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先週の朗読会では、村上春樹の『夜のくもざる』に収録されている「もしょもしょ」を読みました。
『夜のくもざる』は、16年くらい前に、糸井重里の薦めで村上春樹が雑誌広告などに書いたもの
を集めたナンセンス短編集です。非常に短いので、1話あたり3〜4分で読めます。
正直言って、面白いものもあれば、それほどでもないものもある。シュールなものもある。
でも、はまってしまうと楽しい。
私のお気に入りは、「もしょもしょ」「ことわざ」「タコ」「コロッケ」など。
ちなみに、「もしょもしょ」は、
僕が、ぼちょぼちょにいいことをしたら、そのお礼にもしょもしょが、くりゃくりゃを持ってきた話。
僕は、驚いて、こんなものをもらうわけにはいかない、と拒否するのだけど、もしょもしょは
「えーやないですか。よっしゃ、ゆうて、もろてくれたらええんですよ」
と置いて行く。まさか、くりゃくりゃを玄関に置いておくこともできず、押入れの奥にしまう。
奥さんに見つかったら大変なことになるからだ。でも、くりゃくりゃを実際使ってみると、思ったよりも
ずっといい。毎日堪能している、といった話。
村上春樹の本は、世界の数十カ国語に翻訳されていますが、春樹の本の翻訳家による国際
シンポジウムでは、「『夜のくもざる』が一番翻訳が難しい」という話でした。
楽しい本ですよ。
↓これは、「夜のくもざる」をベースに動画化したものです。
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村上春樹
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村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み終えた。
1985年6月に出版されるとともに買った本なのに、なぜか、当時は読みかけて挫折してしまった。
それを今回、わけあって、再トライした。
ものすごく面白かった。
「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という2つの話が平行して進んで行き、
やがて読者はこの2つの話のつながりを理解する。全く現実から遠いSFのようなファンタジーの
ような世界を、素晴らしいレトリックで、しかもリアリティのある文章で引っ張って行ってくれる。
まさに「村上ワールド」だ。
26年も前に、村上さんは、こんなレベルの高い本を書いていたのだとあらためてびっくりした。
618ページもあるのに、最後のほうになると、もう終わってしまうというのが残念になってくる。
主人公の「僕」に感情移入してしまうと、なんだか気が遠くなって、あちら側の世界に行ってしまいそうだった。
この小説の中に何度も登場する「ダニーボーイ」という曲を私は知らなかった。
アイルランド民謡であり、そこに歌詞をつけたものらしい。
別れを告げる歌である。
いろんな歌手が歌っている。
なかなかいい曲なので聴いてみて下さい。
Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling From glen to glen, and down the mountain side The summer's gone, and all the roses falling 'Tis you, 'tis you must go and I must bide. But come ye back when summer's in the meadow Or when the valley's hushed and white with snow 'Tis I'll be here in sunshine or in shadow Oh Danny boy, oh Danny boy, I love you so. But when ye come, and all the flowers are dying If I am dead, as dead I well may be You'll come and find the place where I am lying And kneel and say an "Ave" there for me. And I shall hear, tho' soft you tread above me And all my grave will warmer, sweeter be For ye shall bend and tell me that you love me And I shall sleep in peace until you come to me. |
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作家という「人間」と「夢」を語る職業の人間が、「非現実的な夢想家」というタイトルでスピーチしたところが素晴らしい。
「そんなのは現実的でない」という人は、ジョン・レノンの「イマジン」という歌も、「そんなのは現実的でない」と言うだろう。だからこそ、ジョンは言っているんだ;
You may say I'm a dreamer(君は僕のことを無想家と言うかもしれないけど)
スピーチの続きです。
村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
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昨夜は上野のケルト・パブに行きました。
パリジェンヌのロクサンに「なぜ日本に来たのか?」と聞いたら、
「日本に興味があったから。京都、日本食、マンガなど」と。
「なるほど、日本文化でマンガは国際的だよね」
と言ったら
「文学だって、日本は素晴らしい」
と。
「私は、村上龍、村上春樹が好きだ」と。
「え!?村上龍?春樹ではなくて?春樹と龍では全然違うよ」
「龍の『69』をフランスにいたときに読んで感動した。フランス語だから、日本語とは
違うけど。1969年は欧米で様々なムーブメントがあったけど、まさかアジアの国でも
こんなことが起こっているなんて想像もできなかった」と。
「村上春樹も村上龍も、私が読んできたフランス文学とは全く違って、とてもショッキングだった。
それから、江戸川乱歩も好き。ちょっと気持ち悪くて怖いけど。ドキドキする」
「江戸川乱歩!?」
「そう。とても不思議な世界」
「江戸川乱歩はエドガーアランポーから取った名前だよ」
「知ってる。彼を尊敬していたみたいですね」
近くにいた米国人の黒人男性(日本滞在12年)も日本文学が好きで、やたらと口を挟んできた。
「『限りなく透明に近いブルー』は良かったね」
「今度、龍の『歌うクジラ』が出るんだよ」と。
(私はこの本を知らないけど、もう日本語は出版されている?翻訳の話?)
