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脱原発社会をめざす文学者の会
原発事故を風化させないために

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1 ハリウッド版ゴジラ
 
〈水爆大怪獣・ゴジラ〉が誕生してから六十年が経った。テレビの特集番組で、「ゴジラ還暦!」という文字を見て、「おお!」と思った。ゴジラが、赤いチャチャンコを羽織って「シェー!」(若い世代には分からないだろう)などをするシーンを想像してしまったからだ。初代ゴジラは、一九五四年に封切り上映された。ちょうど、ゴジラの相手役になる自衛隊が発足した年だ(警察予備隊→保安隊→自衛隊となった)。もっとも、『ゴジラ』第一作の製作に協力したのは海上保安庁で、当時、保安隊といっていた自衛隊は、「防衛隊」という名前で出て来るが、基本的には〝実在の組織や団体の名前(と似ていても)とは関係はない〟のである。
 日本生まれの怪獣ゴジラは、大ヒットした。最初のゴジラは、芹沢博士が発明したオキシデント・デストロイヤーで、東京湾で白骨化したはずだのだが、第二作『ゴジラの逆襲』で甦った。大阪城を背景に、アンギラスと死闘を演じたのである。しかし、ゴジラ・ファンも見逃しがちなゴジラ映画がある。一九五六年にアメリカで製作され、公開されたハリウッド版『ゴジラ』である。これは、初代ゴジラをアメリカでリメイクしたもので、『GODZILLA KING OF MONSTERS』の題名で公開され、戦後初めて日本製映画として輸出第一作となったのである。このフィルムは、日本で『怪獣王ゴジラ』として凱旋興行を行った。内容はかなり改変されている。主人公は、たまたま、派遣先のエジプトのカイロから東京に出張中のアメリカ人の新聞記者で、東京に到着そうそう、ゴジラ襲来の被害に遭い、ゴジラ対日本人の戦いの全貌を見届ける役回りとなったのである。彼の出演シーンは、アメリカで追加撮影された。だから、不自然なところがたくさんある。彼は病院で「美恵子」役の河内桃子の看病を受けるのだが、二人が同時に画面に現われる時は、彼女はずっと背中姿だけだ。日本人俳優をアメリカに連れて行くだけの余裕などその頃はなかったので、日本製作とフィルムと、アメリカ側のフィルムを継ぎはぎして、一編の映画を作ってしまったからだ。
 だから、彼が登場してくる場面には、東洋系のあやしげな〝日本人〟で、話される日本語もたどたどしく(日系人だけでなく、中国系の役者も使ったのだろう)、背後に映る「かもめ丸」の文字も少し変だ。これは、アメリカの観客には、馴染みのない日本人俳優ばかりが出て来る日本製ゴジラは受け入れにくいだろうと、主人公の語り手役を無理に挿入したもので、ゴジラの登場シーンや、ストーリーの基本的な部分は日本製のままだから、いきおいアメリカ人記者は傍観者で、ストーリーの説明役とならざるをえないのである(だから宝田明は出て来るが、その役割ははっきりしない。
 しかし、もっとも改変されているのは、初代ゴジラが、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって放射能の〝死の灰〟を浴びたマグロ漁船第五福竜丸事件を、その作品世界の背後に持っていることを、このハリウッド版『ゴジラ』が捨象していることだろう。日本版『ゴジラ』の冒頭場面には、のどかな漁船の甲板シーンが、突然の閃光を浴びて、いっきょに地獄図へと変わる展開がある。第五福竜丸の被曝シーンの再現である。この水爆実験による漁船の被曝というエピソードが、ハリウッド版では、場面の継ぎ接ぎによって、ゴジラの襲撃による漁船の遭難と受け取られるように変造されているのだ。つまり、アメリカの観客には、第五福竜丸の被曝も、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験も、隠されているといわざるをえないのである。ただし、ハリウッド版にも、山根博士(志村喬)がゴジラは水爆実験の放射能によって突然変異で巨大化した、古生代の恐竜の生き残りだと発言するシーンがある(残っている)から、必ずしも〈水爆大怪獣〉としてのゴジラの生誕の秘密を隠蔽しようとしているとは言えないのだが、そうした要素を最小限にしか表現していないこともまた確かなのだ。
 このリメイク版をハリウッド版『ゴジラ』の第一作だとしたら、第二作は一九九八年に製作されたローランド・エメリッヒ監督による『GODZILLA』である。一般的には、これが海外版『ゴジラ』の第一作とされるが、実質的には二作目である。この映画では、ゴジラの誕生地は、南太平洋のムルロア環礁で、フランスの水爆実験によって、放射能を浴びたゴジラが誕生したのである。ゴジラはそこからニューヨークへと渡ってゆき、摩天楼の街並みを走り抜けるのである。主人公は、アメリカ人の若い古生物学者だが、フランスの秘密情報員が絡む。フランスの水爆実験の結果によってゴジラが生まれたのだから、フランス政府はゴジラを始末しなければならない義務を負っているのだ。
 もちろん、これはアメリカの観客に、自国の水爆実験がゴジラの誕生という不始末をしでかしたということの責任を、フランスに肩代わりさせたのである。米ソの原水爆実験の回数と、英仏中(あるいはインドやパキスタン、北朝鮮)の実験回数は較べものとならないが、フランス(領)製ゴジラというところが、ドイツ系監督の苦肉(皮肉)の策というべきか。いかにも恐竜めいていて(『ジュラシック・パーク』みたいだ)、背の低い、魚食の、このゴジラは、いかにも恐竜めいていて、日米のゴジラ・ファンにはあまり評判はよくないが、初代ゴジラの〈水爆大怪獣〉性はきちんと保存されているのである。
〈福島、被災地を撮ったドキュメンタリー映画〉

