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みなさんは、「苦手な人」はいますか?
「苦手」=「嫌い」というイメージはありますが、微妙に違います。
苦手な人には、ただ嫌いな人にはない、何かがある。それは何か。
苦手と感じる人の特徴は
・嫌でも関わらなくてはならない
・非常にプライドが高い
・いろいろとこだわりがあって面倒だ
・冷静に観察すると優れている部分もある
・人当たりがよくない(愛想がない、無口、返事もない、など)
といったところではないでしょうか?
私も「苦手な人」が複数います。それは兄であり、また、職場にもいます。嫌でも関わらなくてはいけない。彼らは、とっつきにくい。接していて、あまり愉快な思いはしない。プライドが高い。でも、確かに「無能な人」とは呼べないところがある。
私は人生の成功は「人間関係」にあると思っています。もちろん、健康もお金も大事ですが、誰かが自分を評価し、「好き」「愛している」「優れている」「親切」「頼りがいがある」などと思ってくれる人が多いほど幸せを感じる。
問題は、これら「苦手な人」たちである。この苦手な人を人生から抹消するにはどうしたらいいのか?さすがに殺すわけにはいかない。
簡単なことではないが、彼らのプライドを満たすのが良いのではないかと考えます。彼らの得意なことをうまくやらせ、褒める。そして、彼らの不快な態度には目を瞑る。そうしていると、やがては、彼らも少しは笑顔を見えるようになる、かもしれない。
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人生・恋
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民間会社で営業をしているとノルマのような販売目標が課せられます。というか、その前に「予測」を提出させられるのですが、その集計結果がネガティブだと、途端に上から「なんとかしなさい」「20%増益策を具体的に考えて提出しなさい」などという指令が流れます。
もちろん、市場状況、為替状況、競合他社の動向なども十分に報告して、現実的な報告をした後のことなのですが、それでも、とにかく打開策を求められる。諦めるなどということは基本的に許されない。こうやって民間会社の社員は追い詰められる。
こういうのを見ていると、大東亜戦争のときの玉砕覚悟で米国軍に立ち向かった日本兵を思い出します。硫黄島では支援も援軍も全く期待できない状況の栗林中将に東条首相が
「どうかアッツ島のようにやってくれ(玉砕せよの意味)」と懇願したらしい。徹底抗戦した日本軍は最後は手榴弾などを持って「万歳」と叫びながら敵に向かって走っていったらしい。もちろん射殺もしくは爆殺された。万歳は嬉しいときにも使うけど、「もう打つ手がありません」という表現でもある。
もし、「日本の強さ」の秘訣に「命をもいとわない精神」というものがあるとしたら、これは一体どうなのだろう。こういう人種が中国、朝鮮、フィリピン、ビルマ、インドネシアシンガポールなどを占領し、現地人に対して優しく接するわけがない。中国における日本軍の中国人虐殺はあったと思う。
ちなみに「特攻」の始まりは1944年10月、フィリピン東方海上で米護衛母艦セント・ローに体当たりをして撃沈したのが始まりらしい。その後、「特攻」は美化されて、終戦まで続いた。「生きて帰ってくるな」という命令はどういう感覚でなされたのか。言われた兵隊はどう自分自身に言い聞かせて出撃したのか。「お国のため」だったのか。
「会社のために」どこまで頑張るか。戦後も日本人は頑張り続けた。世界が目を見張る奇蹟の経済成長を日本は遂げ、そして、今、長い不況にある。
14年連続で年間3万人以上の自殺者が出ている。年間3万人と計算しても42万人が自殺した勘定だ。もちろん、特攻とこの自殺とは違うだろうけど、なんというか、まだ、別の戦争が続いているような気がする。
日本人はなかなか降伏しない。それがいいことなのかどうか。諦めればずっと楽になるような気がする。我慢もしない。プライドも捨てて開き直る。そうすることによって、もっともっと人生は楽になるような気がするのですが。
英国は「数々のバトルでは負けても、戦争に負けたことはない」と豪語していますが、これは、「小さな地域戦(人生の小事)では白旗を揚げてもいい、でも、人生は諦めない」という哲学に通じると思うのですが。
もうすぐ、桜の季節になりますが、散る桜に対して「美しい」と思う感覚は要注意です。確かに美しい、でも、人間は天寿を全うすべきだと思います。
