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新しい令和の時代を迎え、一人燥ぎ回っている報道によれば、
各地の神社仏閣にも参拝者が押し寄せているようで、
大阪にある史上最強と言われているパーワー
スポットの『 サムハラ神社 』も相変わらず
大賑わいなんだそうです。
その人気の理由は、サムハラの四文字が刻まれた
御神環(指輪)の拝受が目的なんだそうで、
この不思議な四文字は、昔から災難除け、身を守る
力があるといわれてきました (・・?
そんな御神徳がある指輪を授与する神社が
大阪メトロ阿波座駅から徒歩10分程の
立売堀あるといいます。
久し振りに大阪メトロ阿波座駅にやってきました。
あまりの久し振りなので出入り口を間違え
新なにわ筋の南西に出てしまいました。
阿波座の交差点、見上げると空がおません。
高速の橋桁だらけ( ^ω^)・・・。
阿波座交差点から中央大通りを東に進み、あみだ池筋を
右(南)に曲がり、立売堀3南を左(東)に曲がって
大阪腐警機動警ら隊の建物を見て右(南)に曲がると
サムハラ神社が (^▽^)/
サムハラ神社は、昭和10年(1935)に田中大元堂創業者の
田中富三郎氏が、岡山県津山市加茂町に位置する
サムハラ大神の祠の荒廃を嘆き、大阪中之島
の豊国神社隣接地に遷宮し奉じました。
豊国神社が大阪城二の丸へ遷宮するのに伴って、
昭和36年(1961)に西区立売堀の現在地に
遷宮をしました。
サムハラ大神
『 天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神 』
三神が奉安されている宮殿が安置されている拝殿です。
一礼・祈念・三度拝・四開手・一度拝・一礼
お守りの御神環(指輪)を拝領しようと社務所を訪ねたのですが、
5月のいずれかの日の授与する予定で今日は・・・。
でいつになるのかと問い合わせると
『 申し上げることができません 』
とのことでした ( ノД`)。
けちやなぁ (・・? ほんまに
お参りを済ませたので帰宅することに、山善ビルの
前を右(東)に向かって
懐かしの明治小学校前を通って
なにわ筋を横断し
四橋筋に出てきました。
四橋筋を少し北に向かい信濃橋(現・西本町)から
大阪メトロで帰宅します。
令和が祝福された時代でありますょう
岡山県津山市加茂に位置するサムハラ神社奥の院です。
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浪花のおじさんぽ
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古今和歌集の仮名序に記された難波津の歌
『 なにはづに さくやこの花 ふゆでもり
いまははるべと さくやこのはな 』と
詠った王仁博士 (・・?
百済から渡来した学者で 『 論語 』 『 千字文 』 を応神仁天皇に
献上し、太子菟道稚郎子の師となったと伝わっている
王仁博士の伝承の地を訪ねてみました。
浦江の聖天さんから北に位置する旧浦江の
大仁(旧・大淀町)へ向かいます。
JR東海道線のガードの手前で 『 どげぬき稲荷 』 の
赤い幡の立った妙壽寺さんに出会いました。
妙壽寺は称號山妙壽寺という曹洞禅宗の仏教寺院で、
大阪ではとげぬき稲荷で有名なお寺なんです。
とげぬき稲荷は、人々の苦しみや悩みのトゲを取り除く
稲荷神として信仰を集めているそうです。
あらゆる悩みのトゲを抜いてくれるそうですょ
![]() JR東海道線のガードを潜るとかつての大淀区
大仁町 『 王仁の里 』 なのです。
JR線の側道を少し西に進み右(北)に曲がると
公園の中に浦江八坂神社があります。
浦江八坂神社は、大阪市北区大淀南に鎮座する
神社で、正式には素戔嗚尊神社と言います。
鳥居をくぐった正面に牛頭天王社があり、
牛頭天王社右隣には王仁社が(・・?
寛政8年(1797)刊行の攝津名所図会には、
『 大江殿古蹟難波旧図 田蓑島あり この所斎宮女御御禊の地
今大仁村の北端に古松一株あり その下に石造りの宮の
屋根なるもの見ゆる 余は土中に埋もれたり これを
祓除の地の古称なるか 』 と記しています。
大江殿古蹟が牛頭天王社の右隣に位置する
一本松大明神とも王仁大明神とも
呼ばれている王仁社なのです。
この社の位置に石造りの宮が❔❔❔
攝津名所図会や攝津史に記された斎宮女御御禊の地
が、浦江八坂神社境内社の野々宮社なのです。
ほんまかいなぁ
![]() と疑いながら参拝を終え退所
なにわ筋に戻り辺りを見渡すと景色がチョット変わってます
公園の左側
なんで、なんで、なんで (・・?