タイトル 映画&講演 「故郷は原発被災地」
日時  8月2日(14:00〜16:00)
場所  田無公民館 視聴覚室 (西東京市南町5−6−11)
参加費 200円
主催  西東京 風の会(代表 小林 力) 問い合わせ TEL・FAX 042−424−0445 
後援  タウン通信
内容 ① 上映会 『原発被災地になった故郷への旅』(記録映画・30分)
監督 杉田このみ 出演 志賀 泉
② 講演会 南相馬市小高区(旧警戒区域)出身作家・志賀泉が「内側からの視点」で原発と被災地を語る。
プロフィール 
志賀 泉  1960年福島県南相馬市小高区(旧小高町)生まれ。福島第一原発に近い双葉高校出身。2004年『指の音楽』で太宰治賞受賞。神奈川県在住。
杉田このみ 1979年愛媛県松山市生まれ。2000年より地方と人との関わりをテーマとした映画を自主制作する。現在は愛媛県の離島を舞台にアートプロジェクト『今日、この島に私がいます』を制作している。

飯舘村は何を失ったのか?
川村湊
                                                                       
福島県飯舘村は、放射能被災の村として知られている。二〇一一年三月十一日、高原の山村に突然、放射能雲が流れ込み、山林や田畑、牧場や農家や村役場など、まどろむような田園の村を、三十キロ以上も離れた福島第一原子力発電所から発散された放射性物質の放射線が汚染したのである。村には、原発立地の近隣の市町村から、避難民が続々と押し寄せてきた。浪江町、南相馬市小高地区、着のみ着のままのそれらの人々に、飯舘村の人々は、温かい汁やおにぎりを提供した。放射線が降り注ぐ外気を吸い、汚染された雨に打たれて。もちろん、避難民を助けるより、まず自分たちが避難すべきであったことを、まったく考えにも及ばずに。
避難が指示された。田畑の耕作の準備もしないままに、牛舎に牛を残したままに、豚も鶏も犬も猫も、憎らしいが憎めきれない鼠たちを残して、自分たちのためのおにぎりも持たずに、村人たちは全員、家、村から離れなければならなかったのである。天明の時代に、凶作の飢饉によって、田畑や家屋敷から逃散しなければならなかった時のように。
村には、逃散、離村の歴史の記憶があった。新開の山田もあれば、牧畜業の開拓もあった。歴史と伝統と思い出があった。それは、日本の山の村のどこにでも共通するような歴史であると同時に、飯舘村の独自の、かけがえのない伝承であり、風俗でもあり、風土を作り出してきた時間の堆積でもあったのである。
原発立地でもないのに、原発事故の災厄だけを引き受けなければならなかった不運な村。しかし、それを自分たちの頭の上に降りかかってきた不運や不幸なことだけとして甘んじるわけ(耐えるだけ)にはゆかない。それをまた、村の歴史の一部として、解決し、乗り越え、伝えてゆかなければいけないのである。
三・一一以前には、村はどうであったのか。なくなったもの、失われたものは何であったのか。それはどのように回復されるべきか、あるいは諦めるべきなのか。復興するためには、何が復興されなければならないのかという問が必要だ。そして決定的に失われたものを数え直し、新たにもたらされなければならなものを要求することが(誰に? もちろん、憎むべき事故を起こした者たちに)。
