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トルーマン・カポーティの『冷血』(In Cold Blood)を読み終えた。
文体が難解と前回書いたけれど、読み進めば慣れて、かえって心地よくなる。
とても面白かった。
この小説が「ノンフィクション・ノベル」というジャンルの草分けらしい。ノンフィクションというからには
「事実」であって、本来ならば小説ではなくて、ドキュメンタリーなどと呼ばれるはずだ。だけど、カポーティ
は事実をそのまま「小説」にしてしまった。
(村上春樹のオウム真理教によるサリン被害者、加害者のインタビュー本は、この冷血の影響を
受けているように思えた)
その事実は大変な事実だった。1959年カンザス州の田舎で、非常に評判のいい働き者の農場主
とその妻、そして、10代の息子と娘が惨殺された。四人ともロープで縛られ、ガムテープで猿轡をされ、
至近距離から猟銃で射殺されたのだ。盗まれたものはほとんどない。となると殺人の動機は怨恨だと
思われるが、家族四人を恨む人などはいなかった。
捜査は難航したが、あることをきっかけに二人の容疑者が逮捕される。
ディックとペリーという刑務所から出てきたばかりの青年だ。どちらも過去の交通事故で風貌が
美しくない。ディックの家庭は比較的普通で、彼は頭が良くて、残忍で、詐欺師だった。
ペリーはもっと複雑だ。上半身は筋肉隆々でがっちりしていたが、下半身は発育不良で子供のようだった。
家族のほとんどは自殺している。母はインディアンだったが、ペリーを愛していなかった。
父親がペリーをキャピングカーに乗せてあちこちつれて歩いたが、ろくに学校にも行かせてもらえなかった。
父親は変わり者で、アラスカにもペリーを連れて行き、肉体労働を手伝わせた。喧嘩して、ペリーが父を、
父がペリーを射殺しようとしたこともある。ペリーは16歳くらいから軍隊に入ったが、同性愛者たちから
力づくで性の玩具にされた。ペリーは、もっと学校教育を受けたかった。しかたなく独学で勉強した。
家族の愛も欲しかった。父も母も彼を愛してくれなかった。恋愛もしたかった。しかし、彼は体に
コンプレックスがあった。普段は比較的大人しくて紳士的なペリーだったが、人生でつもり積もった様々な
世界への怒りが突如爆発することがあった。
4人を実際に射殺したのもペリーだった。ペリーには、4人に対する恨みも怒りもなかった。ただ、
内在していた暴力的な激情が、相手を選ばずに爆発してしまったのだ。
カポーティは、事件に関わった被害者、加害者、捜査陣、その他関係者で、会える人たちとは
直接面談して、それぞれの人物像をなま生しく、そして、深く復元していく。
とくにペリーについては、深く深く分析してる。
(ペリーに関する記述を読んでいると、東野圭吾の『白夜行』の主人公を思い出す。
東野圭吾もきっと、冷血を読んでいると思う)
裁判で弁護側が「ディックとペリーは犯行時、精神が異常であった」という観点から死刑からの
減刑を目指して答弁したが、裁判官は「これが犯罪であるということを認識できる精神状態だった」
として、死刑は動かせない判決となる。
小説の中にカポーティ自身のコメントは登場しないが、彼がペリーに対して大変興味を示し、
やや同情的ですらあるようにも思える。
実際、カポーティは死刑になるまで何度もペリーと交流を続け、二人の間には友情のようなもの
も生まれたらしい。しかし、絞首刑まで小説として書こうとしていたカポーティにしてみれば、
絞首刑にならなくては本が出版されないわけで、心の中では「早く死刑になってくれよ」という
思いもあったらしい。この本のタイトル『冷血』は、二人の犯人のことを書いているようにも思えるのだが、
実はカポーティは自分自身のことを言っているのではないか、という説もある。
カポーティはアメリカ南部をいろいろと移動する子供時代を過ごし、ろくに学校も行けなくて
独学で勉強した。カポーティという姓は、父親のものではなくて、離婚した母が再婚した相手の姓だ。
母はやがて自殺する。カポーティ自身も晩年はアルコールと薬物中毒に苦しみ、1984年に
ハリウッドの友人宅で急死している。
ただの惨殺事件、残虐な犯人というマスコミ・レベルの浅薄なものではなく、「人間」を描けている点
