天下為公

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憂国談話

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九人の乙女の碑

終戦直後、樺太では多くの尊い命が失われた。

(碑文)
戦いは終わった。それから五日、昭和二十年八月二十日ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした。
その時突如日本軍との間に戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女らは、死を以て己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険、今は此れまでと死の交換台に向かい【皆さんこれが最後です。さようなら さようなら】の言葉を残して静かに青酸カリを飲み、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。

戦争は再びくりかへすまじ平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む

高石ミキ 二十四歳
可香谷シゲ 二十三歳
伊藤千枝 二十二歳
志賀晴代 二十二歳
吉田八重子 二十一歳
高城淑子 十九歳
沢田君子 十八歳
渡辺照  十七歳
松橋みどり 十七歳

(殉職した九人の交換手)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓真岡町は人口約二万人で樺太西海岸南部に位置し、北海道の各港との定期船も絶えなかった平和な港町でした。
日本領である南樺太はソ連領である北樺太とは北緯五十度線をもってきっちりと一線画されており、昭和十六年、太平洋戦争に突入することになりましたが、
日ソ中立条約(領土不可侵・中立維持条約)が締結されていたこともあり、国境での紛争はほとんどありませんでした。

ところが昭和二十年二月に米・英・ソの首脳により、ヤルタ秘密協定が結ばれたこともあり、同年四月ソ連は日本に対して条約を一方的に破棄する旨を通告、対日戦に備えて満州や樺太、朝鮮の国境地区に兵力を集結しました。

ヤルタ秘密協定は『
ドイツが降伏し、ヨーロッパにおける戦争が終結したのち、二?三ヵ月後には南樺太をソ連に返還することを条件に、ソ連が日本に対する戦争に参加する』ということを約束したものでした。

そして、昭和二十年八月九日の朝、樺太国境警察がソ連軍の不意の攻撃を受け、四十年間にわたる国境の静寂が破られたのです。

ソ連軍による進撃・砲弾は国境を接する町から次第にその範囲を拡げ戦況は悪化する一方で、樺太兵団は、中央国境を突破するソ連軍を側面から支援する部隊が真岡地区にも上陸するものと判断、この地区の守りを固めようと努力を続けていました。

当時、真岡郵便局における電話交換業務は、市内・市外ともすべて女性交換員による手動交換接続方式でしたが、特に戦時下における電話交換業務は国防用または緊急用として重要な使命を担い日夜繁忙を極めていました。

この非常事態に老人、子供、女性、病人等を優先して島民の緊急疎開が開始されました。
そして、八月十六日、上田・真岡郵便局長は上司から「女子職員は全員引き揚げするよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」との命令を受けました。
ほっと安心すると同時に、皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた上田局長でしたが、意外な事に局員からは「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と告げられました。

上田局長はソ連軍の進駐後起こるであろう悲惨な状況を話し説得したが応じてもらえなかったといいます。
きっと彼女らは交換業務の重要性を認識し、その責任感・使命感を健気なほど感じていたからこそ、このような覚悟をしたものなのでしょう。

友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏み止まり交換作業に従事していました。

そして、迎えた八月二十日の朝六時頃、真岡は身にまといつくような濃霧でした。霧の中にぼんやりと見える埠頭倉庫のトタン屋根は霧にぬれてにぶく光り、疎開する島民を北海道へ輸送する船や北部から難を逃れて来た漁船等がぎっしりと岸壁についていました。

この霧の中をソ連船団は、真岡港に接近しつつありました。
そして船団は湾の中央に進みそれぞれの部隊を上陸させ、船団が反転、退避するとこれを援護するため、上陸部隊の一斉攻撃により、たちまちにして真岡市街は戦火の巷と化しました。

臨海地区を手中に収めたソ連軍は、続いて山の手に向かって戦線を拡大し、各所に砲弾、砲撃による火の手が上がり、黒煙がようやく霧の流れた空を覆い、火の粉が風下一帯に降り注ぎました。
最後の時が迫った恐怖から人々は裏山の芋畑や熊笹を這うようにして尾根を越え、又鉄道沿いに逃げ惑いました。

真岡郵便局では早朝五時半過ぎ、真岡の北八キロの幌泊から「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受けた高石ミキ電話主事補が、仮眠中の宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行いました。

郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていました。

『しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、また此等の状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行したのです』

同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。
「午前六時三十分頃、渡辺照さんが『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対、毒を飲んではいけない。生きるんだ。白い物はないか。手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった。

ひときわ激しい銃砲音の中で、やっと『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。…さようなら…』という渡辺さんの声が聞き取れた。
自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。

誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。
高石さんの知らせで自らも郵便局に駆け付ける途中、腕に銃弾を受けソ連兵に連行されてしまった真岡郵便局長は、数日後ソ連軍の将校の許可で局内に立ち入る事が出来ました。

その時の様子を同局長は『九人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。また、交換台には生々しい数発の弾痕があった。

彼女達は、ブレストを耳に
プラグを手に握りしめ、最後まで他局からの呼び出しに応ずるために交換台にしがみついたまま倒れていました。
息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ」と語っています。

遺体の確認に立ち合ったソ連将校も悲惨な室内の状況を目の前にして、胸で十字架をきって黙祷したといわれています。

当日交換業務を行っていた九人の中で最年長だった高石ミキさんは、殉職の日の前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、いざとなったらこれがあるから
大丈夫と胸をたたいて見せました。それが青酸カリだと知った母親は、顔色を変えたといいます。それほど、明るくて物事をはきはき言う人でした。

