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今年九十二歳になったわたしの母は、広島に原爆が投下される一日前までその地にいた。たまたま郷里に戻り難を逃れたが、仲がよかった幼馴染みの女性は、母の、一緒に帰ろうという誘いを断り被爆した。
実家に戻った彼女は、次の日から自分が卒業した学校に、トラックに詰められた被災者たちがやってきたのを見た。友人のことが気にかかってしかたがなかったらしい。それで数週間後に広島に行ってみると、相手の女性は別の町の病院にいて手当を受けていた。 |
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渡辺一枝トークの会『福島の声を聞こう!』を聞きに行く
志賀 泉
「文学者の目的は歴史を創ることではない。歴史を生きることだ」(映画『最後の人間』)
原発被災地に入り自分の眼で現場を見ても、人は自分の見たいようにしか見ない。自分の聴きたい話しか聴かないものだ。
被災者は常に多種多様なジレンマを抱えて生きている。これが真実、これが正義と割り切れるものではない。ジレンマを枝葉末節として刈り取れば歯切れのよい主張も出来そうだが、文学者の仕事はむしろ、枝葉末節をいかに拾うかに掛かっているはずだ。
原発事故関連の講演会や記録映画上映会があれば出来るだけ参加しているが、混乱した頭を抱えて帰ることも多い。被曝の危険度にしても、除染の有効性にしても、復興計画にしても、現地の声と外部の意見は乖離している。見方によって何が正しいのかはころころ変わる。けれど僕はその混乱にあえて答えを出さずにいる。混乱を生きることが、僕にとっての「歴史を生きること」だからだ。
八月三十一日、神楽坂セッションハウスで開かれた渡辺一枝トークの会『福島の声を聞こう!』に参加した。一枝さんが被災当事者をゲストに招き、話を聞く会だ。十二回目のこの日は趣向を変え、南相馬市でボランティア活動をしている東京出身の若者がゲストだった。ちなみに南相馬市は僕の出身地だ。
畑仕事からライブ演奏まで「何でも屋」の通称かまけんと、全国から手紙を集めて被災者に渡す活動を続けている小山謹子さん。二人に共通しているのは、被災者/支援者の垣根を越えて人間同士のコミュニケーションを築いているところだ。二人の報告には僕の両親が暮らしている仮設住宅も出てきて、元気な婆さん達の話を聞くのは楽しかった。
しかし陽気で闊達な婆さんも夜は睡眠薬なしでは眠れないという。かまけんは「笑ってねえど死んじまう」と、婆さんが洩らした本音を聞いた。切実な言葉だ。マスコミが報道する被災者の姿は一面でしかない。しかし悲劇のみを強調するのも同様に一面的なのだ。
「フクシマの真実」などと言うけど、「真実」なんてないことは現地にいればわかる。小山さんはそう語った。それは僕も以前から考えていたことだ。自分のアイデンティティーのため、所属する団体のために自分の「真実」をぶつけ合っている。それでは進展がないという彼女の意見に、僕は強く賛同する。
写真キャプション
「会場で買った仮設住宅の婆さまの手芸品」
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師走、というのはよく出来た言葉で、なるほどセンセ稼業は忙しい。
各学校の学期末ではあるし、お医者さまのところにも年末年始のまえの「駆け込み患者」が殺到する。インフルエンザも流行っているし……物書きにしたって「年末進行」で締め切りが早く、大変なんだぜ。 わたくしの場合は、もう一つ。「忠臣蔵」の討ち入りの日を控え、吉良方の応援団でもありますので、あちこちのテレビ局を飛びまわり、今年は名古屋日帰りなんてことまでやりました。 そんなときに、代議士センセまで走らせた御仁がいる。
おいおい、この忙しいのに、よせよ。あいむソーリくらい言って欲しいぜよ。先んずれば人を制す? 孫子の兵法?