が素晴らしい。「異常」というレッテルを貼ってしまえば簡単だけど、人間はそんなに単純なものでは
ないし、もしくは、カポーティ自身が自分の中に「異常」なものを感じていたのかもしれない。
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本
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図書館でトルーマン・カポーティの『冷血』を借りてきて、読み始めている。
なぜ、『冷血』を借りたのか。実は、この本は、ずっと昔からなんとなく気になっていた本なのだ。
理由はとくにない。トルーマン・カポーティの『冷血』は、なんとなく、読まねばならないような、そんな
気がずっとしていた。
アメリカの中西部の片田舎、カンザス州で、1959年に実際に起こった殺人事件を、徹底的に調査して
書いたノンフィクション小説だ。1959年というのは、なにを隠そう、私が生まれた年でもある。
カポーティの文章がねっちり、ぎっちりしていて、決して読みやすい本ではない。訳文を読んでいて
そう思うのだから、英語の原文もきっと難解なのかもしれない。内容が難解なのではなくて、
文体が難解なのだと思う。
それでも、田舎の平和な家族の楽しげな暮らしと、刑務所から出所してきた異様な二人の殺人鬼
の行動が交互に書かれ、まもなく起こる殺人を予感させて、ドキドキする。
まだ、この二人が田舎町に到着したばかりだ。
これから二人が四人を殺す。
なぜ、カポーティはこんな事件の調査に5年もかけ、そして、こんな本を書いたのか。
それが知りたい。
読み終えたら、また、ブログでアップします。
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『ハックルベリ・フィンの冒険』(1885年出版マーク・トェイン著)を読み終えた。とても、面白かった。
基本的には、少年の冒険物語。ほら吹きがたくさん出てきて笑えて、スリルがあって、そして、心を打たれるヒューマン・ドラマがあります。
『トム・ソーヤーの冒険』は、トム・ソーヤーが主人公で、友人としてハックルベリ・フィンが登場する。
『ハックルベリ・フィンの冒険』は、ハックルベリ・フィン14歳が主人公で、友人としてトム・ソーヤーが登場する。
トムは頭がいい、悪戯大好き、そして、正義感の強い白人少年。
ハックは、自由を愛する自然児で、しっかりとした良心を持っている白人少年。
『ハックルベリ・フィンの冒険』は、家出をしたハックが筏で雄大なミシシッピー川を進むうちに、途中で、逃亡奴隷(黒人)のジムと合流する。このジムは妻子ある大人(妻子とも、別々の白人の家に売られている)で、非常に忍耐力があり、人間愛にあふれる。ジムは、逃亡奴隷として懸賞金がついている。
ハックは、ろくに学校教育を受けていませんでしたが、「黒人奴隷の逃亡を助けることはいけない」ということは知っていました。教会でもそう教わっていたからです。しかし、ジムがあまりにいい人間なので彼はどうしたらいいかわからなくなってしまいます。社会が自分に教えた良心っていうのは、少しおかしいのではないか、と考えるようになります。そして、とうとう
「ジムを助けるために(教会で教えられたように)地獄に行くのなら、地獄にいってもいい」
とさえ思い、覚悟を決めます。
途中で出会ったトムにそれを話したら、
「面白い!俺も手伝う!」
と即座に賛成する。
この小説の時代背景は、南北戦争(1861-1865)の前であり、南部では奴隷制度がしっかりと制度として残っていた。(差別偏見として残っていたのではなくて、法的に差別していた)。
トムの発言;
「ジムを放してやれ!あいつは奴隷なんかじゃない。この地面を歩いているどんな生き物とも同じように自由なんだよ!」って発言も素敵です。
小説の中には「黒ん坊」niggerという言葉が200回以上出てきます。内容的には差別のない人間ドラマですが、結局、本国アメリカではこの本は発禁本になっています。
フォークナーもヘミングウェイも本書を絶賛し、マーク・トゥエインを米国文学の父と呼びます。
しかし、実際には、ヘミングウェイは、「素晴らしいのは31章までで、その後はデタラメだ」と言っています。