志賀晴代さんは、妹と二人で同じ職場に勤務しており、日頃からいざという時は、自分が職場を死守するから、生きて内地に帰りなさいと妹に言っていた責任感と気の強い人で、当日も非番にも関わらず、急を知って局に駆け付けた程で、交換技能抜群の人でした。

殉職した九名の交換手達はいずれも十代後半から二十代前半の若い女性達です。通信確保の任務を果たし、最後の言葉を残して九人の乙女達は、若き青春に決別して行ったのです。

彼女たちの壮烈な最後は語り継がれ、昭和三十八年に稚内公園内に彼女達の霊を慰め、その功績を永久に讃えるために【九人の乙女の碑】が建立されました。
また、貴重な関係資料は、同公園内にある開基百年記念塔(北方記念館)に収められています。


二月七日は、北方領土の日ですが、年間を通して領土返還を求めていきましょう。

以上、安全保障と領土より引用http://1656.iza.ne.jp/images/user/20080114/197954.jpghttp://1656.iza.ne.jp/images/user/20080114/198059.jpg
 
 
 
タレントである私が今出来る表現範囲で言えば
 
『真のアラブ人の敵は同じアラブ人でありながら同じ民が苦しんでいるのを見てみぬフリをして利益だけを考えてぬくぬく生きている人間なんです』
 
all about FIFI  より引用
 
 
 
ぼやきくっくり
 
多くの保守言論人が、妨害やテロの危機にある中、一般市民が顔を出して参加するデモは、同様のリスクを負っていることだと思っている。



その覚悟の動機を現実逃避だとは思えない。

一段目

願わくば、この国の歴史や可能性に気づいてもらえるような、
階段で言えば、低い低い一段目で構わないんです。
        

英霊来世AreiRaise-の○日記より








「人々の無関心は常に攻撃者の利益になることを忘れてはいけない。」


エリ・ヴィーゼル

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ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ より抜粋


    

授業は、「他人に迷惑をかけなければいい」という教育で育った学生たちに、ひとのために生きる、公のために生きるということもあってはどうだろうかと、全身全霊で問いかけながら、国際関係論を講じる。
 それは、たやすいことではないし、関テレでのミーティングでは、どんなテーマを取りあげるかだけでも苦しい激論になることが少なくありません。

 しかし、いずれも、深いやり甲斐があります。

 学生たちは、「今どきの若い者は」なんて適当なことを言うひとに見せてやりたいぐらい真摯に授業を受講しているし、関テレのキャスター陣やスタッフも本心でぶつかってきてくれます。

 伊丹空港に着いて、タクシーで近畿大学のキャンパスに向かっているとき、いつものように膝の上で、モバイル・パソコンを開いて原稿を書いていると、ぼくのなかで、すとんとスイッチが切れたのです。

 スイッチが切れたというか、終末のスイッチが入ったというか。

 ありのままに言います。耐えに耐えてきた心身が、このとき、最後の限界を超えたのが、はっきりと、こころでも体でも分かりました。
 胸苦しいとか、症状はあったけど、そんなことは、どうでもいいぐらい、はっきりと死の横顔が見えました。

 タクシー車内で隣にいた、独研の優秀で頑張り屋さんの秘書室員、元水泳女子個人メドレー選手の秘書さんに「大学を急遽、休講にして、このまま入院したほうがいいんじゃないかなー」と言いました。
 秘書さんも、それから、いつもぼくを応援してくれる(つまり、儲からないのに、ご自分から志願して、いつも空港へ迎えに来てくれる)タクシーの誠実な運転手さんも、ふたりともぎょっとして、ぼくの言葉が本気なのか冗談なのか、図りかねてるようでした。

 もちろん本気であり、そして冗談でもありました。
 授業をドタキャンなんて、しないから。
 若い学生諸君だって、人生の貴重な時間を費やして、あの教室に集まってきているんです。すっぽかしなんか、できるか。

 そして、これは明日の朝までに、死ぬのかもしれないなと思いました。

 ぼくの言説に、嫌がらせや脅迫をおこなうひとびとは、まったくの個人と思われるひとから特定の団体あるいは外国に関係すると思われる組織人まで、さまざまにいて、幼い嫌がらせから深刻な脅迫まで多種多様にあるけれど、ご苦労なことだナァ、どうせまもなくぼくは死ぬのに、放っておけばいいのにと、ふと思いました。

 あのタクシー車内で、ぼくがひとこと、「ほんとうに、このまま、病院に行く」と言えば、秘書さんも運転手さんも即、冗談ではないと判断して、行動してくれたでしょう。ふたりとも優しいからね。
 しかし、そうしなかった。

 この頃ぼくの胸にいつも去来すること、幕末の草奔の志士は、いずれ泥の中で死ぬ、その泥の中でも前を向いて死のうという思いで世に尽くしたということが、あらためて心身に沁みわたっていました。いまの祖国の危機を考えれば、この生き方が昔話のはずはない。





青山さんは、脅迫を受けてますが、「わたしたちの祖国は、武士道の国です。おのれの一命を、ひとのために費やすのが武士道です。
 いちばん身近なひとを含め他のひとにそうした道を求めることは終生、一切ありませんが、おのれの選択としては定まっています。嫌がらせも脅迫も、無駄です」と記しています。

私素人が、青山さんのような人を知る時々に思い出されるのが、伊坂幸太郎氏の小説にある

「大人が格好よければ、子どもはぐれない」という台詞です。

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