ベンガル湾上空でビルマ沿岸の アキャブ飛行場を襲いました英国空軍「ブレニム」爆撃機のうち1機を5機で追撃した際、 「ブレニム」爆撃機の銃座からの攻撃により、右翼から火を噴かせてしまい、 翼を左右に振ってこの時残っていました部下の近藤曹長機、伊藤曹長機に別れを告げるや、 高度200メートルから真っ直ぐ海に突入し自爆しました。 累計6回の部隊感状に加え、改めて1942年5月30日に南方軍総司令官「寺内寿一」閣下から 個人感状が授与され、二階級特進の栄誉を受けました。 個人感状では「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥 及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評され、 飛行第64戦隊では「七度重なる感状」となりました。 |
世界の色々なエース
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今回は、マレー作戦で活躍しました戦車乗りの「島田豊作」閣下についてです。 「島田豊作」閣下は1912年3月31日に群馬県に生まれました。 1933年7月11に陸軍士官学校を卒業した後は、 1933年10月に陸軍少尉になり、歩兵第17連隊付になって、 1934年4月に戦車第2連隊練習部に配属されました。 やがて1935年10月陸軍中尉、1938年3月陸軍大尉に昇格、 戦車第8連隊中隊長を経験して、1940年6月に戦車第6連隊第4中隊長になりました。 戦車第6連隊第4中隊長の時、「島田豊作」閣下は対米開戦時にマレー作戦に参加しました。 この時マレー作戦に参加していました「島田豊作」閣下を含む帝国陸軍は、 1942年1月6日にスリムで英軍の堅陣にぶつかりました。 ここで戦車第6連隊の「島田豊作」閣下は戦車の機動力を頼りとする戦車夜襲を決行し、 1942年1月7日午後11時から、九七式中戦車と九五式軽戦車が中核となった夜間突撃を敢行しました。 これにより1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させました。 これにより、英軍によるマレー半島有数の都市であるクアラルンプールの防衛計画は崩壊し、 結果1942年1月12日にクアラルンプールは放棄されました。 その後1942年4月には五島戦車連隊付として、満州東寧に移動し、 さらに1943年3月に陸軍士官学校機甲兵科教官として神奈川県座間に赴任しました。 そして1945年3月戦車18連隊長となり、終戦を迎えました。 戦後は館林高校の教諭として定年まで在職されたそうです。 やがて1988年7月11日に亡くなりました。 |
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今回は、帝国陸軍が誇る戦車乗りの「西住小次郎」閣下についてです。 「西住小次郎」閣下は熊本県の甲佐町に次男として生まれました。 父も祖父も西南戦争に参加したという軍歴を誇る、武家の家でした。 1937年9月に細見戦車隊と共に出陣し、宝山城の戦闘以来、 常に先駆隊として西住戦車部隊を率いて闘い、 大場鎮、南翔、南京南門街などの各地の戦闘でも活躍し、 実に30回以上の戦闘に参加して、1938年5月17日徐州西南方の宿県近くで戦死するまで武勲を挙げた。 1937(年10月21日の大場鎮の戦いでは、帰趨の鍵を握る無名集落の攻防戦で、 日本軍の猛攻をはねのけてビクともしない敵軍の堅陣に、 戦車で150メートルの近くまで迫り、たった2台の戦車で9時間も死闘を演じ、 遂に敵軍は崩れて、大場鎮攻略への突破口を開いきました。 しかし自らの戦績を誇る事なく、報告は常に控えめだったそうです。 大場鎮の戦いのあと、蘇州河に進出した「西住小次郎」閣下は反転して南翔攻城戦に参加しました。 必死で防戦する敵のため、戦闘は膠着状態になってしまい、。 「西住小次郎」閣下は、戦車で果敢に敵の真正面に突入してしまいます。 すると、敵の撃った砲弾が、なんと戦車を直撃し、 「西住小次郎」閣下の戦車は、戦車正面に大きな穴が空いてしまいました。 しかし「西住小次郎」閣下は、狭い戦車の中で操縦手と射手を左右の側壁に隠しながら、 自分は天蓋にぶら下がり、その状態でなおも2時間近くも戦い続けました。 この戦いの最中、部下の山根小隊を見失ってしまいましたが、 そのとき「西住小次郎」閣下は、敵前で敵弾がうなり声を上げる中を戦車から飛び降り、 真っ暗な前線で声を限りに部下を探し、呼び続けましたが、 声を限りに部下を捜している最中に、敵弾で左足を撃たれてしまいました。 しかし「西住小次郎」閣下は軍靴の長靴を脱いで、 下駄を左足に縛り付けて部下を捜しと戦闘を継続しました。 