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先日、「地の塩の箱」の記事を載せ、日本という国に対しても、自分を含む日本人というアイデンティティにも「なんだかなあ・・」と自信が乏しくなってしまい、逆になんかいい話はないかなとネタ探しをしてました。

・・・で、結果。ありましたよっ!素敵な話。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが「エルトゥールル号遭難事件」とその後の恩返し。
しかもそれにまつわる動画作品も。
偶然とはすごいもので(笑)、どなたが作られたのか知りませんがFLASHで・・。
しっかり拾わせていただきました(笑)

今回はこれを「泣けるシリーズ」としてご紹介したいと思います。
まずは、その拾ってしまった動画FLASHからご覧ください。







いかがでしょうか?
ちょっといい話でしょう?



日露戦争での勝利をトルコが歓迎したことはかろうじて歴史の時間に聞いたことがありました。
イラン・イラク戦争のときのトルコの救助は私も記憶にありますが、その理由までは知りませんでした。
また、エルトゥールル号遭難事件の知識に関しては、私は皆無。
でも「ほとんどの日本人が知っている話」でもなさそうです。

なぜなんでしょう。

トルコの教科書にはあるそうで、トルコ国民は多くの方がご存知の話だそうです。


イメージ 1 (←エルトゥールル号遭難慰霊碑/和歌山県串本町)

 この逸話は実はインターネットで広く伝えられて
 きているお話のようです。

 同じ文章が転載されて多くのWebやブログでも
 取り上げられているようです。
 私は下記から引用しました。
 OPEN JAPANメールニュース
 転載・引用許可などは(毎度のことですが)
 頂いておりません。(笑)
 下にその文章を転載させていただいました。





(転載)
エルトゥールル号の遭難 〜生命の光から〜

和歌山県の南端に大島がある。
その東には灯台がある。
明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。
今も断崖の上に立っている。

 びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
 どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。

午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。
灯台守(通信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起こらなければいいが」

灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。
全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波 の力でどんどん近づいてくる。
あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。

 ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。 この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。 一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
意識を失い、岩場に打ち上げられた。

「息子よ、起きなさい」

懐かしい母が耳元で囁いているようだった。

「お母さん」

という自分の声で意識がもどった。

真っ暗な中で、灯台の光が見えた。

「あそこに行けば、人がいるに違いない」

そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。
灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔 から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。

「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」

と感嘆した。

「あなたのお国はどこですか」

「・・・・・・」

言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ 人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」

傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。

「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。
人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。
村の男たちは泣いた。

遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

「一人でも多く救ってあげたい」

しかし、大多数は動かなかった。

一人の男が叫ぶ。

「息があるぞ!」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。 自分の体温で彼らを温めはじめた。

「死ぬな!」

「元気を出せ!」

「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。
船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。 サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。

このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」

「どうしよう!」

一人の婦人が言う。

「にわとりが残っている」

「でも、これを食べてしまったら・・・・・」

「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。


次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、

「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」

と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

文・のぶひろ としもり


かなり脚色されているだろうとわかる文章ではあります。
しかし、村の人々の懸命な救助活動はまぎれもない事実であり、またトルコの人々はそのことを学校教育で知っているのも、やはり事実といえるのでしょう。


別のサイトに書かれていましたが、当時、「テへラン在留邦人希望者ほぼ全員出国/トルコ航空で215人」という朗報に対し、朝日新聞は、その理由として「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していること」という記事を載せたとかで、自国の歴史に無知な記者を嘆く文章もありました。
ちょっと「素敵な話」にミソをつけてしまいましたね。

ずっと朝日新聞読者である私も記憶がなく、確認してないのでなんとも言えませんが、日本人として苦笑で済ませたくない話でもあります。



よき友を失う前に。

閉じる コメント(28)

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ホリエモンが東京地検の捜索をうけています。株をつかった、錬金術は実業がともなわないと所詮、世間の糾弾をうけます。法律に抵触しなければ、なんでもできるという考え方は、実は卑しいです。お金儲けてもいいんです。何のためにが大切だと思います。

2006/1/17(火) 午前 7:11 hap*y*ew*ife*sinse_*00*

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いま、日本国は、中国の高度成長で一儲けをたくらんでいます。共産党独裁の卑しい資本主義のいきすぎで、日本国の経済界はもうけばかりきにしています。中国農民の怒りをしっているのでしょうか。トヨタも奢りのある会社になりました。いつか、そのような会社はGMと同様に消滅します。『間違いない』

2006/1/17(火) 午前 7:16 hap*y*ew*ife*sinse_*00*

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dameちゃん!符号しすぎる話に今夜も涙してしまった。年やろか?東郷は我が郷土(鹿児島)の先達にて今も敬愛され、僕が毎朝通る武運長久の箱崎宮には東郷の鮮やかな石筆が残っている。そして、時折出かけている海岸に小高い山が見えると思うが、玄界灘を望むあの山に「東郷神社」がある。無論度々出かけている。戦争は悲惨だけど、初めて知ったとてもいい話です。そして、それ以上に意外な所でこうして知り合えた後輩とのつながりに今とても不思議な感慨が湧き上がっています。なんだろうね?