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人は愛し愛されて幸せを実感する。だから一人では幸せにはなかなかなれない。誰を愛し、誰に愛されるのか。通常、愛し合った男女が結婚する。でも、ひとつの人格・個性をもった人間と別の人格をもった他の人間が生活レベルでもお互いの価値観を認め合い、愛し続けるのは難しい。だから離婚も多い。結婚はひとつの制度に過ぎないから、離婚自体は別に不幸ではないはずだ。しかし、愛し合っていたはずの相手と仲たがいして憎しみ会うようになるのは、やはり不幸と言える。
ペットを飼うのは、ある意味代償行為だ。馬は人を裏切らない。犬も人を裏切らない。人間以外の動物は食べ物と愛を求めるが、お金は求めない。そして口答えもしないので喧嘩にはなりえない。かつての金持ちが奴隷を買うようにペットは買うことができる。処分することもできる。もちろん、家族同様の扱いをして、死んだら葬式を出してもいいし、お墓を作ってもいい。飼い主の自由である。でも、ペットと二人暮らしだと一人で外出時が困る。
犬型ロボットもある。糞もしない。臭いもない。毛も抜けない。ペットと同様お金で買えるが、抱いても温もりはない。壊れることはあっても、動物のように死なない。旅行に出かけるときにペットがいると困る、と言う人はロボットがいいのかもしれない。やがて人間型ロボットも多く開発されるだろう。最初は介助ロボット、やがては恋人のようなロボットも開発されて、不思議な愛が生まれるのかもしれない。人間型ロボットが、将来どこまで人間に近づけるかというのは興味深いです。
ペットもロボットも嫌だ、人間がいい、でも、他人と暮らすのは面倒だ、という人もいると思う。だから結婚もしない。誰とも同居しない。それでも、たとえば、信仰心があれば、「神とともにいる」という感覚で幸せを実感できる人もいるかもしれない。
また、通い婚のように、籍も入れず同居もせずに愛し合う、という方法もある。最近は、これが流行かもしれない。子供がいなければ、何も問題ないと思う。
愛し合うことは素晴らしいことだけど、反面、疲れる。やはり他人は他人なのだ。すべてが相手と合うなどということはない。あっても長くは続かない。子供が不要ならばお互いに何の束縛も持たない通い婚がベストかもしれない。
子供が欲しいとなると、やはり、両親はいたほうがいいと思う。とくに幼児期には必要だ。18歳くらいになってしまえば、もう、経済的な援助さえあれば、父と母が同居していなくても全然問題ないかもしれない。それでも、子供にはそれぞれの親からの愛も欲しいだろう。
以前、ニュージーランドに滞在していたとき、人の家を訪問すると「彼女は私と前の妻の子ども」「彼は現在の夫婦の子ども」などが混じりあっていて、ややこしかった。それも慣れてしまえば大した問題ではないのかもしれない。再婚しても、昔の配偶者と会ったりすることはあるのでしょうか。
家庭だけでなく、職場も学校も人間関係が悩みも喜びも創り出す。「愛」まで行かなくても、「好き」くらいの感覚を持てる相手が増えると嬉しい。「苦手」「嫌い」「憎い」な人が増えるとストレスになる。問題となるのは「近い人」「毎日会う人」ですね。
親子でも難しい。兄弟でも姉妹でも難しい。夫婦も難しい。ましてや、職場の人たちも難しい。「どうでもいい」と無視したくても、どうしても関わらざるを得ない人たちがたくさんいる。
難しいですね。本人の努力と我慢も必要なのでしょうけど。
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少し春めいてきた。春と言えば、男と女。キレイな交際もいいけど、猥褻なことも楽しい。
男女の秘め事というのは、当事者にしてみると、これは絶対に人に見せられない、人には話せない、などと思いながら、いろいろとエキサイティングなことをする。そういうときには、恥ずかしさが興奮となり、人に知られてはならない秘め事であることであるからこそ、燃え上がったりする。自分の世界に没頭しているわけで、場合によっては、嗚呼、もう、どうなってもいい、などとも思うのである。
しかし、実際は、他の人たちも同じようなことをしているのであって、ここまで猥褻なことは我々だけだろう、などと思っているとそれは大きな間違いである。皆さん、大体のことをやっている。小説にもなっているし、映画にもなっているし、そして、現実はもっと多様であると思う。
だから、赤裸々な自分の性体験を小説に書こうと思ったところで、その描写なり、文章なり、物語なりが卓越していない限り、多くは退屈だし、もしくは、ただただ欲情を煽るだけの文章になってしまう。
「俺のナニはビンビンだぜ」「私は実は淫乱なの」などと若者が「どうだ!」と密かなプライドを抱こうとも、実は、もう枯れたようにみえるご老人たちも、かつては同様にビンビンで淫乱だったのだ。もしくは、枯れたように見えていても、全然枯れていないかもしれない。
