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先週、私の奈良大学の卒論の指導をしてくださった 高津和夫さんから 標題のご著書が送られてきた。 高津さんは、早稲田大学理工学部を卒業後、大手ゼネコンで部長まで務めあげ、 その後第二の人生として考古学を志され、 奈良大学で酒井先生や白石先生の下で研究をされた方だ。 その他にも『古代学研究』と言う専門雑誌に 「土木技術から見た古市大溝」(177号) 「大仙陵古墳の築造に関する土木工学的考察」(186号)といった堂々たる論文 を掲載されている。 土木技術者としてのご経験を古墳築造の過程の考察、研究に生かされていることが分かる。 1929年生まれと私の父より1年年長だが 生き生きと古墳や古代の話をされる姿が本当に若々しいかただ。 そんな高津さんが これまで、折りに触れ書かれていた論文を まとめた物が今回の著書である。 副題に「陶酔的熱病に罹った古代から現代まで」とあるように 日本史上の様々なバブル的時期とその崩壊を取り上げて論述している。 その内容たるや 弥生時代の水田開発 古墳時代の前方後円墳築造 東大寺大仏殿建立や諸国の國分寺國分尼寺建設 平安期の荘園の広がりと武士の発生 室町時代の貨幣経済の広がり 豊臣秀吉の朝鮮出兵 江戸の元禄時代と貨幣改鋳 第一次世界大戦後の日本経済 と非常に長いスパンの歴史の中で、 著者の目でここはバブルだったのではないか? と眼を付けた時代について ユニークな切り口で論じでいるのだ。 もちろん昭和から平成にかけてのバブル期や その後のITバブルにも触れている。 著者がバブルについて論じようとしたきっかけは この本の中でもふれられているが次のようなことがあったためとおもわれる。 著者が大手ゼネコンの営業部長であった時 次から次に全国の支店から出てくるゴルフ場開発案件の稟議書を決裁した。 当時の大手ゼネコンは受注競争をしていたため 土地の一部だけを所有する地主が全額銀行融資でゴルフ場開発をする といった危ない案件も、 それが不良債権化されるとは思わず進められており 結果的に債務保証をした大手ゼネコンは、その後多くの不良債権をかかえることになった。 そのため決裁したご自分も、「図らずもバブル現象実現に加担してしまった」 と言う思いがあるらしい。 ガルブレイズのいう”Euphoria”(陶酔的熱狂)が日本を覆っていた時代の話である。 高津氏はこの著書の中で次のように述べている。 「銀行や企業を倒産させてしまったA級戦犯のような人々は責任上追放されてしまってはいるが それらの人々の下で従順に職務をこなし、 バブル的現象実現のために力を尽くしてきた人々は 責任を逃れて次の職務についている。 すなわちB級、C級の戦犯に属する人々の責任は曖昧模糊とするほど、 全員で突き進んでしまったのである」 さて各時代についてバブルではないかとされている事象の中で やはり私が興味を持つのは 弥生の水田開発、古墳時代の前方後向円墳、奈良期の大仏建立、国分寺等の建立である。 高津氏によれば、 弥生期の水田開発は 河川の水を導水することの不可能な場所まで工作したり 渓流の水が枯れてしまい荒田化するなど無計画で無駄な開田も多くあった 或いは洪水の頻発するような条件の悪いところまで水田開発がおこなわれていた とのことであり 「当時の人々が陶酔的熱病に罹った如く新田開発にまい進し、そのやり方は過剰なやり過ぎで バブル現象であったのではないかとおもうのである」とする また古墳時代について高津氏は、 各首長は古墳によって土木技術の卓越性と実際に使役した労働量を誇示したとし、 「土木工事はシステム事業であり、計画性、統率力、経済力を有していないと 完成まで持続しないで挫折する例が多い」 「応神陵、仁徳陵は統率力と軍事力を表すものとして 現在の核保有国のような抑止力を持っていたのである。 その大きさにおいて、国内の諸勢力を抑え国外特に朝鮮三国に対する牽制があった」 と、このあたりは土木技術者らしい表現だ。 