2006/1/17(火) 午後 9:21 twi**ght55*p

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・・・・・・君がいつかこんな話をしてくれるのは想定内の『運命(さだめ)』だったのだろうか?俺は、昨年初めに「不良に生きる」ことを決めた時からこんなことが度々在るんだよね!・・・・それにしても君とは恋愛関係には無いし、困った!ってなんか分からんけど。

2006/1/17(火) 午後 9:55 twi**ght55*p

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不知でした。朝日の記者の稚拙さが、浮きだって恥ずかしいですネ。それに学校教育をやり直しましょう。それも日本は、こんなに恩恵受けて、世界で生きてるって、スタンスからが、いいのでは?

2006/1/18(水) 午前 1:44 [ シモキタちゃっく ]

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Prayerさん、やはりきちんと言い伝えなくてはならないことはきちんと教科書に書くべきですね。それこそ教科書問題です。恩知らずな子孫を作らないために。すでに我々の世代が恩知らずになっデいる気がします。

2006/1/18(水) 午前 2:48 dame3212

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先輩は鹿児島の生まれですか。トーゴー通りなんてストリートが遠い異国のトルコにあるなんて、すごいです。私は卒業してトルコ人の同僚が会社にいましたが、本当に日本が好きだと言ってました。いっしょにウシクダラという歌を歌わされました(笑)忘れちゃったけど(爆)

2006/1/18(水) 午前 2:51 dame3212

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先輩とは何歳離れてるかわかっちゃった。ぜひこっちにお越しの際は、ご一報頂きたいです。

2006/1/18(水) 午前 2:52 dame3212

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下北さん、本当に教育やマスコミだと思います。きちんと教えてゆくこと。イラン・イラク戦争でのエピソードは、政府が支援をたのんだJALが帰りの安全が保障されないから断ったことに始まります。どこかに企業の広告出稿費などの利害関係があったのかも知れません。

2006/1/18(水) 午前 2:58 dame3212

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飲ろうね!ゴールデン街はもう無いか?浅草橋に嵐山光三郎みたくオヤジと、めっぽう美人な女将目当ての小料理屋があって・・・、いや錦糸町の詩織が今でも物憂げに今でもスナックをやっているはずだ。うん!飲ろうね!

2006/1/18(水) 午前 5:13 twi**ght55*p

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クララさんの記事から来ました。エルトゥールル号は知りませんでした。1999年8月のトルコ地震の際、トルコ航空機で助けられた方が援助に奔走したと見たことがあります。(プロジェクトXだったかな〜)

2006/1/18(水) 午前 7:19 arai_ayumu

おおお、思わずフラッシュに見入ってしまいました・・・最後の一言が効果的ですね・・・しかし、この話は知りませんでした、勉強になりました。

2006/1/18(水) 午前 11:30 Romi

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先輩、その店があるかどうかは別として、ぜひ! 狭い・場末・小汚い・・なんでもOKです(笑)

2006/1/18(水) 午後 2:15 dame3212

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歩さん、いらっしゃいませ。地震のとき、そんな後日談もあったのですか・・復讐とか仕返しといった悪い連鎖ばかり目立ちますが、そういう友好の連鎖をもっと知ってほしいですね。

2006/1/18(水) 午後 2:21 dame3212

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ロミさん、拾い物ですが、わかりやすい作品ですね。エルトゥールル号の話が少なすぎ、戦争の話が多すぎと思いましたが(笑)エンディングのテロップはグッジョブかと・・・(笑)

2006/1/18(水) 午後 2:24 dame3212

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この話は、高校生の時に聴いた記憶がありますが、あの頃の私は、ただ聞き流していただけだったようです。あらためて、こうして読ませていただいて、あの頃の自分が恥ずかしくなりました。ホントに大切なことを勉強していなかったのですね。

2006/1/18(水) 午後 7:36 ちゃま

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ちゃまさんが高校生のときにイラン・イラク戦争?(ウソウソ)私はさっぱり知りませんでした。語学や科学も当然大切だけど、歴史認識や国際社会ってのも重要ですよね。

2006/1/19(木) 午前 0:30 dame3212

エルトゥールル号の遭難の話は初めて知りました。トルコは日本贔屓で日本人の事を強くて高潔な人種と思っているという話をよく聞きますがこの話が根本にあったのですね。それにしても100年以上も昔の出来事に今でも敬意を持って恩返ししてくれるトルコ人こそ高潔で礼儀を忘れない民族ですね。さすがオスマントルコの血筋!!

2006/1/19(木) 午前 0:32 [ pia*o2*67 ]

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知ってる知ってる♪これね、サッカーの時に話題になったよ!!『日本×トルコ』あったでしょ?その時にトルコ人は、み〜んな日本人の事友好的に見てたよ〜。嬉しいことだよね〜

2006/1/20(金) 午後 7:01 [ ねね ]

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エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。
また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。

このように無理を押してエルトゥールルが派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。

2017/1/1(日) 午後 4:43 [ 世界は仲良く ]


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