猥褻とは「いたずらに性欲を興奮、 または刺激せしめ、かつ普通人の性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すること 」という刑法の定義があって、猥褻物の陳列、販売などは犯罪扱いではあるが、人知れず、猥褻な行為をしても犯罪ではない。
性的な猥褻はローマのカリグラの時代から、日本は古事記、源氏物語の時代で既に有名な作品が生まれるくらいだから、サルから進化した人間が二十一世紀になって新たな猥褻行為を発明するとも思えない。
男女の秘め事は、視覚、味覚、触覚、聴覚、嗅覚を総動員して楽しむものであって、これが心と体の双方を激しく興奮させて、まさに今、生きていることを実感させてくれる。ところが、コンピュータの発達で、バーチャルな猥褻さを体験する人々が増えると、これら五感の総動員もなくなり、人肌も感じず、相手の心も感じあえない不毛な猥褻さが増えている。性欲の少ない若者、薄い精子、セックスは面倒くさいと考える若者たちはある意味不幸でもある。
以前は4月になれば新入社員がたくさん配属されて、なんともいえない健康的なフェロモンが漂っていたけど、最近の職場には加齢臭がする。猥褻だとか秘め事でなくて、エロスと言ってもいいかもしれない。生きるもののエネルギーのようなものを感じることが少ない。
女性は秘め事でお腹の中をかき混ぜてもらい、体内から多量の分泌液を出して、血流が全身を巡り、肌は桜色に変わり美しくなる。性的に満たされている女性は幸せである。男は、血が一箇所に集まって放出に向かって準備態勢が整う、ただのオスの動物のようになる。性的に元気で満たされている男性もまた幸せである。
秘め事に至る過程は様々であり、その後の経過も余韻を残して花びらの散った後の桜林のような風情がある。
3月に入り、一雨ごとに暖かくなってきた。あと一月もすれば桜が咲く。春爛漫になる。現代社会でストレスのたまった人たちは、たまには理性を捨てて、狂ったように野性に帰るか、猥褻なことでもして、人間性を回復したほうがいい。お金のためでもなく、名誉のためでもなく、出世のためでもなく、親孝行でもなく、正義のためでもなく。犯罪にならない程度にね。相手がいればの話ですが。
(dareyanenも頭がおかしくなった、と思われるかもしれないけど、日本には愛が足りない。
そんな気がするのです)
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ダメ女の口癖、3Dというのがあります。
でも demo
だって datte
どうせ douse
今日、ある女性と話していて、この3Dがとても気になりました。
「でも」も「だって」も反論したい時には使うのでは?
という意見もありますが、「口癖」になっている人の「でも」と「だって」
は、大体、単なる言い訳です。
そして、「どうせ」は開き直り。
この3つの口癖を言う女性は、現状に不満があります。でも、この3つを
言うことによって、あらゆることを否定したいのです。
そうすると、今の満足できない現状から脱却することは永遠にできない。
だから、もし、人生を切り開いて行きたいならば、この3つのセリフは
意識的に封じ込まなければいけない。これは、簡単そうだけど、実は簡単なことではない。
なぜならば、意識改革が必要だからだ。
ネガティブな意識をもって生きても、何もいいことは起こらない。
どんなに不幸な境遇でも本人が満足しているならばいい。
でも、不満だから、こういうセリフが口癖になる。
にもかかわらず、他人の言葉に耳を貸したくないのだ。
そして、自分の行為を正当化したくなる。
でも、その正当化したい自分の行為には、実は後ろめたさがあるのだ。
もちろん、否定的な気分になることは多い。でも、「口癖」はいけない。
こういう私だって言い訳をすることはある。でも、それは見苦しい、聞き苦しい。
自分で言っていてわかる。
だから極力言いたくない。
すべては自分の責任なのだ。
責任を他に転嫁してもいいけど、それでは何もポジティブな変化は
訪れない。
村上春樹の『風の歌を聴け』の素晴らしいところは、最初の序文のところで
「言い訳はしない」という潔い決意表明をしているところだ。
大変なのは分かってる。
皆、大変なのだ。
不幸な境遇かもしれない。
今のあなたはダメなのだ。
でも、それが嫌ならば、コツコツと打開の道を探るしかない。
3Dは言ってはいけない。
でも demo
だって datte
どうせ douse
言わないことで、人生は変わってくる、と
私は思う。
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