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前回、人は変われるか?というのが自分の人生のテーマだと書きました。いろいろご意見をいただいて、大変嬉しかったです。ありがとうございました。
ところで、なぜこれが僕の人生のテーマかというと、すごく単純な話です。僕は大学を卒業してしばらく金融関係の仕事についていました。そしてバブルの乱痴気騒ぎにうんざりして数年で退社、その後海外を放浪してました。なにしろバブル末期の金融界にいたものですから、たくさん貯金があって、そんなことができたんです。
で、帰ってきて就職活動を始めたんですが、「ラクそうだから」という理由で、塾に就職しました。その後、予備校講師を経て、自分で教育関係の仕事を始めました。塾、英会話、パソコン教室と広げ、調子に乗りすぎてつぶしました・・・あん時きゃまいったなぁ、髪は抜けるし血は吐くし。
で、その時ご父兄から一番多く受けた相談が、「うちの子はやる気がないんですが、どうしたらいいでしょうか?」というものです。だから、やる気がない子供を勉強するように変えるにはどうしたらよいか?というのが僕の人生のテーマの一つになったんです。
母親ならわかると思いますが、グータラなわが子を勉強するように変えるのは至難の業です。たいていの努力は一時しのぎ。「自分を変えれば他人も変わる」と自らに言い聞かせ、厳しくしてみても、言い訳が上手になるばかり。かといって褒めてもつけあがるだけで、相変わらずの体たらく。怒り爆発!!
そんな経験をした方は多いと思います。
だいたい、そんなに簡単に自分と他人(この場合はわが子だけれど)を変えられるなら、成績不振、引きこもり、家庭内暴力で悩む親はいないですよね。そして、医者と高級官僚ばかりの世の中になっているはずです。
ところで、僕は大学時代、学生だけのアパートに住んでいました。そこに住んでいるのは、近隣の大学生で、僕の通っていた大学と、東大の学生のほぼ2種類でした。東大生と接していて思ったのは、「これはモノが違うな」ということでした。才能と言う意味で、「軽トラがいくら頑張ってもポルシェにゃかなわんな」と思い知らされました。同時に、「これだけの才能があれば、自然に勉強が好きになるわけだ」と納得しました。もし、自分に100メートルを10秒台で走れる才能があったら、走ることが好きになると思いませんか?だって、走るたびに周囲から驚嘆と賞賛のまなざしで見られるんですから。
彼らは、「僕は親から『もう勉強するな』って止められたなぁ」「参考書を捨てられた」「僕も家族旅行に参考書を持っていって、母親に泣かれた」「模擬テストが楽しみで」なんてほざいてました。東大生あるあるです。こんなふうに、なんでも上に立つ人間と言うのは、才能と努力という好循環が出来上がっているように思います。
じゃあ、うちの子は才能がないから勉強は諦めろと?
昔、作家の三浦朱門が、文部省(現文科省)の審議委員だかなんだかをやっていたときに、「大工になる子に微積分が必要かね?」という発言をして、差別的だと激しく非難されました。今で言う炎上ですね。でも、僕は三浦さんの言いたいことがよくわかります。
「うつむくは その掟なり ゆりの花」という加賀千代女の句があります。ゆりの花に太陽の方を見ろったって、ヒマワリじゃないんだから無理ってもんです。自分の才能の欠けた部分で努力するのは地獄ですし、強要するほうも苦しくなるばかりです。
しかし「ゆりはゆりとして、ヒマワリはヒマワリとして咲けばいい」という結論は美しいですが、問題はそんなに単純ではありません。
なぜなら勉強の能力と、例えば速く走れると言う能力は、社会では等しく評価されないからです。勉強ならそこそこできれば、なんとかやっていけますが、男性ランナーが11秒台で走っても、それで生きていくことはできません。他人に優しいというのは、友人には恵まれるかもしれませんが、それで食っていくことは難しいでしょう。ゆりもヒマワリにならないと、なかなか生きづらい世の中なんです。そういう世の中である限り、「うちの子は・・・」の相談が続くことになります。
そこらへん、なんとかならんかなぁ、といつも考えています。
なんとかなりませんかね?
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