ちなみ山根小隊は単に引き揚げルートを間違えただけで、 西住戦車隊とは、無事合流しましたが、「西住小次郎」閣下は、「良かった良かった」と、 山根隊の無事を喜んで男泣きに泣いていたそうです。 そして戦闘後自分の痛む傷をほっておいて、 重傷を負った部下のために野戦病院で付きっきりで看病したそうです。 怪我もまだ癒えないうちに、続けて南京攻城戦に参加し、 「西住小次郎」閣下は南京占領後、徐州作戦に参加しましたが、 この徐州作戦の最中の1938年5月17日、 宿県南方の黄大庄付近で、敵陣に数十メートルというところで、 乗っている戦車が手前の小川に阻まれ、 「西住小次郎」閣下は、小川の深さを測るため、戦車を飛び降りましたが、 戦車の通れる地点を見定め、そのことを中隊長に報告しようと走り出だしたとき、 敵の銃弾が西住中尉の右太ももを貫通し、 動脈が切れてしまい、出血がひどくなりその場に倒れ、 中隊長には「お先に失礼します。どうかしっかりやって下さい」と残し、 さらに母に向けて「お母さん、小次郎は満足してお先に参ります。 これからお一人でお淋しい事と思います。永い間、可愛がっていただきました」と残し、 姉には「姉さん、いろいろお世話になりました」と残して、 弟には「弟よ立派に」と言ったところで死亡してしまいました。 この時「西住小次郎」閣下は25歳だったそうです。 戦死後は中尉でしたが、特進して大尉となりました。 なお「西住小次郎」閣下は戦地で負傷5回、戦車に浴びた弾丸が1100発だそうです。 |
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1921年12月5日、香川県綾歌郡山田村に、 父・穴吹保太郎と母・ヤナの12番目の子、八男として生まれました。 1938年、「穴吹智」は少年飛行兵を目指し東京陸軍航空学校へ入校し、 1939年4月には陸軍少年飛行兵第6期生として熊谷陸軍飛行学校に進み、 そして1940年10月に太刀洗陸軍飛行学校へ入校、 1941年3月に同校を卒業し、陸軍航空部隊の戦闘機操縦者として飛行第50戦隊第3中隊に配属されました。 1941年10月に陸軍伍長に任官され、 対米開戦時には「九七式戦闘機」を操り南方作戦におけるフィリピン攻略戦に従軍、 1941年12月22日にはリンガエン上空で米国陸軍航空軍の「P-40」を撃墜し初戦果にしました。 1942年4月、飛行第50戦隊は本土に帰国し一式戦闘機に機種改編訓練をしました。 飛行第50戦隊はビルマ戦線に従軍し主に英国空軍と交戦、 以後、ビルマ・東インド・西南中国を転戦し戦果を上げました。 1942年12月には陸軍軍曹に任官し、1942年12月24日、 なんと主脚の格納を忘れた状態で空戦をして、「ハリケーン」2機を撃墜しました。 1943年5月29日、チッタゴン上空で「ハリケーン」と「スピットファイア」各1機を撃墜しました。 1943年10月8日にはビルマのバイセン上空で 「P-38 ライトニング」2機を撃墜、さらに「B-24 リベレーター」爆撃機1機に体当たりして撃墜し、 1943年10日に第3航空軍司令官より個人感状を授与されました。 1944年2月、明野陸軍飛行学校附助教の辞令を受けて飛行第50戦隊を離れ本土に帰国し、 ビルマ留学生等の操縦教育を担当しました。 そして「ルソン島の戦い」で「四式戦闘機 疾風」を空輸する危険任務につき、 フェリー中に台湾の高雄上空において「四式戦闘機 疾風」にて 米国海軍の「F6F ヘルキャット」4機の撃墜を報しました。 そおして1943年12月、陸軍曹長に任官され、 第二次世界大戦敗戦までは明野教導飛行師団教導飛行隊にて 「五式戦闘機」に搭乗し本土防空戦に従軍、「B-29」 爆撃機1機の撃墜をしました。 戦後は、1950年には警察予備隊に入隊して保安隊を経て、 陸上自衛隊東北方面ヘリコプター飛行隊長などを歴任し、 1971年に2等陸佐で退官しました。 その後、日本航空に入社し、1984年に退社して2005年6月死去しました。 戦争全般を通じての総撃墜報告数は51機だそうです。 |
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出撃回数2530回
被撃墜回数30回(全て対空砲によるもの) 戦闘による負傷5回 ソ連軍によってかけられた賞金10万ルーブル 戦果 戦車519輌 装甲車・トラック800台以上 火砲(100mm口径以上)150門以上(100mm以下も含めるとさらに増えます。) 装甲列車4両 戦艦1隻撃沈(ガングート級戦艦マラート) 嚮導駆逐艦1隻 駆逐艦1隻 上陸用舟艇70隻以上 航空機9機(戦闘機2、爆撃機5、その他2。9機のうち1機は37㎜砲により撃墜) 「ルーデル」のすごさをもっと知りたい人は、 ハンス・ウルリッヒ・ルーデル へアクセス!! けっこうおもしろいですよ。 |




