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紙数の関係で『創』掲載の文章では触れられなかった、現地でお会いした詩人・若松丈太郎さんから、新刊の詩集を送っていただいた。ここでご紹介させていただくことで、その時のお礼と、寄贈していただいたお礼を兼ねたいと思う(『コールサック詩文庫14 若松丈太郎 詩選集一三〇篇』コールサック社、2014年3月11日、1500円+税)。
若松丈太郎さんの「連詩 かなしみの土地」、とりわけ「神隠しされた街」は、福島第一原発の事故を〝予言〟した詩として有名だが、何度も何度も繰り返し読まれるべき詩だと思うので、あえて引用させてもらう。
6 神隠しされた街
四万五千の人びとが二時間の間に消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れるちと思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけをだいた老婆も
入院加療中の病人も
千百代のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
鬼ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四〇時間後のことである
千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村をあわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径か三〇㎞ゾーンは危険地帯とされ十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇㎞や一五〇㎞の農村にちりぢりに消えた
半径三〇㎞ゾーンといえば
東京電力福島第一原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町 富岡町
楢葉町 浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある
事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったぺーヴメンとの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上にひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとのつくった都市と
ほろびをきそいあう
ストロンチウム九〇 半減期 二九年
セシウム一三七 半減期 三〇年
プルトニウム二三九 半減期二四〇〇〇年
セシウムの放射線量が八分の一に減るまでに九〇年
致死量八倍のセシウムは九〇年後も生きものを殺しつづける
人は百年後のことに自分の手を下せないということであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす
余計な引用者註をつければ、この詩は二〇〇〇年に刊行された詩集『いくつもの川があって』に収められたものだ。二〇一一年の3・11以降に書かれたものではない。
ただ、いっておきたいのは、これがすぐれた詩人の〝予言〟的な奇跡のような作品であっても、福島第一原発の〝事故予測〟そのものは、「想定外」のものではまったくなかったということだ。チェルノブイリ級の事故が起これば、放射能汚染によって居住出来なくなる地域は、三〇㎞地帯にも及ぶ。双葉町や大熊町という被害範囲の〝予言〟は、実は予言でも何でもなく、当然の想定済みの〝予測〟なのである。
もう一編、こんどは3・11以降の詩である。
ある海辺の小学校
太平洋に面して小学校がありました
請戸小学校といいました
電源立地促進対策交付金を受けて
校舎が新しくなりました
グラウンドやプールからは
こどもたちの歓声が響いていました
展望台があって水平線を行く船が見えます
まぢかには福島第一原発の排気筒が見えます
六キロ先の福島第一原発で核災があって
請戸小学校からこどもたちがいなくなりました
無人の校舎が海辺にたちつくしています
体育館のステージに掲げられています
祝 修・卒業証書授与式