実は、31章までは、かなりドキドキハラハラで、しかも、現実的なつらい展開となっていますが、32章からは
やや無理をしてハッピー・エンドに終わらせているからです。
まあ、現実を取るか、理想を取るか。
黒人にしてみたらつらい内容で許せない表現かもしれませんが、日本人が読む上では、何の問題もなく
非常に面白い作品だと思います。
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マーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』(1885年)を読んでいる。面白い。
図書館で借りてきた本だけど、買うべき本だったかもしれない。600ページ以上あるけど、
読み終えるのが惜しいような本だ。『トム・ソーヤの冒険』の続編といえる。
19世紀後半、日本では明治になったばかりの頃のアメリカのミシシッピ川中流あたりの物語。
トム・ソーヤは悪がきだったが、ハックルベリ・フィンはその親友で、親父はとんでもない飲んだくれで
DVの嵐。でも、ハックはそんなことで負けていないし、家出をして、ミシシッピ川を筏で旅する。
14歳である。途中、脱走してきた黒人奴隷のジムと合流。この本は、今では、アメリカでは発禁本かも
しれない。随所に「差別的な表現」が出てくる。
でも、マーク・トウェインは自由を愛した。偏見も差別もなにもない。くだらない「教養」を馬鹿にしている。
キリスト教の教え、行儀作法、「立派な人」、規則正しい生活、学校教育、そういった、本来教養あると
されるべき人がもつものをとことんコケにしている。
逆に言うと、黒人奴隷をバカにしていない。孤児同然のハック(ハクルベリフィン)に対しても
とても暖かい眼差しで見守っている。
ハックは、もちろん、俗に言えば、とんでもない「悪がき」なんだけど。
少年の冒険。ハラハラ、ドキドキが続く。
読んでいると、自分の子供の時のあの「ハラハラ、ドキドキした瞬間」を思い出す。
遠い思い出だ。
人は皆、最初から、こんな私のようなおじさんだったわけではない。誰もが最初は子供だった。
学校が、親が、社会が、会社が、どんどんと人の心から、少年の心の輝きを奪い取っていく。
会社に行けば、やれ、売上だ、見積もりだ、出荷だ、利益がどうした、誰々が昇格した、
納期前倒し、値引き交渉、品質問題などなど、人は「お金」の奴隷となり、「時間」の奴隷となり、
輝きを失っていく。
マーク・トウェインによるこの小説の前書きがいい;
「告知
この物語はどんな目的で書かれたものなのか、
なんて考える者は、裁判に訴えられるぞ。
この物語のなかに教訓を見つけようとする者は、
追放されるぞ。
この物語のなかに筋書きを見つけようとする者は
撃ち殺されるぞ。
著者の命により警告する、
兵器部長 G・G」
ゆっくり、楽しみながら読みたいと思っています。
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村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』に続いて、清水俊二訳の『さらば愛しき女よ』と『湖中の女』を読んだ。
こうして、二人の訳者のものを読めば、レイモンド・チャンドラーの文章の良さが訳者のせいではなくて、原文に
あるのだ、ということがわかる。
レイモンド・チャンドラーの長編小説は7つしかない。
1939年 The Big Sleep 『大いなる眠り』
1940年 Farewell, My Lovely 『さらば愛しき女よ』、(村上春樹訳は『さよなら、愛しい人』)
1942年 The High Window 『高い窓』
1943年 The Lady I The Lake 『湖中の女』
1949年 The Little Sister 『かわいい女』、(村上春樹訳は『リトル・シスター』)
1953年 The Long Good-bye 『長いお別れ』、(村上春樹訳は『ロング・グッドバイ』)
1958年 Planyback 『プレイバック』
ハードボイルドの探偵小説だから、もちろん、犯人探しの物語も重要だ。そういう読者の期待もチャンドラーは
