希・羅語文献の訳し方研究 (旧デ・アニマの訳をいつかやりたい)

中世の聖歌の訳と単語帳、もしリクエストなどがあればもう少し力を入れてやります。

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はじめからうすうす感じていたことですが、だんだんはっきりしてきたことに、
アリストテレスの本領は論理学であって、哲学の才能はなかったようです。
アリストテレスは論理学は創造的に開発しましたが、あとそれ以上は進めなかったようで、
ほかの学問分野に関しては、ただ論理学の方法をその分野に当てはめただけ、という感じで創造性がないのです。
形而上学や霊魂論を読んでも、ただ論理学で培った論法で知ったかぶりを披露しているだけで、
すべてが浅く触れられるだけで、
哲学的に深いことが何も言えてないのです。
他人の説の収集、紹介、吟味をしたり、
次々と浮かんでくる疑問や課題を述べたり(そういうことを言うといかにも知的で頭がいいように見えるのです)しますが、
自分の哲学的洞察に関してはまったく浅くしか言えてないし、
あとは詳しく掘り下げて深く書いてるところがあるとすれば、それは言葉の分析をしているところだけです。
言葉の分析は論理学であって、哲学(例えば、存在の探求とか、霊魂の探求とか)そのものではありません。

だからアリストテレスをこれからも続けるとすれば、
哲学よりも論理学のほうを勉強したほうがいいような気がしてきました。
すぐには軌道修正できないだろうけど、だんだんそっちの方に行ったほうがいいと思っています。

哲学的に深いものに触れたければ、アリストテレスよりもプロティノスのほうを見たほうがいいかもしれない、とも思います。
プロティノスは新プラトン主義の祖と言われているから、
どうせ真実味のない空想哲学だろうと思って読まないできたのですが、
読んでみると、わりと哲学的に深いんじゃないだろか、という気がすることがあります。
アリストテレスは哲学的に直感的な(=創造的な。つまり哲学的領域へ向かう直感の)記述がないのに対して、プロティノスにはあるからです。
へたくそな訳しか出ていないから、読んでいてもほとんど理解できないのですが、
そうするとぼくが将来もっといい訳をしてみよう、という向上心にもなりますし。
(やっぱり、アリストテレスの霊魂論も、すごく下手で意味不明な訳しか出ていないから、よしぼくがいつかうまい訳を出そう、という向上心にもなっていたのです。)

<翻訳リサイタル・・・・・・翻訳と演奏の類似>




これは世の中を変えるぼくの計画です。

(まだ作成途中です。これから少しずつ直していきます。)








音楽にリサイタルがあり、盛んに行われているように、翻訳リサイタルも盛んに行われる世界をつくろうと、ぼくは目指します。


翻訳は音楽の演奏と同じです。演奏は、作曲者の表現したものを現代の、或いは地元の、或いは同世代の、或いは自分と同じ程度の知性の人々にわかるようにして聞かせることであり、翻訳も現代の、或いは地元の、或いは同世代の、或いは自分と同じ程度の知性の人々にわかるように聞かせることです。



今の世の中では、翻訳は誰か1人がやったらあとは同じものを訳すのは無意味、という思いこみがあるのですが、それはおかしいのです。音楽で誰かがバッハのCDを出したらあとほかの人はバッハのCDを出す価値がないでしょうか?



音楽の演奏家が無数にいるように、翻訳者も無数にいるべきなのです。それぞれの演奏家が、楽譜から自分で理解できる限りのことをを演奏で伝えるように、翻訳者も原書から自分で理解できる限りのことを伝えます。それぞれの翻訳者に得手不得手があり、或る個所は非常によい訳ができても他の個所ではあまりよい訳ができないものです。それを、翻訳家が無数にいることによって相互に補うわけです。



翻訳は、著者が意図したことをできるだけ、翻訳者にわかった範囲だけでも、読者に伝えることを目指すべきだと思います。翻訳は翻訳者が理解したことを(著者が意図していることの中で訳者が感じ取れたものをなるだけ多く)盛りこまなければ意味がないです。




ただの直訳はあまり読む価値がないです。ただの直訳を見るくらいだったら原文を見るほうがいいからです。直訳の価値は、語学学習者に、学習しやすい対訳を与えることです。ただ直訳は、語学の勉強のためでなく思想そのものを読もうとする人にはあんまり価値がないのです。意味的に正確に訳すには意訳するしかなく、文法的に正確に訳すには直訳にするしかないからです。