その昔(最近まで)シンホニーホールの奥にプラザホテルに
朝日放送と大阪タワーがあったんですが ❔
平成20年(2006)に朝日放送が堂島に移転し、電波塔の
大阪タワーも解体され、ホテルプラザの建物も
解体され、タワーマンションに
変わってしまうようです。
10年ひと昔と言いますが、10年ぶりに大淀界隈に
訪れたのですがあまりの変わりように
驚いています。
浦島太郎状態で、
なにわ筋を南に下り
JR大阪環状線福島から帰宅することに
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淀川と大川河口に拡がる茅渟の海に数多くの島が浮かび、
砂州が広がっていた浦江には杜若が咲き誇る浦江の
了徳院に多くの文人墨客が訪ねていました。
JR大阪環状線の福島駅のガードを潜り北に
ガードを潜って踏切を渡り、側道を左に曲がって
福島聖天通焦点がの入口へ
あみだ池筋を超えて次の交差点を右(北)に曲がると
左に浦江の聖天さんがあります。
昭和20年(1945)の大阪大空襲で唯一消失を逃れた、
淡路の廻船問屋・高田屋嘉兵衛が寄進した
山門をくぐって境内に。
浦江の聖天さんは東寺真言宗の仏教寺院で、大阪市
福島区に位置する如意山了徳院と言います。
山門を潜り左側の参道を進み鳥居をくぐると正面に
大聖歓喜天を安置する聖天堂があります。
正面に本尊を安置する本堂があるがのですが、
了徳院はこじんまりとした本堂が聖天堂の
左脇に位置し、本尊の準泜観音を
安置しています。( ;∀;)
境内の中ほどに福島区の花、ノダフジが植栽されて
近年は藤のお寺として有名なようです。
藤棚の奥(東側)に弁天池がありますが (・・?
幕末期に芳雪が描いた浪花百景石和板『うらえ杜若』
では、かつては境内にいくつかの水路が流れ込み、
杜若が群生している様子が描かれています。
(大阪府立中之島図書館蔵)
花の時期には多くの文人墨客が訪れ、松尾芭蕉も
門弟と訪れ歌を残していますょ。
そんな水路も都市開発で失われ、今では申し訳程度の
杜若が小さくなった弁天池に植栽されています。
聖天堂・観音堂のお参りを済ませ下山します。
了徳院を下山し次の目的地に向かいます。
なんか久しぶりに浪速のおじさんぽ
街歩きがこんなにしんどいとは
平成も残りわずかになったやん
もうちょっとやんか
力ら入れゃ
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幕末は大塩平八郎の乱から始まった
天保8年(1837)2月19日、 『 救民 』を旗印に掲げ蜂起し川崎東照宮
前に集結した大塩一党は大坂城目指して南下するのですが、
天満橋に陣を張った幕府軍に行く手を阻まれ、難波橋に
進路を変え船場へと突き進んでいくことに成りました。
江戸時代末期に石川屋助が刊行した浪華名所獨案内です。
(資料は大阪市立図書館蔵)
川崎東照宮から南に下り天満橋で右折し、青物市場を
横切り難波橋をへて、船場に乱入した大塩一党。
難波橋を渡って船場方面に進軍し
難波橋を渡ると大阪取引所がある北浜に出てきます。
この付近は江戸時代に俵物会所や金相場や
難波橋を渡り北浜1丁目を経てすぐ南の今橋1
交差点を右(西)に曲がった大塩一党は、
今橋1丁目の両替商鴻池屋を襲撃
略奪の上、火を放ちます。
(資料は江戸時代の鴻池屋本家の画像・Web上から借用)
大正元年(1912)の旧鴻池屋本家の画像です。
(資料はWeb上から借用)
両替商旧鴻池屋本家跡地には現在大阪美術
倶楽部のビルになっています。
旧鴻池本家から一筋南の高麗橋1丁目には
両替商旧大阪三井屋がありました。
(画像は大正時代の三井屋・Web上から借用)
旧鴻池屋と並び旧三井屋も大塩一党に
急襲・略奪の上火を放たれました。
両替商旧大阪三井屋の跡地は三井ガーデンホテル
大阪淀屋橋に変わっています。
