独り楽しく・・奈良と英語と古代史と・・

和風でグローバルなアラカンライフをエンジョイします。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全186ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

11月22日、三連休を前にして、サンデー毎日の身分のメリットを生かしてすいているうちにどこかを観光したいなと思った・・・
かつての勤務地である山梨でも行こうかとネットで調べると、なんと今まで知らなかった国宝の建物を擁する寺が2つもあるではないか?
山梨の寺社仏閣といえば身延山、善光寺、武田神社ぐらいだと思っていたが、なんとうかつなこと・・・ということで早速行くことに。
三鷹か特急甲斐路で大月へ、各駅停車に乗り換え勝沼ぶどう郷で下車。

ここからタクシーで大善寺へ向かう。
道中で運転手さんから大善寺は近頃たいそう観光客でにぎわっているという話を聞いた。

なんでも昨年話題になった「逃げるは恥だが役に立つ」通称「逃げ恥」のロケ地になったとか?
ヒエー、そんなこととはつゆ知らず選んでしまった目的地。混んでいるかなあと思いながら訪ねると・・・

拍子抜けするくらい静かな大善寺であった。ただ、入り口の受付で拝観料を払うと、係りの人は物慣れた様子で、「お車でしたら本堂まで送るまで上がれますよ」とおっしゃる。

運転手さんも「合点承知」とばかりに本堂へ車を走らせ、入口より数十メートル上の本堂まで回り込んでくれた。

さてこのお寺の国宝はこの本堂(薬師堂)である。弘安9年(1286年)の刻銘があり、お寺のパンフレットでは関東周辺では最も古い建物だとか。(えっ鎌倉にはこれより古い建物はないの?の疑問が頭をかすめるがこれは後で調べよう。なおお寺のウェブサイトでは山梨県最古とある。)


イメージ 1
この薬師堂の中には平安時代初期に造像されたという薬師如来、日光・月光菩薩の薬師三尊像(国指定重要文化財)が国宝の厨子の中におさめられて安置されるとともに、鎌倉時代造像の別の日光月光菩薩や十二神将像(これらも国指定重要文家財)がおわします。

このお堂の中には入ることができ、中をぐるりと拝観した。厨子の中の薬師三尊像は秘仏で、見ることができるのは5年に一度のご開帳の時だけとのことだが、厨子の外にいる日光月光菩薩、十二神将は拝見することができた。十二神将像はなんと運慶の子供蓮慶の作品というではないか。
思わず、この時東京で行われていた「運慶展」を思ってしまうほど、十二神将は素晴らしかった。本堂の中で説明をしてくれた女性に「この仏様たちも東京国立博物館で運慶一派の作品として展示してもらう価値があると思います」と言ってしまった。
これらの仏像の写真を撮ることは許されなかったが、上記大善寺名のリンクからお寺のウェブサイトに行くときれいな写真を見ることができます。

さて、このお寺は美しい鐘楼や
イメージ 2

県指定文化財の役行者像が祀られた行者堂、
同じく県指定文化財の立派な山門、
イメージ 3
庭園などがあり、見ごたえ十分の観光スポットである。

さらにこのお寺の魅力はもう一つ、
住職の方がワインを醸造しておられこれを庭園横のお座敷で飲むことができるのだ。
(1杯300円。生の葡萄も供される)
イメージ 4


甲州ブドウで醸された白ワインはすっきり辛口で誠にスムーズに喉を通り、名残の甲斐路ぶどうもさわやかな甘みでまことに結構。何とこのお寺は民宿もやっているのだとか。お土産には住職さんのワイナリーのワインがボトルで販売されており、なかなか商売上手でもある。


さて、この寺がぶどう寺といわれるのは、このワインが理由ではなく、次のいわれがある(以下大善寺ウェブサイトより)
”養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。
     行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。
     以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられています”



いずれにしても、見てよし、飲んでよし、のこの寺は、ぜひもう一度訪ねたいと思う。願わくばご本尊のご開帳の時にでもワインのみに来ようかな・・・

奴国を訪ねる

伊都国の遺跡を初訪問の後は奴国である。
いったん博多に戻り鹿児島本線に乗り換えて南福岡駅へ
春日市奴国の丘歴史資料館へは歩いても15分ぐらいだとのことだったが
明るいうちにできるだけ遺跡を見たいと思いタクシーで向かう。