春樹の世界人気は知っていたけど、龍までこんなに人気があるとは。
途中で、近くのインターナショナル・バーで働いているはずのスー(カメルーン人)も
客でやってきて、ばったりと出合ってびっくりした。あっちのお店には最近行っていない。
握手したけど、なんだか、浮気の現場を見られたようで少しバツが悪かった。
彼はケルト・パブの大きなTVで放映されていたイタリア・リーグのサッカーに試合を
見ながら、カクテルかなんか一杯飲んで、出て行った。
ロクサンに日本と比べて、フランスは革命とかがあった点、歴史が面白い、と言ったら
「歴史は、先生の授業が退屈で、あまり勉強しなかった。でも、日本の歴史には興味ある。
なぜ、日本は京都から江戸へ首都を遷都したの?天皇と将軍の違いは何?
神道って何?」
と話はだんだん難しくなっていった。
こういう機会があるたびに、ああ、日本のことをもっと勉強しなくちゃなぁ、と思う。
英語で説明できないと。
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今日も会社を休んでいます。 『1Q84』BOOK3を読み終えました。BOOK2を読み終えたときのような中途半端さは なくて、「ああ、これで『1Q84』は完了した」という感触を得ました。 (作者の「終わらせなくちゃ」という気持ちも感じました(笑) 『1Q84』ってどんな本?って聞かれて、一言で返事をするのは難しいですが、 天吾君と青豆の時空を超えたサスペンス・ラブ・ファンタジーとでもいうのでしょうか。 話は複雑に絡み合っているので、再読しないとわからない部分が結構あります。 さて、天吾君のお父さんは、もとNHKの集金人で、現在は病気で?意識もなく、 千葉県の千倉にある療養所にいる。 天吾君とお父さんは全く似ていないし、二人の間にはなんの愛情もない。 天吾君のお母さんは天吾が小さい時に死んでいる。この人が本当のお父さんかどうかも わからない。 BOOK3で、天吾君が休暇を取って千倉まで電車で行き、宿も取り、毎日、お父さんの お見舞いに行く場面がある。そこで天吾は意識がなく昏睡状態にあるお父さんに朗読を する。 これだけでも、相当、私にいろいろなことを思い出させます。 * 実は私の妻は千葉県の千倉出身だ。千倉に行ったことがある日本人は多くはないと思う。 千葉県と聞けば、「ああ」と思うでしょうが、千倉は遠い。東京駅から内房線特急で1時間で木更津、 2時間乗って館山だ。その終点館山から在来線で2駅先が千倉駅だ。 「鴨川の近くですか?」とも聞かれる。鴨川は外房線の終点だ。そこから車で南へ40分行った ところが千倉だ。遠い。 妻のお父さんも数年前に千倉の療養所で亡くなった。ひょっとしたら、春樹の小説のモデル になったのはこの療養所(ホスピス)かもしれない。 千倉を「猫の町」と表現しているけど、千倉には地元のデザイナー(版画家)でネコの デザインを多く扱っている人(山口マオさん)がいる。ひょっとしたら、この人の作品に 触発されて「猫の町」としたのか。 (長男の5歳の誕生日12月24日の記念に千倉でマオさんの版画を買って、家に飾ってあります。 これがそれです。裏にはマオさんにメッセージももらっています) 寝たきりの父親。私の母も寝たきりの人になってしまった。母は千倉ではなくて神奈川にいる。 そして、朗読。私は新宿での朗読会に参加するようになった。 寝たきりの人に一方的に朗読をする、ということはなんだか良いことのような気がしています。 次回、母を訪問したら、何か朗読しようと思っています。 今は私は病身で、母もいつまで持ちこたえるかわからないけど。 『1Q84』BOOK3から少しだけ引用(232ページ) (天吾君がお父さんの病室に入ってからの描写) 気持ちの良い朝だ。空気を入れ換えなくてはならない。外気はいくぶんひやりとしているものの、 まだ冷え込むというほどでもない。陽光が部屋に差し込み、海風がカーテンを揺らせた。 一羽のかもめが風に乗り、両足を端正に折り畳み、松の防風林の上を滑空していった。 雀の群れが不揃いに電線にとまり、音符を書き換えるみたいにその位置を絶えず変化させていた。 くちばしの大きなカラスが一羽、水銀灯の上にとまって、あたりを用心深く見回しながら、 さてこれから何をしようかと思案していた。幾筋かの雲がとても高いところに浮かんでいた。 それはあまりに遠く、あまりに高く、人間の営みとは関わりを持たないきわめて抽象的な 考察のようにも見えた。 「幾筋かの雲が・・・きわめて抽象的な考察のように見えた」 ストーリーだけでなく、こういう描写も私は大好きです。
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