このような巨大な墳墓の構築は 弥生時代以降の水田開発と 鉄製農機具の到来、国内の鉄器製造の進歩により 飛躍的に農業土木技術と水稲の生産性が向上し それによって得た余剰の米・・富の蓄積によりもたらされた。 富の蓄積が墳墓の巨大化や居館の豪壮化に向けられ 陶酔的熱病に罹ったように前方後円墳が数多く築造されたと言うのである。 さらに、 高津氏は 奈良時代に行われた大仏建立や全国の国分寺國分尼寺の建設、平城京の宮殿や諸寺の建立は 唐化政策の旗印の下国民のGDP以上のやりすぎの設備投資であったという。 面白いのは、 あの有名な、 小野老の「あをによし、ならの都は 咲く花の匂うがごとく、今盛りなり」 の歌には「浮薄な世相を揶揄した意味が含まれていると思う」としている所である。 このように、各章ともユニークで面白い指摘が満載で あらためて高津さんの博識、見識を思い知った感がある。 それにしても82歳にしてこの筆力は感服するしかない。 かなり以前に書かれた論文も含まれているとしても 一冊の本にまとめると言う作業は 本当に骨の折れる仕事だ。 おまけに高津氏は非常に丹念な仕事をされる方で この著書の中で、天平時代の全国の飢饉、災害、疫病、水害を 続日本紀の記述から各年ごと地域ごとに星取表を作って見せたりしている。 この調子ならまだまだ 古墳の築造過程の解明について新しい論文を書くこともできそうに思われる。 お元気で活躍されることを祈っている。 |
参考文献
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今回は症状がひどかったために、 早い段階でベッドで仕事をするのをあきらめた。 まず 熱で頭ががんがんしている間は、体中がこわばっていたので、 硬い本はよめなかったため 息子の推薦による 漫画本を読んでいたが・これが大当たりで大変面白かった。 その漫画とは・・・ ヤマザキマリのテルマエ・ロマエ いまかなりメジャーに人気の本だそうです。 古代ローマの浴場設計技術者が現代の日本と行き来して なぜか日本の公衆浴場や温泉や露天風呂をヒントに 古代ローマで個性的な浴場を設計すると言うストーリーである。 何と映画化も決まっていて、 ローマ人浴場設計技術者に阿部寛がふんするそうだ。 ハチャメチャなストーリーなのに、 漫画家がもともと画家志望の方で絵がきれいだし テーマが古代ローマだし 久々に漫画を面白いと思った。 デスノート以来のことである。 その後多少熱が下がり始めた時点で、 橋本治『日本の女帝の物語―あまりにも現代的な古代の六人の女帝達』 永井路子『女帝の歴史を裏返す』 歴史家ではない文学者の2人が書いた女帝ものだが どちらも奈良時代の女帝は単なる中継ではない、強固な意志や統治能力を持った為政者である というアプローチをしているのが面白かった。 それにしても永井路子さんがすごく勉強しているのには感心した。しっかり大山誠一の本まで読んでいるし、万葉集にの解釈についても学界の通説をしっかり把握されている。 そして最後が吉田豊『古文書をはじめる前の準備講座』でこれが秀逸であった。 私が奈良大学で学ぼうとした一つの目的に 「家にある古文書を読んで整理しておかねば」と言うのがあったのだが、 古代史にかまけて、とうとう古文書学は単位を取らずじまいであった。 白状すれば、教科書を読んでも全然頭に入らなかったのである。 特に変体仮名を「覚えましょう」等と言われましても、 全くちんぷんかんぷんのものを覚えるのは至難の業だ・・ と言うことで、ついつい安易に逃げてしまったが、 この本は、まさにそういうアレルギーのある現代の若い人が 古文書を学びやすくするために工夫された本なのである。 まず平成の中学の古文のテキストに始まり、 戦前の小学校の教科書、 大正時代中学校教科書と新聞記事と言う風に、 歴史をさかのぼるようにして、 歴史的仮名遣いや文体、言葉づかい、候文の構造等を頭に入れていく。 変体仮名についても「江戸かな」と命名したうえで 江戸時代の見立て番付を読むとか 明治初期の小学生に挑戦しようと題して、挿絵の沢山入った明治初期の民間の教科書などを使って、 絵から想像しながら江戸かなを読む作業に慣れていくという形になっている。 順に読み進めていくと何度も出てくる江戸かながだんだん頭に入ってくる・・・ そんな本である。 この方の本をあと何冊か借りて、もう一度 古文書学にチャレンジしてみようかな |
