|
日本社会文学会シンポジウム 「歴史の岐路と文学「フクシマ」から見る日本社会」報告 2014年11月8・9日(於 福島大学) 志賀 泉 1 11月3日に、原発事故を題材にした長編小説を書き上げたばかりだった。原発被災地出身者として、自分にしか書けない作品を目指したが、被災地や被災者が 抱える問題の全体像は一作で捉えきれるものではなかった。書き残した問題を次作品にどう繋げていくべきか、重い課題を抱えながら、11月8日、福島大学で 開かれた日本社会文学会のシンポジウム、「歴史の岐路と文学 「フクシマ」から見る日本社会」に参加した。 発表は、澤正宏(福島大学名誉教授) 「歴史の転換点と文学」、木村朗子(津田塾大学教授)「世界文学としての震災後文学」、齋藤貢(詩人)「震災とアムビヴァレントな言葉と」。ディスカッサ ントは川村湊(法政大学教授)。森詠・千春夫妻と私、志賀泉は聴講席での参加となった。(敬称略) 澤正宏は、原発事故が歴史の転換点であることを再確認した上で、事故後に本格的な原発文学と言える作品がいまだ出ていないことを問題視した。 1960年代には、邦光史郎の『鉛の箱』がベストセラーになっている。ミステリーの筋立てで、原子炉購入の裏側で国際的な原発資本、日本政府、財閥、電力 会社がどういう思惑で動いていたかを暴き、原発社会の暗闇に鋭く切り込んだ小説だ。『鉛の箱』に匹敵する作品は、事故後まだ現れていない。今、日本文学に 求められているのは「原発の本質を衝く全体的で本格的な原発小説」だと、澤は語った。 木村朗子は、「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉と、震災(原発事故)以後、多くの文学者が「書けなくなった」と心情を吐露したことを重ね合わせ、「書けない」現状をいかにして乗り越えていくか、文学の可能性について語った。 文学は、原発事故以前と以後に分かれたと言える。しかし事故以後の小説は、原発事故に関して具体的な表現を避け、曖昧にほのめかしている作品が多い。では、事故以後の文学にどのような可能性があるのか。 川上弘美は、事故以前の作品『神様』を、事故後に『神様2011』として書き直して世に送った。以前の作品を以後に書き直すという手段も可能性としてある のではないか。また、読み手の可能性として、以前の作品を、原発事故を踏まえて恣意的に読み直すという手法もあるのではないか。高橋源一郎の事故前の作品 『さよならクリストファー・ロビン』には、「『あのこと』が起こり、世界は虚無に浸食されていく」という一文がある。この「あのこと」を「原発事故」と読む ことで、作品に新しい意味を与える可能性があるのではないか。いずれにせよ、「詩を読むことの野蛮さ」は乗り越えていかねばならない。 齋藤貢 は、南相馬市小高区にある小高商業高校の元校長であり、震災体験を踏まえた詩を発表している。小高商業高校と浪江高校の生徒の文集から、「私たちは試され ている」という言葉を例に取り、震災(原発事故)体験を「試練」として受け止めてしまうと事の本質を見誤ってしまうのではないか、社会に流通する「癒しの 言葉」も同様の危険性を秘めているのではないかと語った。 ディスカッサントの川村湊は三人の発表を踏まえ、原発事故以前の原発小説がどれもミステリー小説であることを指摘し、事故以後は広い分野から、原発問題に具体性を持って取り組む作品が書かれるべきだと期待を語った。 質疑応答では、森詠が「原発を題材にした映画はたくさん作られている。何人かで象に触れるような小説でもいいから書かれるべきではないか」と意見を述べた。 志賀は、「現地では被災者同士でも原発や放射能について語ることをタブー視する空気が流れている。似たような空気が日本全体を覆っているのではないか」と疑問を投げかけた。 2 翌9日、飯舘村を経由して南相馬市小高区をめぐるバスツアーに参加した。 飯舘村は除染作業が進められていたが、本来は復興に向かうための除染作業が、期待とは裏腹の酷い現実を露呈しているようにしか見えなかった。 村のいたるところに、汚染土を詰めた黒いフレコンバッグが野積みされている。信じられないほどの量だ。フレコンバッグは1メートル四方の大きさで重さは1トンもある。案内をしてくれた澤正宏によれば、積み上げてよいのはせいぜい二、三段までとされるのに、仮置き場の面積が不足しているため五、六段と積み上 げている現場が多い。いわゆる「黒いピラミッド」だ。重量に耐えられず下段の袋が破れる可能性がある。それでも積み上げざるを得ないのが現実だ。