村の大部分を占める山林は、緑濃く繁っている。平年と変わらぬ緑の山の風景だ。だが、決定的に変わったことがある。生きものの気配がほとんどないことだ。もちろん、猪や兎や山鳥たちはいるはずだ。しかし、彼らはひっそりと気配を殺して、姿を見せない。彼らを追う人々の影がなくなったのだから、もっと村里や田畑や牧場にも下りてきてもいいのに。山の神は、どこに行ったのか。どこに、姿を隠しているのか。
山は死んでしまったのだろうか、村も同様に?  飯舘村の歴史を復元し、村の姿を昔のままに思い起こすこと。それが復興や再生につながることを信じて。

原発VS言葉
村上政彦

子供の頃、行きつけの銭湯に原発を宣伝するポスターがあった。そこには「原発から生じる放射線は、自然由来の放射線よりも低く、安全です」というようなことがしるしてあった。僕は、子供心にも、この論法に違和感を覚えた。
その後、チェルノブイリの事故が起きて、原発が極めて危険な存在であると分かった。この時、僕は子供の頃に原発を宣伝するポスターを見て覚えた違和感の正体に気づいた。それは原発が凄まじい破壊力を持つ核兵器のきょうだいであって、それを「安全」ということのまやかしからくるものだった。そして、この国に随分な数の原発があることを知って驚いた。 
なぜ、日本に原発が増えたのか。それはヒロシマ・ナガサキの核の惨禍に遡る。あの惨禍を目撃して、日本の「政治」は、核の力を怖れるのと同時に憧れを抱いた。そして核兵器を欲した。核兵器による惨禍を目撃した時の、生物としてのまっとうな反応は、核兵器の廃絶に向かうことだろう。逆に、それを欲するところに「政治」のいびつさがある。
しかし日本が核武装をすることはアメリカばかりか、国際社会が許さない。そこで核兵器の潜在的な開発力を担保しておくために原発を導入した。この「政治」の思惑は、やがて「経済」の思惑と結びついて、だんだんと原発は増えていった――これが一般的に知られている、この国に原発が増えていった経緯である。
率直に告白する。僕はたかをくくっていた。チェルノブイリの事故が起きた後も、日本で同じような出来事は起きないだろうと、どこかで楽観していた。しかしフクシマでの事故は起きた。「政治」と「経済」の思惑が、この国を深く傷つけるのを許してしまった。僕は、みずからの鈍感を悔いると共に、何かやらなければならないと感じた。
いま僕等は選択を迫られている。原発の問題は帰するところ、実存の問題だ。この国の人間が、何を至高の価値として生きるのか。これまで至高の価値は、国家であり、マネーだった。それを転換しなければならない。
脱原発をめざす文学者の会がやろうとしていることは、原発VS言葉と表現できる。言葉は無力に思える。しかし原発は自然にできるわけではない。造るのは人間だ。原発を押し立てる「政治」と「経済」を担っているのも人間だ。言葉は、その人間の心を変えることができる。文学者には、文学者の闘い方があるのだ。
僕は言葉の力を信じる。言葉の力で、国家やマネーではなく、生命を至高の価値とする社会を築くことができると信じる。そうでなければ、文学者なんてやってらんねえよ!

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