歴史資料館は外観はなかなか立派だ。
イメージ 2

ただ中はやや古びていて、伊都国歴史博物館に比べると展示の方もちょっと散漫かなあ・・・失礼

ここは弥生時代の代表的な遺跡須玖岡本遺跡を紹介する施設で
須玖岡本遺跡の王墓のジオラマや副葬品であるガラスの勾玉や小玉など、
また国内最大の青銅器工房を擁した須玖岡本遺跡らしく古代の青銅器づくりのジオラマ
等が展示されていた。
イメージ 1
墳丘墓の剥ぎ取り土層の展示なども・・・
本館の周りは春日市奴国の丘歴史公園として整備されている。

またここには実際に発掘された甕棺墓や住居跡を保護しつつ展示する覆屋が二つ点在。
イメージ 3


中はなかなかリアルな発掘跡が・・・こちらはかなりの迫力である
イメージ 4

またこの公園には王墓の上に置かれていたといわれる重さ4トンの大石も展示されていた。
イメージ 5

この上石が覆っていた須玖岡本遺跡の王墓は、2000年前ぐらいのものだそうで、いわゆる金印が漢から授与された奴国の王様より50年から60年ぐらい前の人とのこと。
1899年地元の人が家を建てるためにこの石をどけたところ、石の下から甕棺墓と青銅器などが見つかり、鏡が30面前後、武器が10本程度、勾玉などの玉類など豪華な品が収められていたとのことだ。

それにしても肝心の金印がこの場所からはるか離れた志賀島で見つかったのはいかなる理由からなのか?

それから、魏志倭人伝によれば、伊都国はたったの千戸、奴国の規模はその20倍の2万戸のはずだが、見つかっている副葬品ヵらは伊都国の方が豪華のように思えるのはなぜだろう??

という風に、魏志倭人伝の国々を巡る旅はいろいろな新しい発見と疑問を味わえる楽しい経験であった。ぜひ今後も時々魏志倭人伝の記述の後を追って九州を旅したいと思った。


このあとイザナギ、イザナミを祀る岡本村の鎮守熊野神社にお参りして
初めて訪ねた奴国を後にしたのであった。

伊都国を訪ねる

山鹿の装飾古墳や江田船山古墳と玉三郎を楽しむという充実したスケジュールだった11月3日に続き、宿を福岡に移しての4日も充実していた。

この日は魏志倭人伝で言えば伊都国と奴国への旅。
まず、午前中は伊都国への旅である。
博多から福岡市営地下鉄空港線とこれが乗り入れているJR筑肥線で波多江駅まで
そこからはタクシーで伊都国歴史博物館へ。
ずいぶん立派な博物館だが、最近建て替えられたらしく、
館内の廊下にはこんなあそびごころのあるディスプレイが・・・
イメージ 1
この博物館では、伊都国の王墓といわれる平原遺跡出土の日本最大の銅鏡(内行花文鏡直径i46.5センチ)をはじめ多数の国宝鏡が展示してある。この最大の銅鏡は1枚ではなく5枚あるそうで、そのうちの1枚は東京国立博物館に行っているとのこと。

この平原王墓は、この地域に3つあるとされる王墓のうち最も新しいものであるが、それでも古墳より前の形態の墓である方形周溝墓に分類されている。
他施設に貸し出したりしているものを除きこの平原王墓で出土した40面の鏡の大半がこの博物館に展示されているようであった。

平原王墓は鏡のみならず、青いガラス勾玉(これも国宝)、メノウ勾玉など色鮮やかな装身具が副葬品となっており、特に被葬者は女性といわれているそうだ。
これらの副葬品も展示されてじっくり見ることができた。

この博物館には、平原遺跡に先立つ王墓である三雲南小路王墓、井原鑓溝王墓などの紹介と出土品の展示も行われている。特に三雲南小路王墓は銅鏡が57枚も出土したとされ、江戸時代にすでに発見されていたとのこと、この博物館には巨大な甕棺なども展示されている。

4階に行くと糸島の風景が一望できる展望スペースもありゆったり休憩できる椅子もあって快適だ。
イメージ 2
上の写真は4階からの風景であるが
これを見てもこの地区が低い山に囲まれつつ肥沃な広々した田園地帯を擁する場所であったことがわかる。

ついでながら訪問した4日の時点で
「古代出雲と伊都国」という特別展示も行われており、
ここには大量の埋納された銅剣が出土荒神谷遺跡や同じく多くの銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡の出土品の一部が展示されていて、思いもかけず出雲の有名な遺跡の国宝出土品をここ九州で見ることができたのは幸いだった。古代の伊都国と出雲の関係についての展示もなされていて、複数埋納の遺跡は伊都国にもあることがわかり興味深かった。