しかも、 その現場は山中にあるわけではなく、民家のすぐそばだ。この光景を目の当たりにして帰還を断念した村民も多いという。 双葉・大熊町に建設を予定 している中間貯蔵施設はまだ用地買収も済んでいない。たとえ完成したとしても、何千とあるフレコンバッグをどうやって運ぶのか。3トントラックに積めるの は2個までだという。数千個のフレコンバックを運ぶだけのトラックも運転手も日本には存在しない。しかも東京オリンピック工事のために今後ますます不足し ていくことは必至だ。ということは、現在の仮置き場がそのまま最終処分場になりかねない。いや、必然的にそうなってしまうのだ。いずれ行き詰まってしまう のは目に見えているのに、政府は中間処理施設さえ完成されれば問題が解決されるかのような口振りだ。ここにも誤魔化しがある。 厳しい現状にかかわらず、飯舘村の村長は帰村に向けて着々と準備を進めている。村長に賛成か反対かで村民は二分している。支援をしようにも、まず「帰村派か反対派か」と訊かれるので支援ができない。テレビが流すような奇麗事では済まない難しい現実がある。 バスは南相馬市に入る。原町区の津波被災地域、萱原地区は住宅も水田も消滅して広大な原っぱのままだ。今も居住制限の続く小高区に入り、雨の降る中、傘を さして商店街を歩く。基本的に無人の街なのに、今は市議会選挙運動の期間中であり、拡声器の声も高らかに選挙カーが何台も大通りを走り抜けていった。非日 常と日常が混在した不思議な光景だった。 震災前の小高区の人口は1万2千人。市では当初、帰還者を5千人と推定していたが、今は3千人に修正している。しかし、これでも多目に見積もっているのではないかという印象を個人的に持った。 訪れるたび、半壊の家屋が撤去され商店街に更地が増えていく。しかし改装工事をしている家も目に付いた。駅前の双葉屋旅館も工事中だった。たぶん原発作業 員のための旅館になるのだろう。原発作業員が増えれば、彼らを当て込んだ商売も始まるだろう。結局、こういう形でしか復興は成り立たないのかもしれない。 私の同級生は働き盛りの世代なので、同じ南相馬市の原町区や鹿島区に新居を建てたり、店舗を移して営業を始めたりと、積極的に新生活を始めている者が多 い。無理に小高区に帰還しなくてもいいと私は考える。「町のための復興」ではなく「人のための復興」なのだから。その上で、たとえ小高区が高齢者ばかりに なるとしても、いかにして自治体を維持していくかを考えるべきだと思う。 澤正宏は、東電の賠償金が復興を妨げているという複雑な現実について説明した。 原町区の商店を例にとると、原発事故を理由に商店を休業している場合、事故前の利益と同額を東電から補償してもらえる。営業を再開して利益が減少した場合 には差額が補償してもらえる。つまり、休業しても再開しても同じ収入を得られるのだ。わざわざリスクを負ってまで商売を再開することに躊躇する人が増える のはやむを得ない。このようにして、賠償金が復興への意欲を損ねてしまうケースもある。また、小高区の人間が原町区の空き店舗を借りて商店を再開しようと しても、賠償金が打ち切られるという理由で家主が渋るケースもあるという。難しい問題だ。 最後に、澤正宏はこう語った。「原発事故後、私たちは生き方そのものを変えなければならなかったはずだ。ドイツでは、電気料金は日本の二倍だ。しかし個人の電気消費量は日本の半分なのだ。自然エネルギーを導入するには私たちの生き方を変えるくらいの覚悟が必要なのだ」 〈写真リード〉 福島県南相馬市 小高区。福島第一原発から20キロ圏内にある同地区は避難指示解除準備区域に指定されており、2016年4月から住民の帰還が始まる。復興に向けて歩み出 したかのように見えるが、1万3千人の住民のうち帰還を希望しているのは3割に届かず(2014年8〜9月調査)、除染作業も進まない。私(志賀)の実家は小高駅 前にあり、年末年始の休暇をそこで過ごした。復興には課題山積だが、街は徐々に変わりつつある。 1〈小高駅前〉 小高駅前。破損家屋は撤去され、更地が目立つ。改築・新築の家も増えてきた。 2小高町旅館〉 改築中の駅前旅館。原発作業員や除染作業員などの宿泊所として利用されるのだろう。街の復興とはいっても、当面は原発・除染関連を当てにするしかないのが現実だ。 3〈小高区井田川 廃棄物仮置き場〉 津波被害を受けた水田に設けられた廃棄物(放射性ではない)仮置き場。 4〈小高区福浦 干拓地跡〉
小高区福浦地区の干拓地。津波により破壊された民家の横にモニタリングポストが立つ(0,155マイクロシーベルト/毎時)。 |
全体表示