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ひさびさに 古代史の本を読んでみた。 前に大山誠一さんの本を読んだ時 聖徳太子はいなかったという彼の説に 目立った反論はない と書いてあった。 本当かな・・ と思っていたところ ありました・・真っ向から反論している本が。 この田中英道さんと言うのは美術史の専門家で 東北大学の教授を務められた。 もともとは西洋美術史が専門の方のようだが 今は日本美術に力を入れており、 聖徳太子虚構説に我慢がならず参戦されている模様 この田中さんの反論のポイントは 文献研究や金石文の批判のみで 聖徳太子虚構説を言うのは間違いだ ということ・・・。 美術史の専門家らしく 仏像や建築の様式をしっかり見れば 法隆寺再建説 や法隆寺金堂釈迦三尊像が 日本書紀に法隆寺の火災のことが書かれた670年以降の作と言うのは間違いだとわかる。 と言うことらしい。 まず釈迦三尊像については、光背の銘文はともかく (田中氏はこの銘文は後世のものとは考えておられないようだが) 仏像そのものは面長の顔や杏子型の目など北魏や百済の影響を受けた 飛鳥様式で止利仏師の作った名作に間違いないという。 薬師三尊像は確かに様式から見て後世の作であるが 原薬師如来と言うのがあっったはずで、その光背の銘文が 今の薬師如来にも受け継がれていると考えていいという。 また後世の作とされた天寿国繍帳も、文字のことよりその織り方を観察し 強い撚糸と豊富な配色方法は、6、7世紀の金鈴塚古墳出土の糸などに共通しており 飛鳥時代の織物の特色を表していることに注目すべきだと言う。 その織り幅も古い高麗尺と同じ幅であるとのこと。 また織られた図案も、高松塚古墳の壁画の図案に比べ素朴で、人の服装も、 天武天皇の時に着用が禁止されたヒラミという服装がみられる。 なお「聖徳太子はいなかった」説を唱える人々は、上記銘文や天寿国繍帳が 「天皇」の文字を上げることを問題とし、後世の作であることを根拠づけるが 田中氏によれば、 そもそも隋書で「日出ずる処の天子」と小野妹子の持参した手紙に 書かれているぐらいであり、 「天子」と言う言い方をしているぐらいだから 天皇という言葉も認識されていただろうと言う。 要は「天皇」の号は天武天皇のころからと言う通説に対し 推古天皇の時代から定着はしていなかったにしろ 天皇の言葉が認識されていたとするのである。 また、法隆寺はその塔の心柱が年輪年代法で594年のものと分かった以上 再建ではない。心柱の問題だけではなく、その建築方法は 深く地中に柱を埋めるものであり、この方法は飛鳥寺の工法と類似する一方、 薬師寺(たぶん元薬師寺のことであろう)では地面の上に礎石があり 白鳳時代になると建築方法が変わることを表している。 なお、再建説の根拠となっている若草伽藍の発掘については この若草伽藍の遺構と現法隆寺は重なっておらず、 田中氏は二寺が併存した可能性が大きいという。 二寺が併存できない根拠として 若草伽藍が現法隆寺から方向軸を20度ずれて立っていること が挙げられていたが、決定的なものではないと田中氏は言う。 むしろ日本書紀に書かれた670年(669年)の火災のことが法隆寺資材帳には書かれていないことも 重視するべきであるとする。 もっとほかにも十七条憲法とか三教義疏のはなしとか面白い説がいろいろ書かれているのだが 果てしなく長くなるので省略する。 要は田中氏のストーリーは まず聖徳太子は594年推古天皇の仏教興隆の命を受け斑鳩に斑鳩寺(現在の法隆寺)をたてた。 後に用明天皇の病気平癒の発願で造像した薬師如来もこの斑鳩寺におかれた。 