隣接するファームパーク伊都国という施設で昼食をとったあとは伊都国散策マップに従い近隣の遺跡を訪ねることとした。

まず三雲南小路遺跡。前述の王墓を擁する遺跡だが、次代の井原鑓溝王墓を擁する集落と合わせ、三雲井原遺跡と称され、その面積は40.5haと、吉野ケ里遺跡をはるかに超える巨大な遺跡となっている。
行ってみると大半は民家や田畑になっており、一部発掘の跡がわかるように整備されて看板が立っていた。
イメージ 4


その後伊都国の末裔の古墳と思われ立派な家型埴輪が出土した銭瓶塚古墳、同じく円筒埴輪出土のワレ塚古墳などを横目で見ながら平原遺跡に到着した。


ここは歴史公園として整備されているようだ。
遺跡をうたった句碑もなかなかなたたずまい。

王墓自体は比較的小ぶりである。
イメージ 3

この地域には上記弥生時代の豊富な遺跡のほかにも、立派な古墳や古代山城である怡土城、古代官道の遺跡などもあり、本当は時間をかけて回ってみたいところであったが、
今回は初の訪問でもあり、次回を期して次の目的地須玖岡本遺跡に向かった。
山鹿市八千代座での公演は、「坂東玉三郎映像×舞踏公演」というものであった。
10月31日から11月5日にかけての6日間、昼夜2回ずつの公演。
11月2日に山鹿灯篭民芸館から電話で申し込んだときは「明日の昼は素晴らしいお席が空いています」
とのことであったが、3日、開園の12時少し前に受付に行ってみるとちょっとした手違いがあることが判明。
結局、それほどとびきりでもないが、ほどほどに舞台にも近く、通路に出やすい席に案内された。
4人が座れる枡席に2人というゆったりしたスペースで、同じマスの相客は上品な年配の女性だ。

この枡席は微妙に前に向かって下り坂になっていて、舞台が見やすい作りになっているのだ。
天井には復刻された昔ながらの天井絵が美しい。重要文化財に指定されるだけのことはある。
イメージ 1

拍子木が鳴り幕が開くと、坂東玉三郎はl黒い紋付おひきずりの着物に日本髪の頭には四角く布のかけられた姿で登場、これは女形の普段着なのだそうだ。
坂東玉三郎ははるか昔歌舞伎座で一度見たきりだが、
人間国宝となり、六十代後半の年齢となった今でも本当に絵に描いたように美しい。
そして、口上に入ると八千代座で公演するようになったきっかけなどを紹介された後次のように語った。

”自分は平成2年の八千代座の復興公演以来26年間、間に平成の大修理によるブランクを挟みながら続けてきましたが、だいぶ上演演目も尽きてきました。何か目新しい企画をと考えた結果、映像と舞踏を融合した舞台にすることにしました。
実は自分は「京鹿の子娘道成寺」「鷺娘」はすでに踊りやめています。歳を重ね自分が以前と同じように(体力的にもまた美しく踊るという点でも)踊れなくなったと感じたからで、寂しいことですが、伝統ある芸を大事にして憧れをもって見ていただく意味でも、「踊りやめる」ということは大事だと思っています。
ただ、一方で次代の若手に自分が精進工夫を重ねてきた芸を伝えることも大事だと思っていて、いくら紙に書いたり、口で言っても伝われないことが、映像や実際にやって見伝わりやすいと感じることがあります。実は舞踊界の方ではこういう演目の大事な所作の振り付けなどをしっかり弟子たちに伝えておられないという感じを自分は持っています。
そのため、今回昼は娘道成寺、夜は鷺娘を題材に、演目を踊る際の所作の勘所のようなところをご紹介するとともに、自分がまだ今より若くてかろうじて自分の満足いくように娘道成寺や鷺娘を踊れた時代の映像をNHKさんからお借りして、一部自分が踊れるところはそれをお見せするという形でご覧に入れます。”

このような導入のあとは実際の振り付けを演じながらの説明で、

”娘道成寺の「恋の手習い」の部分でどのように手ぬぐいを扱うか、については「地球の引力との関係で出てくる美しさが重要」で、手ぬぐいの揺れやたわみをきれいに表現するにはこういう材質のこういう作りのちりめんの布が必要だがこれがなかなか手に入らず・・・”