幕政に不満を持つ民衆が加わり、三百数十名にまで
膨れ上がった大塩一党は、船場に火を放ち
今橋・高麗橋通を東に向かって
(資料はWikipediaから借用)
大坂城を目指し東横堀川に架かる高麗橋を渡ったところで、
大坂東町奉行指揮下の幕府軍と銃撃戦となり、
船場方面に押し戻されてしまいます。
(画像は高麗橋東詰めです)
押し戻された大塩一党は平野町・淡路町付近で、
大坂西町奉行所指揮下の幕府軍と激突、
大塩一党は壊滅状態になり ( ;∀;)
(画像は現在の平野町です)
壊滅状態となった大塩一党は、堺筋の高麗橋1丁目
付近で最終決戦に臨み一党は総崩れになり、
決起後僅か8時間余りで鎮圧されてしまいました。
(画像は現在の高麗橋1丁目です)
八軒屋浜に逃れた大塩平八郎と養子格之助は、
船に匿われ落ち延びていきます。
画像は寛政8年(1797)刊行の摂津名所図会に
記された八軒屋浜です。
(資料は早稲田大学図書館蔵)
明治30年(1897)頃の八軒屋浜の画像です。
(資料はWeb上より借用)
現在の八軒屋浜です。
八軒屋浜で船に匿われた大塩親子は大川を下り、
西横堀川を経て阿波座堀川に逃れます。
四橋筋本町信濃橋交差点です。
ここ本町通は江戸時代、西横堀川が信濃橋で
分流した阿波座堀川が流れていました。
八軒屋浜から落ち延びた大塩親子はこの付近で下船し、
天保8年(1837)3月27日、油掛町の美吉屋五郎兵衛方に
潜伏していた大塩親子は、探索方に包囲され
美吉屋を放火し爆死を遂げました。
美吉屋五郎兵衛宅があったのが、現在の靱本町1の
大塩平八郎終焉の地碑かあるこの裏、個人宅に
なるので画像は省略です。
元役人であった大塩平八郎の反乱は単なる一揆ではなく、
幕政を批判した反乱で天保の改革の
きっかけとなりました。
最後までお付き合い
有難うございました。
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天保8年2月19日、『 救民 』を掲げ蜂起した大塩一党は川崎
東照宮前に集結、一気に大坂城目指して南下を始めた
のですが、決起直前になって町目付が離反し、決起
計画と参加者が察知されてしまうのです ;∀;。
情報を得た幕府軍は天満橋南詰に陣を張り
大塩一党を待ち伏せていました。
川崎東照宮から10数分で天満橋北詰に、
南詰に陣を張る幕府軍を察知した大塩一党は、
橋の手前で青物市場を横切り難波橋へ。
しかし、
天満橋を渡るとこんなに東町奉行所、
大坂城は近くに Σ(・□・;)
今では天満橋を渡るとすぐ右側に京阪電鉄の
天満橋駅前に出ます。
この付近に幕府軍が陣を張り大塩一党を
待ち受けていました。
天満橋を渡り京阪天満駅を右に見て、
天満橋筋を南に下り谷町1丁目を
左(東)に曲がるとそこに
正面に大坂城京橋口、左に国の大阪
合同庁舎1号館があります。
江戸時代にはこの合同庁舎1号館付近に
大坂東町奉行がありました。
(大坂東町奉行史資料はWebから借用)
大坂東町奉行は、徳川幕府の遠国奉行の一つで、
老中支配の下で大坂三郷の市政、警察、裁判、
租税徴収を司どり、摂津国、河内国、和泉
国、播磨国の幕府領の徴税、裁判も
努めていました。 (ノ・ω・)
大阪合同庁舎1号館前には大坂東町奉行跡の
石碑が建てられていますが、現在も
この地は国の出先機関が
占拠しています。
諸説ありますが、徳川幕府の軍事拠点だった大坂城には、
常時三千〜三千六百名程度の勤番武士が勤め、地方
役人を含めると総勢約八千名程度の武士が
勤務していたと伝わっています。
大塩平八郎の門弟三十数名と庶民併せて
約三百程度の大塩一党。
対
約八千名の幕府軍。
難波橋に向かったんは
しょうがないね (´;ω;`)
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