ともあれ、無駄な選挙をやって、各党の当選者数は選挙まえとさほどに変わっていないのに、マスコミは「J党圧勝」だとよ。それを良いことに(というより、これが狙いか)「特定秘密保護法」「集団的自衛権」につづき「原発再稼働」まで、本気でやりだした。
フクシマで核災に遭った十二万もの方々が三・一一から四年近くたつ今も、ご自分のお宅に戻れないでいるというのに、何ということだろう。
こういうのを、破廉恥と言うのではないのか。
とにかく、なし崩しというのが、いちばん怖い。いつのまにか、わたくしたちの国がヤバくてコワイ国になり、だれも何も言えなくなって……そこへさらにヤバいことに、桜島が爆発、川内原発直撃。ついで富士山が爆発、浜岡原発直撃だなんてことになったら、もう終わり。お仕舞いですぞ。
東京オリンピック、どころの話ではないはず。
ふーむ。そう考えると、このたびの選挙は「終わりの始まり」だったのでしょうか。
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3 非水爆大怪獣GODZILLA
ゴジラがいかにして誕生したかということについても、『GODZILLA』は大胆な改変を行っている。初代ゴジラは、その宣伝文句で明らかにように「水爆大怪獣」だ。すなわち、アメリカ軍によるビキニ環礁などでの原水爆実験によって、ジュラ紀以来の眠りを妨げられ、放射能によって突然変異した古代恐竜の単体が、初代ゴジラとされるのである。しかし、『GODZILLA』では、そもそもゴジラ(と、その寄生生物のようなムートゥー)は、ジュラ紀以前の地球に放射能が蔓延していた時代の生物であって、もともと放射能を帯びていたのであり、六、七十年代に頻繁に行われた原水爆実験は、実はゴジラを倒すための攻撃兵器だったというのである。製作者側は無意識かもしれないが、これはアメリカ(とソ連、英仏中)の原水爆実験を肯定的に認めることになる見解といわざるをえない。
初代ゴジラでもっとも肝腎なところ、すなわちゴジラは、アメリカ(とその他の核大国)の原水爆実験から生まれたモンスターであり、人間の科学的な知や、テクノロジーの〝悲惨な失敗例〟であるというメッセージを無化してしまうものなのだ。これが、ハリウッド・ゴジラ映画一作目、二作目、そして三作目を通じてアピールしている、アメリカ側の自己欺瞞の一例なのである。
だから、ギャレス・エドワード監督やスタッフが、いかに初代ゴジラに対するリスペクトを口にしても、「水爆大怪獣」という看板を下ろしたゴジラは、アメリカにとって都合のよい大怪獣にしかすぎず、よりによってサンフランシスコのチャイナ・タウンというオリエンタリズムそのものの場所で、ゴジラとムートゥーは、雌雄を決する闘いを演じるのである。監督や脚本家や製作者が、初代ゴジラではなく、『キングコング対ゴジラ』以降の〝怪獣大合戦〟(やウルトラマン)映画のファンだったことがよくわかるのである。
それにしても、夫婦、親子のファミリーの最終的な出会いや和解という、ハリウッド映画の予定調和としての紋切型の物語は、このゴジラ映画でも貫かれている。夫婦愛に結ばれた怪獣ムートゥーを倒すゴジラは永遠の独身者であり、単独者である。サンフランシスコから太平洋に向こう側(日本列島だ)に向かって泳ぐゴジラの背びれは厳めしいが、その背中から孤独感は匂うように立ち上ってくる。
結論をいおう。アメリカはヒロシマ・ナガサキに対する原爆投下を今に至るまで反省していないし、ビキニ環礁における原水爆実験も、そしてそれによる全地球的規模での放射能汚染も、さらに原子力潜水艦を地上に持ち上げた原子力発電所を世界各国に売り込み、欠陥商品としての沸騰型原子炉で事故を起こしたことの責任も、一切取ろうとはしていない。これが、ハリウッド版ゴジラにおける無意識である。そんな国と同盟関係を結び、さらに集団的自衛権によって、その国の引き起こそうとする〝大義のなき戦争〟に、忠犬ポチ公のように馳せ参じようとする日本の愚劣な政権は、一刻も早く〝呉慈羅大明神〟によって踏み潰してもらわなければならないのである。もちろん、彼らの企む原発の再稼働なども、もってのほかである。南無呉慈羅大明神!