二〇一一年三月から時間が止まったままです
(『いのちの籠』第二十六号・戦争と平和を考える詩の会・二〇一四年一月二十五日)
この詩を真似て、私(川村)もこんな詩らしきものを作ってみました。
ある小さな学校の物語
海辺に小さな小学校がありました
学校の展望台からは 鉄のやぐらや 高い塔の建物が見えました
それは 学校にグラウンドやプールを作ってくれた原子力発電所の建物でした
よく晴れた日には ちりちりするような風が
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放射能に占領された町―――旧小高町
福島県南相馬市小高区―――旧小高町は、二人の特異な文学者を輩出している。埴谷雄高と島尾敏雄である。地元の豪農・般若家の末裔として生まれた埴谷雄高は、出生地は台湾だが、小高町とは先祖代々からの深い縁がある。本家が般若家のすぐ近くだったという島尾敏雄も、その作家としての生涯を奄美・沖縄で過ごしたことから、南方系の人と見られているが、れっきとした〝福島人(東北人)〟である。
二人の資料・文献・関連書籍を集めた埴谷・島尾記念文学観が小高町にあった。しかし、地震のあとに津波、そして福島第一原発の爆発事故と放射能汚染により、誰もその建物に立ち寄れることさえできない。避難解除準備区域として、立入制限となっているからだ。
埴谷雄高が、日本の植民地としての台湾に生まれ、育ったこと。島尾敏雄が、米軍の軍事占領が長く続いた奄美・沖縄に深く関わったこと。これは偶然といえることかもしれなすが、彼らの「文学舘」が、軍事占領区ともいえる、日本の米軍基地以外ではありえないような厳戒体制の下の管理区域としてあることは、歴史的な皮肉であり、逆説であるかもしれない。埴谷雄高の『死霊』は、戦後の長い間、幻の未完の長編小説として人の目に触れにくいところにあった。島尾敏雄は、東京を離れて、まるで自らに流刑を科したように、南島に遁世した。その二人の作家の故郷(の記念館)が、放射能という目に見えないバリアーによって閉ざされ、そして現実的にバリケードと、誰何するガードマンによって自由な交通を封鎖されているのである。
立入の許可証を貰った私たちは、旧小高町をレンタカーで走った。海岸線のすぐ高台の地域は、二方面からせり上がってきた津波によって、建物のコンクリートの土台だけを残して、潰滅状態となっていた。一軒の家の便器だけが、湯船だけが、白々とした昼の光にさらされていた。小高駅の自転車置き場には、今ひょいと自転車を乗り捨てた女高生が、あわてて改札口に駆け込むような雰囲気が、そのまま残っていた。もちろん、駅の扉にはしっかりと鍵が掛けられていたが。
駅前から並ぶ商店街は、「ご免ください」といえば、「ハイハイ」といってエプロンで手を拭きながら、店のお上さんが出てきそうな、そんなたたずまいである。米屋、パン屋、美容院、喫茶店、薬屋、コンビニ、郵便局……路地の奥のスナックには、スイッチを切り忘れたのか、白昼に看板が灯っていた。「今、駅に着いた。迎えに来て」。駅前の電話ボックスの電話は通じていて、いつでも、駅から降り立つ人を待っている。空しいままに。
いったい、誰がこの町を襲ったのだろうか。町の人たちみんながおおあわてで逃げ出さなければならないような。地震で崩れた建物、津波で流された家や車、そしてそのなかの遺体すら放ったままで(もちろん、二年半が経った今、遺体は処理されている)。
警察官が、消防隊員が、自衛官が、そして米軍さえも動員され、この一帯から、目に見えない侵略者を追い払おうとした。しかし、それらの軍隊はただ退却するしかなかった。相手は、風であり、水であり、空であり、地であり、海だった。そして、本当の敵は、戦後の日本が、アメリカの世界支配体制の野望のために押しつけられ、そして従容としてそれを受け入れた「核/原子力」の支配/権力関係にほかならなかったのである。
ポスト・コロリアリズム下の台湾、ポスト冷戦下の沖縄。埴谷と島尾の二人が深く関わった地域と、かれらの故郷、福島県旧小高町は、〝戒厳令下〟の軍事占領地として、そこに忍び込み、その現実を広く訴え、自分たちの町へ帰れない不満と抗議の声を、封殺するためにやっきとなっている権力者、支配者、政治家(いわゆる原子力マフィア)たちの、薄汚い隠蔽工作の対象となっているのである。