裏切らない。謎が謎を呼ぶミステリーだ。でも、それだけではなくて、彼の文章も素晴らしい。いつか、英文の原書を入手してチャレンジしたいとも思っています。
『さらば愛しき女よ』(ハヤカワ文庫)から、一部抜粋します。(以下、引用です)
①まずは、迫力
「俺のからだから手をはなしたらどうだ」と、大男はいった。
用心棒は苦い顔をした。彼はこんなふうないい方をされたことがなかった。彼は大男のワイシャツから手をはなして、色も形もなすびそっくりの拳をかためた。彼は用心棒としての名声を傷つけられたくなかったのだ。そのために彼は過失を犯してしまった。彼はいきなり肘をうしろにまげて、大男の顎にすばやい一撃を加えた。部屋のなかに、かすかな歓声が流れた。
見事な一撃だった。肩がさがって、からだが美しく揺れた。その一撃には、からだの重量がかかっていた。その一撃を加えた男は、しじゅう練習を積んでいる男だった。しかし、大男は一インチほど頭を動かしただけだった。彼はその一撃を避けようとしなかった。まともにその一撃をうけて、わずかにからだをふるわせたかと思うと、咽喉にかすかな音をさせて、用心棒の頸をつかんだ。
用心棒は、膝をあげて、大男の腹を蹴ろうとした。大男は相手のからだを泳がせて、大きな靴をリノリュームを敷きつめた床にすべらせて開き、用心棒のからだをそらせながら、右手でバンドの金具を握った。金具は音をたてて、砕けた。大男はその巨大な掌を相手の背中にぴったりあてて、押しとばした。三人の男が慌てて、道を開いた。用心棒はテーブルを乗りこえ、デンヴァーまで聞こえそうな音をたてて、部屋の隅に投げつけられた。脚がからみあって、曲がったままだ。そして、そのまま身動きもしなかった。
「凄みをきかせる相手をまちがえている奴がいるんで、困るよ」と、大男は私の方を見ながら、いった。「一杯、やろうじゃないか」
②女性の人物描写
私は封筒をあけて、一枚の写真を取り出した。他の写真と同じような写真だったが、写真の主ははるかに感じのいい女だった。腰から上に、道化師の衣装を着ていた。黒い房のついた尖った帽子の下に見えている髪は黒くうつっていたが、赤い髪かもしれなかった。顔は横を向いていたが、目は明るく輝いていた。しかし、愛らしく、無邪気な女であるかどうか、それは私にはわからない。美しいことは確実で、たしかに男たちに騒がれたであろう。ただ、その美しさは平凡な美しさで、オフィス街の昼休みの時間にはいくらでも見られる顔だった。
③酒飲み婆の描写
彼女は絨毯を見下ろした。ラジオが部屋の隅で楽しそうになっていた。一台の自動車が表を通りすぎた。蝿が窓にぶつかった。やがて、彼女は意味をなさないことをぶつぶついったかと思うと、頭を振って、笑い声をたて、右手で壜をとって、口にくわえた。壜が空になると、彼女はそれを振ってみてから、私に投げつけた。壜は絨毯の上を部屋の隅に転がっていった。
④インテリ、辛口女性
アン・リアードンは唇をなかば開いて、ダライ・ラマを眺めているかのようなうっとりした表情で聞いていた。それから、ゆっくり唇を閉じて、うなずいた。
「あなたは頭がいいのね。でも、利口じゃないわ」
⑤皮膚的な感覚描写
私は段々を丘のほうに登りはじめた。カブリロ街まで段々が二百八十あった。たえず、砂まじりの空気が吹きつけていて、両側のてすりがヒキガエルの腹のように濡れていた。
⑥ある男性の描写
その男は痩せて、背が高く、鋼鉄の棒のように姿勢がよかった。(中略)
夢遊病者の眼のように深さのしれない眼が、かつて読んだことのある井戸の話を想い出させた。それは九百年前の古城にある井戸で、石を投げ入れても、いつまでも水の音が聞こえないのだった。諦めて、帰ろうとすると、はるか遠くの井戸の底でかすかな水の音がする、そういう井戸だった。
彼の眼はそのように深かった。そして、また、その眼には表情もなく、魂もなかった。ライオンが人間を引き裂くところを見ても、少しも変わらない眼だった。人間がまぶたを切られ、暑い太陽の中で叫んでいるのを見ることのできる眼だった。
比喩の訓練というのも、やってみると楽しいかもしれませんね。一日一つ、比喩を使った文章を考える。
やがては、コツがつかめてくるかもしれない。
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