その後聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊とする法隆寺(若草伽藍)が建てられた。 その後若草伽藍が焼失したときい釈迦三尊像が救い出され焼けなかった斑鳩寺(現在の法隆寺)に うつされた。そして焼けなかった斑鳩寺(現在の法隆寺)が法隆寺と呼ばれるようになった。 という二寺併存説で、 天皇号の使用も推古期にさかのぼる といった観点から 法隆寺の釈迦三尊像、薬師三尊像の光背銘文や、天寿国繍帳の銘文を後世のものでなく 飛鳥時代のもの(あるいは飛鳥時代のものを後世に採録したもの)と理解し 聖徳太子の実在を根拠づけようとするのである。 私としては、少なくとも立派な寺が斑鳩に2度にわたって建築され、 斑鳩の宮もあったとすれば それを可能とするかなり有力な皇族がいたことは否定できないとおもっているので この田中先生の説にシンパシーを感じる。 大山誠一の論のように 聖武天皇を正当化するために藤原不比等が聖徳太子をねつ造したといった話には そんなに徹底して嘘がつけるものなのかなあ・・ という疑問が付きまとうのだ ただ、田中先生の論にもいくつか気になる点がある。 一番の疑問点は 若草伽藍の焼失時に どうやって釈迦三尊像を救い出したのかということだ。 500キロ近いというあの仏像を持ち出すのは至難の技だったのではないだろうか。 この田中先生の著作は2004年に書かれているが その後も大山誠一氏は聖徳太子否定論に立った著作をだしていて ますます意気軒高のようだ 現在の田中先生の考えがどうなっているのか知りたいものだと思う。 |
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何だか気分転換したいと思って 久々に散歩がてら杉並区立西荻窪図書館へ ここは奈良大学在学中毎週通っていたところです。 いつも限度いっぱいの15冊を借りていたので 歴史のコーナーの古代史の棚の内容は 勝手知ったる・・・ と思いきや、半年ほどご無沙汰している間に 見なれない蔵書が増えている ・・・ 一つが 大和岩雄『日本書紀成立考―天武・天智異父兄弟考―』 636ページに及ぶ大著である。 この方の本は 奈良大学に入る前 古代史ファンとして一種の読み物として楽しませてもらった。 学者ではないので、話が分かりやすく、 古代史の謎解きの楽しみを掻き立ててくれる人だが 学会で地位は?? とも聞いていたし、 奈良大学に入ってからは 東野先生や白石先生など いかにも学者と言う感じの先生の本を読むことが楽しくなり ずいぶんご無沙汰だった。 しかし、この大和さん もう85歳になられると言うのに 旺盛な執筆意欲には驚かされる。 この『日本書紀成立考』は その副題でもわかる通り 天武天皇と天智天皇が同父兄弟ではない(同母ではある)ということを 様々な文献から論理的に導いている本である。 そればかりか 天武天皇は天智天皇の「弟」ではないともいっている。 要するに年齢は天智天皇より上と言うことである。 なぜなら 天武天皇は舒明天皇と皇極天皇の子ではなく、 皇極天皇が前の夫高向王との間に設けた漢皇子であるとするのである。 ここまでは今までも何度か色々な書物でも主張されていたことであり あまり驚かないのであるが、 この本の特色は、 なぜ日本書紀が 事実を歪曲して伝えているか という理由を 実に説得的に説明している所にある。 日本書紀には天武天皇の生年は書いていないのだそうで 日本の長い歴史の中で年齢の分からない天皇は 天武天皇と 崇峻天皇、後亀山天皇の3人だけだそうだ。 非業の死を遂げた崇峻天皇や南朝の最後の天皇というマイナーな地位の後の二人に比べ 壬申の乱を制し日本において天皇制度を確立した、 偉大な天皇の年齢がわからないのはなぜか それはどうしても天武天皇を天智天皇の弟にしておかなければいけない理由があったから・・・ 鍵は元明天皇が即位の詔で言及したとされる不改常典にあると大和は言う 不改常典は直系血族への皇位継承の優先を確立したものだと言う解釈のもとに 天武天皇の血族があまたいるなかで、天智天皇の直系の後継者として聖武天皇の即位を方向づけるために 藤原不比等によって作られたのが不改常典だとする。 