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ドストエフスキーの小説を読んでいると、頻繁に「高潔」という言葉が出てくる。
いかに彼が「高潔であること」「高潔な人」を理想としたかがわかる。
しかし、我々は、高潔という言葉を知っていても、正直馴染みがない。普段、高潔という
ものからは、無縁の世界に生きているからだろう。
ドストエフスキーの小説は、もちろん、ロシア語で書かれており、それを日本語に訳した
本を私は読んだ。
さて、「高潔」とは何か?
辞書によると
【人柄がりっぱで、利欲のために心を動かさ ないこと。また、そのさま。】
とある。
英語では、noble(形容詞)、nobility(名詞)。
高潔な人=a man of noble character / a noble-minded person
なぜ、「高潔」は我々には無縁なのか。
高潔という言葉は、現代では死語になりつつある。
日本にも「人柄がりっぱで、利欲のために心を動かさ ない人」というのはいた。
例えば、西郷隆盛であり、坂本竜馬がそうだ。
そういう人が今の日本にいるのだろうか?
きっといる、と思う。
そういう人たちは、きっとマスコミには登場しないのだ。
お金が欲しい、仕事が欲しい、有名になりたい、名声が欲しい、と思わなければ、
まず、マスコミに登場する機会はない。
無名だけど、貧乏だけど、人柄がりっぱで、利欲のために心を動かさ ない人、というのは
きっといるのだろう。
でも、誰もそうなりたいと思っていない。
価値観が変わってきたのか。
それとも、単に皆が利己主義的になっているのか。
刹那主義なのか。
高潔になるためには、自己犠牲が必要で、それは、全くのマイナスの価値しか
持たないということなのか。
自分の命をかけて・・・という人は今の日本には滅多にいないだろう。
野田さんは、似たような発言をしていたけれど、誰も本気にはしていない。
村上龍の『五分後の世界』には、「高潔」などという言葉は一度も出てこないが、
彼の描いた「もうひとつの世界」の人たちには高潔な人が多く、主人公の小田桐も
「こちら側の世界」にいたときにはロクデナシだったのだが、「もうひとつの世界」
では、血まみれになりながら、最後には高潔になっていく。
資本主義がよくない、とか
民主主義がよくない、とか
社会主義がいい、とか、
軍国主義がいい、とか、
そんなことを言う気はない。
しかし、現代日本から、「高潔な人」が消えてしまったかのように見える今の状況に
ついて、おいおい考えてみたいと思っています。
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2012年07月25日
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