いま学術的な翻訳なんかで蔓延している直訳的な翻訳というのは、音楽で言えば、ピアノを習いはじめたばかりの子供が、作曲者の表現しているものを何も理解できずに、ただ譜面どおりになんの表現もなく弾くのと同じことです。聞き手には作曲者の意図した表現が1つも伝わりません。同様に、直訳はまったく読み手に意味が通じない文章ですが、意味の通じない訳などなんの価値もないわけです。



同じ楽譜でも、人それぞれうまく理解できるところとできないところがあります。演奏にうまいところと下等なところとムラができるのを怖れず、自分に理解できるところはできるだけ表現した方がいいと思います。今は音楽界でも完全主義が蔓延していて、下手な人は人前で弾くことができない状態ですが、人それぞれ楽譜の1個所ぐらいはプロよりよく理解できるところがあるのだから、その他の個所は粗末で聞くに堪えなくても、その1個所だけは聞く価値があるかも知れません。要は翻訳者相互でおぎない合って、読者によりよい理解を与えることです。



訳者は読者に「この難しい個所はどういう意味なのだろう?」と頭をひねらせることをしてはならないと思います。まったく考えなくてもわかるようにしてやらなければならないのです。直訳をしただけであとは「読者に考えてもらう」、というのは訳者自身がよく理解できなかったことを隠すごまかしです。



音楽のコンサートは、一般の人にとってはあまり自分の生活の役には立てようのないものですが、翻訳リサイタルなら、もっと一般人の身近なところに影響してくるかもしれません。翻訳は小説なんかと同じように言葉のフロンティアであり、新しい言語表現を見聞きできる場だからです。音楽よりもその点、影響力大なのではないでしょうか?




クラシックCDは、表現を盛りこみすぎかもしれない、と思います。まるで1文1文の訳と注釈を凝りに凝りすぎて、全体がつかみにくい翻訳のように。あまり情報が多すぎて、聞き手は頭の働きがストップして、ほとんど理解できません。それよりだったら、表現が3分に1回来る程度に密度を希薄にしたほうが、疲れず、スムーズに理解できると思います。そして演奏者がもっと表現を聞かせたい場合は、それは別の演奏でやるのです。1枚に全部の表現を濃密に盛りこむよりも、1枚1枚を希薄にして、何枚ものバリエーションを出したほうが、聴衆は疲れずに楽しめるのではないでしょうか。



で、翻訳も、注釈を盛りこみすぎると、読み手が理解しきれなくてよくないのです。だから、1冊にすべての注釈を盛りこむのは避け、その代わりに1冊1冊の注釈は希薄にして、何冊も出すことによって補うわけです。

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『翻訳リサイタル』


これはぼくの計画です。

(まだ作成途中です。これから少しずつ直していきます。)



音楽にリサイタルがあり、盛んに行われているように、翻訳リサイタルも盛んに行われる世界をつくろうと、ぼくは目指します。



翻訳は音楽の演奏と同じです。演奏は、作曲者の表現したものを現代の、或いは地元の、或いは同世代の、或いは自分と同じ程度の知性の人々にわかるようにして聞かせることであり、翻訳も現代の、或いは地元の、或いは同世代の、或いは自分と同じ程度の知性の人々にわかるように聞かせることです。



今の世の中では、翻訳は誰か1人がやったらあとは同じものを訳すのは無意味、という思いこみがあるのですが、それはおかしいのです。音楽で誰かがバッハのCDを出したらあとほかの人はバッハのCDを出す価値がないでしょうか?