天智天皇が作ったとされる不改常典だが 日本書紀には出てこないのだ・・・ この天智天皇の不改常典が尊重されるためには 天武天皇が天智天皇の兄であっては不都合だからだという。 現在私たちが目にする日本書紀に時々大海人皇子について 皇太弟とかいう表現が出てくるが これも後から加えた潤色なんだそうだ そもそも天智天皇が皇太子であったということも 藤原不比等による潤色だと言うのだ。 中大兄皇子称制と言われた時代は 孝徳天皇の皇后が即位していたという仰天説も飛び出す。 中大兄の「中」というのは同母の兄弟の2番目の子に付ける言葉だそうで 要するに名前からも中大兄は皇極の長男ではなく 皇極天皇の時代に皇太子であったはずはないという。 また、 何よりなぜ天武天皇が舒明天皇の子供ではないと考えるかについては 天武天皇がなくなった時に偲びごとを述べた人物や 天武天皇の導入した八色の姓で一番上の真人に任命された人物が みな舒明天皇ゆかりの氏族ではなく漢皇子の父とされる高向王(用明天皇の孫)の関係者だからという。 序章を読んだだけでこんなに面白いのだから先が楽しみだ というか1章から18章までは序章に書かれている説を丁寧に論証していくようです。 ひさしぶりに 古代史謎解きの楽しみを味わえそうだ・・ ただこの本重くて寝転んで読むのに不便です |
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英語の勉強がにわかに忙しくなっている昨今ではあるが こういう時に限って 古代史の読書がしたくなるのは 何故でしょう?? このところ大山誠一に関心が高まり 近所の図書館でリクエストして読んでいる。 前に少し書いた 『<聖徳太子>の誕生』のほか 『長屋王木簡と奈良朝政治史』 『聖徳太子と日本人』 『天孫降臨の夢』 は読めた。 しかし肝心かなめの大山誠一がその論を展開している論文が読めないのだ・・・ 上にあげた本は『・・・奈良朝政治史』を除き一般向けの本なので どうしても論理に飛躍があるというか、作者の思いの方が前面に出過ぎていて 科学的に私を納得させてくれるものではない・・。 一番の大山の論を展開している論文は 『長屋王木簡と金石文』というものらしいのだが リクエストしようとしたら・・杉並区立図書館にはありません・・。 あと大山誠一以外の論者の論文も搭載されているという 『聖徳太子の真実』・・・リクエスト中です。 まあ気長に待とう。読書の秋はまだまだ逃げない。 それにしても、 大山誠一と同年代で、同じく長屋王木簡を研究した 東野治之先生の見解がますます知りたくなった。 前回も書いたように 東野先生の考えは必ずしも 大山誠一とは同じでないようだが おもてだって論争している様子は見えない。 東野先生は著作を見るとわかるのだが 非常に緻密に慎重に物事を論証しようとされていて その論理の展開方法は大山誠一とは正反対に思える。 大山誠一は聖徳太子はいなかったという大山の論について 「学会の反論はないのだ」というのだが ほんとうだろうか? 古田武彦と同じように「無視」されているのではないか? 学界の主流はどう思っているのか? 古田武彦も「誰も学会から反論やコメントがない」といっているうちに 徐々にその地歩を失っていったような気がするのだが・・・ いずれにしても学会の主流の人の意見を知るには 東野先生がどう考えているかを知ることが重要に思えたのだ。 それで 東野先生の『長屋王家木簡の研究』をリクエスト。 ところで東野先生といえば近著の岩波新書『鑑真』を現在読んでいるところなのだが この中で先生はある学者が主張した「鑑真は日本に到着後も眼が見えていた」説に 真っ向から反論している。 どちらかといえばこのようにトンデモな立論を丁寧な実証研究で「つぶす」のが 東野先生の得意技なのではと思うのだが そうするとますます、大山誠一の論に真っ向から反論しないのは何故?? という気がしてきます。 |