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2 新作『GODZILLA』
ハリウッド版ゴジラの第三作が、二〇一四年、すなわち初代ゴジラ誕生から六十年目に公開された『GODZILLA』なのである。日本では、いわゆる昭和ゴジラ・シリーズ、平成ゴジラ・シリーズ、ミレニアム・ゴジラ・シリーズが完結して、ゴジラ映画が途絶えてからかなりの年月が経っている。日本ゴジラが大団円を迎えてから、再び(みたび)、ハリウッド映画としてゴジラが甦ったのである。
監督のギャレス・エドワードは、インディペンデント映画『モンスターズ/地球外生物』を脚本・監督・撮影・キャラクターデザインと八面六臂で製作した新鋭監督で、『GODZILLA』は、二作目の監督作品である。製作者側は、このゴジラ映画を、初代の『ゴジラ』をリスペクトした作品であり、その社会的な意味を十分継承するものとして製作したという。監督はこういう。「人間はこれまで、自然災害にせよ、そうでないにせよ、理解できないような悲惨な状況を見たり、体験したりしてきた。実際に起きなければ、映画のシナリオのように思えるものをね。だから、究極のゴジラ映画を作るというチャレンジは、その現実を反映することであり、それはゴジラというものがほんとうに何なのかという根本に立ち戻ることなんだ」と。『GODZILLA』という映画の前半で、日本の原子力発電所の事故が描かれるということは、彼のいう「現実を反映すること」であり、ゴジラ映画が常に時代と社会の問題に果敢にチャレンジしてきた(そうでもないのもあったが)ことを、十分に取り入れたと、この若い監督は自信たっぷりに語ったのである。
だが、はたして本当に、3・11以後の日本の「現実」をこのゴジラ映画は反映しているのだろうか。むしろ、相も変わらず、ハリウッドの日本に対するオリエンタリズムを無自覚のままに垂れ流しているのではないか。そうした疑念の目で、私はこの『GODZILLA』を見ざるをえなかったのだ。
映画は、福島第一原子力発電所で起こった原発事故を想起させる、日本のジャンジーラ原子力発電所における事故のシーンから始まる。ジョー・ブロディはジャンジーラ原発の所長で、妻のサンドラは原発の主任の技師だった。一人息子のフォード・ブロディは、インターナショナル・スクールに通う少年である。原発で不気味な震動が続いていた。その震動による原子炉の様子を見に行こうとサンドラが防護服を着て調べに行った最中に、原子炉の爆発事故が起こる。安全地帯にまで必死に駆け戻ろうとするサンドラと技術職員たち。しかし、夫のジョーは、放射能の防御扉を、妻の目の前で、閉じなければならなかったのである。扉の覗き窓ごしに対峙した夫の妻。妻は息子のフォードを頼むと悲痛な別れの際にいうのだった。
福島第一原発事故の際にもあったかもしれないような、悲痛で悲惨な出来事で、原発事故の恐ろしさと悲しみを見事に表現した場面といえるかもしれない。しかし、ちょっと立ち止まってみただけで、このシチュエーションのおかしさはすぐ分かる。四十年前の福島第一原発の建設期、始動期ならいざしらず、アメリカ人夫婦が、日本の国内の原子力発電所の責任者を務めているということはありえないし、現実的にない。今は、原発の製造会社であるアメリカのウェスティング・ハウス社は東芝の、ゼネラル・エレクトリック社は、日立と三菱重工の子会社であって、アメリカの原発に日本人が技術責任者として赴任することはあっても、逆のケースはほとんどない(公式的には、だが)。
それに、もう一つ大きな問題は、事故を起こした原発の周辺は、立入り禁止区域となっているのだが、そこを管理しているのはなぜかアメリカ軍(と日本政府)であり、そこはいわば米軍の軍事占領地となっていることだ。なぜ、日本の原発事故による汚染地域が米軍管理下となっているのか。福島原発事故の時に、菅元総理が口走ったという「(東電や日本政府)が事態に対処しなければ、アメリカが占領しに来るぞ!」という怖れを地でいったような設定なのである。これは、日本の原子力政策、原発政策は、究極のところ、アメリカの支配下にあるという〝現実〟を皮肉にも表現しているのだろうか(アメリカが、野田政権が、閣議で将来の原発ゼロ決定しようとした時、横槍を入れて覆したことは、よく知られているだろう――知られていない?)。そもそも、ジャンジーラ(雀路羅と表記するようだが)という名称(地名だろう)は、日本にはまずありえない名前であり、「雀」という字は、麻雀【マージャン】という言葉を日本語そのままだと思っている半可通の外国語人がつけたものだろう(パチンコのチンジャラが語源か〈笑〉)。日本人には、原発を作ったり、操作するだけの実力はそなわっていない(それは、その通りなのだが)。だから、アメリカ人が日本の原発を管理し、その事故の対応もアメリカ人が行うという設定が、何の疑問もなしにスクリーンに示されるのだ(渡辺謙演じる芹沢猪四郎博士は、画面の真ん中や隅に突っ立っているだけで、ほとんどストーリーに関与してこない。英語風の〝ゴッジラ〟ではなく、ゴジラと発音する役目だけのような気がする)。
問題はそれだけではない。ジャンジーラ原発の事故は、実は原子炉の構造や、地震や津波などの天災が原因なのではなく、地下に眠りつつある大怪獣の心臓の鼓動であって、その大怪獣が目を覚ますことよって、原発事故は引き起こされていたのだ。まるで、福島原発の地下には大ナマズが眠っていて、その目覚めが事故の原因となったとでもいうかのように。
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