音楽の演奏家が無数にいるように、翻訳者も無数にいるべきなのです。それぞれの演奏家が、楽譜から自分で理解できる限りのことをを演奏で伝えるように、翻訳者も原書から自分で理解できる限りのことを伝えます。それぞれの翻訳者に得手不得手があり、或る個所は非常によい訳ができても他の個所ではあまりよい訳ができないものです。それを、翻訳家が無数にいることによって相互に補うわけです。



翻訳は、著者が意図したことをできるだけ、翻訳者にわかった範囲だけでも、読者に伝えることを目指すべきだと思います。翻訳は翻訳者が理解したことを(著者が意図していることの中で訳者が感じ取れたものをなるだけ多く)盛りこまなければ意味がないです。




ただの直訳はあまり読む価値がないです。ただの直訳を見るくらいだったら原文を見るほうがいいからです。直訳の価値は、語学学習者に、学習しやすい対訳を与えることです。ただ直訳は、語学の勉強のためでなく思想そのものを読もうとする人にはあんまり価値がないのです。意味的に正確に訳すには意訳するしかなく、文法的に正確に訳すには直訳にするしかないからです。



いま学術的な翻訳なんかで蔓延している直訳的な翻訳というのは、音楽で言えば、ピアノを習いはじめたばかりの子供が、作曲者の表現しているものを何も理解できずに、ただ譜面どおりになんの表現もなく弾くのと同じことです。聞き手には作曲者の意図した表現が1つも伝わりません。同様に、直訳はまったく読み手に意味が通じない文章ですが、意味の通じない訳などなんの価値もないわけです。



同じ楽譜でも、人それぞれうまく理解できるところとできないところがあります。演奏にうまいところと下等なところとムラができるのを怖れず、自分に理解できるところはできるだけ表現した方がいいと思います。今は音楽界でも完全主義が蔓延していて、下手な人は人前で弾くことができない状態ですが、人それぞれ楽譜の1個所ぐらいはプロよりよく理解できるところがあるのだから、その他の個所は粗末で聞くに堪えなくても、その1個所だけは聞く価値があるかも知れません。要は翻訳者相互でおぎない合って、読者によりよい理解を与えることです。



訳者は読者に「この難しい個所はどういう意味なのだろう?」と頭をひねらせることをしてはならないと思います。まったく考えなくてもわかるようにしてやらなければならないのです。直訳をしただけであとは「読者に考えてもらう」、というのは訳者自身がよく理解できなかったことを隠すごまかしです。



音楽のコンサートは、一般の人にとってはあまり自分の生活の役には立てようのないものですが、翻訳リサイタルなら、もっと一般人の身近なところに影響してくるかもしれません。翻訳は小説なんかと同じように言葉のフロンティアであり、新しい言語表現を見聞きできる場だからです。音楽よりもその点、影響力大なのではないでしょうか?

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fminorop さん、これで全部終わりました。
説明のしかたがぼくあまりよく思いつかなかったので、あまり効果的なものではないと思いますが、fminorop さんにとってなにほどかの足しになればいいなと思います。



6行目
flebilis in terra sit lapis iste tua.

かわいそうな墓石はあなたの土地に1つだけですむでしょう。

・flebilis は「pitiful, deplorable/tearful」という意味の形容詞 flebilis/flebilis/flebile の男性・主格です。後の lapis(「石/墓石」男性・主格)を修飾します。「かわいそうな墓石は」という意味になると思います。
形容詞 flebilis/flebile 単数の格変化
男性・女性 中性
flebilis flebile
flebilis flebilis
flebili flebili
flebilem flebile
flebili flebili
・in はここでは英語の「in」と同じような意味です。奪格の名詞を取ります。次の奪格の名詞 terra「地」をとるのです。
・terra は「地」という意味の女性名詞です。主格と同じ形に見えますが、奪格です。in といっしょに「土地において」という意味になります。
terra 主格(〜は)
terrae 属格(〜の)
terrae 与格(〜に)
terram 対格(〜を)
terra 奪格(〜において)
・sit は「be」動詞である sum の接続法・現在・3人称です。この動詞の主語は flebilis lapis(かわいそうな墓石は)です。接続法ではいろんな意味が表されますが、ここでは「would be」のような意味だと思います。
sum の接続法・現在の変化。
sim (わたしは〜)
sis 2(あなたは〜)
sit 3(彼・それは〜)
simus 複数・1(わたしたちは〜)
sitis 複数・2(あなたたちは〜)
sint 複数・3(彼ら・それらは〜)
・lapis は「石/墓石」などの意味の男性名詞の主格です。「墓石は」という意味です。
lapis 主格(〜は)
lapdis 属格(〜の)
lapidi 与格(〜に)
lapidem 対格(〜を)
lapide 奪格(〜によって)
・iste は指示代名詞・形容詞の1つで、形容詞として使われたときは、「例の」という意味になり、「例の墓石」のように使われます。
代名詞として使われたときは「例のもの」という意味になります。
ここでは lapis(墓石)を修飾して「例の墓石は」という意味です。lapis と同じ男性・単数・主格です。
・tua は指示形容詞 tuus/tua/tuum「あなたの」の女性・単数・奪格です。女性・単数・奪格の名詞 terra を修飾します。in terra tua で「あなたの土地において」という意味になります。
・なお、前の行 sic lare perpetuo, sic turba sospite solus
(そうすればかまどの火は永久に保たれ、親族・土地の仲間は無事安泰に過ごすことができ、)の solus は、この行に属しています。
solus は形容詞 solus/sola/solum「only」の男性・主格です。lapis(墓石)に対して述語になります。lapis sit solus(tomb would be only one)というふうに。