といった風に口上は展開していった。

玉三郎の口調は穏やかでゆったりしており、素の玉三郎でもなければ、歌舞伎の役を演じる玉三郎でもない、楚々とした美しい中年夫人の趣のしゃべり方で、何とも魅力的であった。聴衆もほとんどが玉三郎ファン(いわば追っかけ?)なので、玉三郎が何も冗談を言っていなくてもちょっとした言葉の端々にすぐ反応して笑い声が起こるようなほのぼのアットホームな雰囲気で口上はすすんだ。

”私のことを「色気がある」とかおっしゃっていただきますけど、色気って何もべたべたしたものでなくて、地球上でどうやって生きていくかを必死に考え行動する中で自然に出てくるものじゃないでしょうか、夕焼けや波を見るのと同じ清涼な雰囲気を人様に与えるのが色気だと思います”
”踊りの所作では、太鼓を打っていないほうのバチを持つ手とか、決まった振り付けの間の部分を美しくと心がけています”
など、含蓄のある言葉もたくさん聞かせてくれた。
イメージ 2

休憩後舞台が転換しスクリーンが下り、音楽に乗って玉三郎が50代の時に演じた娘道成寺の映像が流れる。しばらく見ているとスクリーンが上がり、映像と重なりつながる感じで、あでやかな衣装をまとった実物の玉三郎が登場して実際に踊る。その姿は本当に光り輝くオーラに包まれたような感じ。しばらくその姿と踊りに見惚れていると、するするとスクリーンが下りて再び映像での玉三郎の踊りのみになる。これが繰り返され、最後は美しい銀白色の衣装での実物の踊りとなり大団円。大喝采の客席に何度も深くお辞儀をする姿も圧巻の美しさであった。

終わった時は枡席で隣り合わせた女性と顔を見合わせ「さすがですねぇ」「こういうのを眼福というのでしょうねえ」などと感動を分かち合ったことであった。

さてバスの時間を調べて江田船山古墳へ向かおうかとしていると、この隣席にいらした女性が
「この後どうされるのですか」と聞いてこられるではないか。古墳を訪ねる旨を話すと、ご自分の帰る方向なので車で送ってくださるという。
この女性とは玉三郎の公演中も、時折顔を見合わせて「大したものですね〜」などと言葉を交わしていたので、なんとなく近しい感じがしていた。向こうもそう思ってくれたのか大変ありがたいお申し出だったので、喜んでお受けすることにして車に同乗させていただいた。

聞けばこの女性Sさんは、隣の玉名市の在住で、ある伝統工芸の作家でもあり、生徒さんに教えてもいるとか。どおりで風格のある感じだと思った。江田船山古墳の前にも一か所案内したいところがあるといわれ、立派な横穴墓群に連れて行っていただいた。

イメージ 3
 ここは岩原横穴群といい131基ある横穴墓農地8基に装飾文様があるという。Sさんの話では昔はいくつかの横穴の中に入れたとのことだが、今は入れそうにないのが残念。

 
横穴群の眺めをしばし堪能した後は江田船山古墳へ
イメージ 4


この古墳は山鹿市ではなく玉名郡和水町に位置している。流石に75文字の銀象眼銘文付き大刀が出土したことでも有名な古墳だけあって、非常にきれいに整備されている。墳丘長62メートルの周濠のある古墳で、まわりには短甲をつけた石人が配置されていたという。ただし出土した副葬品は東京国立博物館に収蔵されており、ここにはない。私も大刀の実物は東京で何回も見ている。
埼玉県行田の稲荷山古墳の鉄剣より先に発見されていたこの大刀にある銘文は、1978年稲荷山古墳の銘文が発見されたことによって解読が進み、同じワカタケル大王の名が記されていることが分かったという。
大刀の方の象嵌銘文にある典曹人ムリテはワカタケル大王すなわち雄略天皇に仕えたとある。稲荷山鉄拳の杖刀人首オワケも雄略天皇に仕えたとあるから九州と関東の二人は雄略天皇のもとで出会っていたのかもしれない。

ここもゆっくり見ればたっぷり時間がかかりそうだったが、夕食までには福岡に着こうとそそくさと出発した。結局Sさんには新玉名の駅まで送っていただくことになり本当に感謝感謝であった。

こういうのも袖すりあうも他生の縁というのだろうか??