flebilis in terra sit lapis iste tua.
を英語的な語順に直すと、
in tua terra iste flebilis lapis sit (solus)
in your land that kind of pitiful tomb would be only one
となります。




(仮の訳)
Hic festinata requiescit Erotion umbra,
この木陰に死に急いだエロティオンは眠る、
crimine quam fati sexta peremit hiems.
運命の6つ目の冬が罪なことに彼女を殺した。
quisquis eris nostri post me regnator agelli,
わたしの後でわたしたちの小さな地所の領主になるあなたが誰であろうと、
manibus exiguis annua iusta dato:
小さな手に年ごとのとむらいの供え物をあげてください。
sic lare perpetuo, sic turba sospite solus
そうすればかまどの火は永久に保たれ、親族・土地の仲間は無事安泰に過ごすことができ、
flebilis in terra sit lapis iste tua.
かわいそうな墓石はあなたの土地に1つだけですむでしょう。

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fminorop さん、5行目の説明終わりました。あと1回です。参考になったでしょうか?



sic lare perpetuo, sic turba sospite solus

そうすればかまどの火は永久に保たれ、親族・土地の仲間は無事安泰に過ごすことができ、

・sic は英語の「so」と同じ。
・lare は名詞 lar「household god/hearth, home」の奪格です。ここでは絶対的奪格という用法で、英語で言えば with his wife being absent, he lived those days in gloom の with his wife being absent のような使い方です。状況や原因を表します。
次の語 perpetuo(形容詞 perpetuus/perpetua/perpetuum 「perpetual」の奪格)といっしょに、「with the hearth being perpetual」「with the hearth continuing perpetually」のような意味になります。
lar の格変化
lar 主格
laris 属格
lari 与格
larem 対格
lare 奪格
・sic は「so」という意味の副詞です。
・turba はぼくの手に入る辞書にはいい意味が見つかりませんでしたが、Oxford Lstin Dictionary には「"5. A (large) group of people having common interests or characteristics, a company, set. b applied to a set of offspring, relatives, friends or sim. [similar]. c applied to the inhabitants or occupants of a place."」とあるそうです。「親族・土地の仲間」という意味に取りました。奪格です。これも絶対的奪格です。
・sospite はsospes「safe and sound」という意味の形容詞の奪格です。前の turba を修飾します。turba sospite で「with (your) clan safe and sound」というような意味です。
sospes の格変化
sospes 主格
sospitis 属格
sospiti 与格
sospitem 対格
sospite 奪格
・solus は形容詞 solus/sola/solum「only」の男性主格です。この行の語にはこの形容詞が修飾する名詞はありません。次の行の男性主格の名詞である lapis を修飾します。




(仮の訳)
Hic festinata requiescit Erotion umbra,
この木陰に死に急いだエロティオンは眠る、
crimine quam fati sexta peremit hiems.
運命の6つ目の冬が罪なことに彼女を殺した。
quisquis eris nostri post me regnator agelli,
わたしの後でわたしたちの小さな地所の領主になるあなたが誰であろうと、
manibus exiguis annua iusta dato:
小さな手に年ごとのとむらいの供え物をあげてください。
sic lare perpetuo, sic turba sospite solus
そうすればかまどの火は永久に保たれ、親族・土地の仲間は無事安泰に過ごすことができ、
flebilis in terra sit lapis iste tua.
かわいそうな墓石はあなたの土地に1つだけですむでしょう。

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