車中でもいろいろとお話をし、郷土の古墳を愛し、俳句も趣味にしておられるというSさんの人柄に引き寄せられていく感じがした半日であった。
翌11月3日は、早起きした。
玉三郎の公演昼の部の前に、山鹿市立博物館とチブサン古墳、オブサン古墳の見学を済ませるためだ。
そうしなければ公演の後、本数の少ないバスを捕まえて、江田船山古墳まで見学して夕食時までに福岡までたどり着くことは難しい。
宿の美味しい朝食もしっかりいただいて。
イメージ 4

タクシーを3時間貸し切りいざ出発。
宿を出て一路山鹿市立博物館へ。
イメージ 1
なかなか立派な博物館で、建物の外にも立派なアーチ型石橋があった。
イメージ 2
この眼鏡橋は以前菊池川の支流吉田川にかけられていた通水橋で慶応元年頃の建造とのこと。
昭和58年にこちらに移築されたそうだ。

さて中の展示はこの地域の代表的な古墳であるチブサン古墳をはじめいくつかの装飾古墳の説明などもあったが、
なんといっても印象的だったのは方保田東原遺跡というこの地域を代表する弥生時代後期から古墳時代にかけての大規模集落遺跡の展示であった。全国的にも珍しい家形埴輪や石包丁型鉄器などの珍品のほか方格規矩鏡、巴形銅器などが展示されている。
この集落遺跡は、広さ35haともいわれており、全体の1割にも満たない部分しか発掘されちないとのことで、まだまだ今後大きな発見の可能性があるそうだ。

またこの地域には多くの横穴墓があることも分かった。菊池川流域は古くから人が居住したところのようだが、装飾を持つ横穴墓もあるとのことで、この地域を特徴づける遺跡となっているようだ。

さてこのチブサン古墳の石室の中に入って装飾を見るのには、ここ市立博物館で申しこみをする必要があり、それがこの博物館を訪れた理由の一つだった。申し込みの後、スタート時間まで間があるため、タクシーの運転手さんの勧めもあって、先にオブサン古墳を訪れることにした。
オブサン古墳は直径約22m、高さ約4mの突堤付き円墳で、石室の前面に設けられた突堤があたかも人間の足のように見え、石室の入り口が賛同に見える非常にユニークな形をしている。


イメージ 3
正面から見ると、石室は横たわった妊婦の産道、突堤は妊婦の両足のように見える。その形状から安産の神様とされているそうでオブサンの名前も「産(うぶ)さん」といった意味だとか。内部の石室に施された装飾は現在はほとんど識別できないぐらいになっている。6世紀後半の築造のようで、ここから200メートルの距離にある6世紀前半築造とされるチブサン古墳となんらかの関連があるのだろう。

そろそろチブサン古墳の見学の時間だとタクシーで向かうと、ほどなく何人か見学者の方がチブサン古墳の前にやってきた。ボランティアガイドの方が説明を始める。古墳の前には説明版や石室のレプリカがあり見学者に親切。やチブサン古墳は全長45メートルの前方後円墳で石棺の正面の石板装飾の絵柄が女性の乳房に似ているところから「乳の神様」とされ、チブサン古墳の名前もそこからきているとのこと。
イメージ 6

イメージ 5

さて、いよいよ石室の中へ入りましょうと古墳の方へ進んでいくと、古墳の全景が見えてきた。
イメージ 7

石室の入り口は普段カギがかけられ、1日2回の見学の時のみ案内の人がカギを開けてくれる。

イメージ 8
玄室の中はかなり狭く一人一人が入っていくのだが周りの土は湿っていてズボンの膝を汚しながらようやく装飾を見ることができた。写真も撮っていいといわれたのだがうまく撮れなかった。

このあと双子塚古墳という全長100メートルの立派な前方後円墳を含む岩原古墳群や装飾古墳館も見たかったのだが、時間の関係で次回回しに。


平安時代の仏像(二十八部衆)を擁する康平寺に寄ったあと玉三郎の公演を見るべく八千代座を目指したのであった。





全186ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
独楽
独楽
女性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

奈良大学関連

その他古代史関連

心理学、生物学、その他関連分野

奈良エリア関連

ブログの機能関連

登録されていません

音楽、美術、食べ物関連

英語関連

通信生大学・大学院

登録されていません

検索 検索
友だち(12)
  • force44works
  • 山背旅人
  • 旅人
  • ポントーチカ
  • 明日香
  • decdec1948
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事