仮設住宅の一軒に、入れてもらった。隣家の物音がつつぬけの薄い壁で隔てられたプレハブ住宅。冷蔵庫と洗濯機の大きさの割には、ガスコンロ二つの、とても狭いキッチン台。でも、問題はそんことではないという。年寄りも多い仮設住宅には、「未来」や「夢」や「希望」が、何一つとして、準備されていないのだ。自宅にいれば、庭の手入れや、野菜畑や、子どもたちや孫たちの成長、町内会の催しなどで、それなりの生きがいとやりがいかあったのに、ここでは、ただ鶏舎の鶏のように、餌を食べ、不妊の「未来」という卵をうずくまって抱えるだけだ。外に出ると、そんな小屋が、幾十、幾百軒となく、並んでいた。軒ごとの黄色光の外灯が、とてもわびしく思える。灯火管制のような夜空を、私はそっと仰ぎ見ずにはいられなかった。
※ これは、2014年に「脱原発のための文学者の会」のメンパーとともに、浪江町、南相馬市などの被災地をめぐった1泊2日の旅行の記録である。他のメンバーの記事といっしょに『創』2013年11月号に掲載された。半年ほど前に行った時(この「通信①に書いた)と、まったく変わっていないことにむしろ驚いた。復興など、原発震災の被災地には、ほとんど無関係のまま時間だけが経っているのだ。請戸小学校(廃校が決定)の二階のピアノなど、津波と原発震災の痕跡をとどめるものを、むしろ遺産として保存していたたきたいものだ。このブログの壁紙となっている黒板も、是非。
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南相馬市小高区で僕は生まれ育った。福島第一原発から十〜二十キロ圏内の旧警戒区域。一年以上も立入禁止だったため、沿岸部は今も津波の爪痕が生々しく残っている。震災後、帰郷するたび僕は海を見に行った。波音を腹の底で受け止めなければ、故郷に帰ったという実感が湧かないのだ。
海水浴場のあった塚原集落は少年時代の思い出の地だ。しかし津波は防風林をなぎ倒し、岸壁を駆け上がり高台の民家まで押し流し、風景を一変させた。同級生の家も多い。彼らの何人かとは連絡を取れずにいる。被害が大きかった人ほど、どこに避難しているのか消息がつかめない場合が多いのだ。 「視察に来たのが」僕らの横に軽トラックが止まり、浅黒い顔のおばさんが運転席から声をかけてきた。「おらぁ首まで津波に呑まれて死ぬかと思った」と笑う。荷台には季節が過ぎたので抜いてきたという、仮設住宅で育てていた草花を山のように積んでおり、たくましい避難生活をうかがわせた。 些細なエピソードかもしれないが、被災地で笑顔に出会うことなど滅多にない。沈鬱な顔ばかり見てきただけに、土臭いおばさんの生活力に満ちた笑顔に僕は明るい兆しを感じた。政治家がどんな計画を立てようと、知識人が知恵を絞ろうと、普通の人々の日常を取り戻そうとする意思がなければ復興は実現しない。もしくは歪んだものになるはずだ。 |
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錦秋の景色と黒い袋 岳真也
得がたい体験であった。まずは、ものものしい警備態勢。福島市側のゲートをはじめ、浪江町内にはいくつかの検問所があって、そこを通過するたびに車を止められる。私達は入域許可証を携えてきていたが、それには六名全員の名が連ねられていて、めいめい運転免許証などを提示しなければならないのだ。そうして町に入り、山際の津島地区に差しかかった時、さらに仰天させられることが起こった。その辺りの線量が極めて高いことは知らされていたが、それまでチチッと虫の鳴くような音を出していたガイガーカウンターが突然、ピーピピピーッとけたたましい音を発して、止まらなくなったのである。折しも紅葉の季節で、右手には請戸川に沿って、見事な錦繍の景色が続く。左手の道端には、放射能汚染の廃棄物がつまった黒い袋の山(たぶん半永久的に動かせない)……この「落差」は何なのか。だが、そのあと私はもっと恐ろしい光景を見た。それは浪江の駅前である。常磐線は走らず、繁華だった筈の駅前通りの店は軒並みシャッターを下ろし、壊れた建物は手つかずのままで、人の匂いがまるでない。私は鳥肌が立ってくるのを覚えた。
貴重な出会いもあった。南相馬村小高地区出身の志賀泉氏の父御さん。「八十年間、休む暇なく働いて建てた家に戻れないなんて」仮設住宅で聞いた言葉が辛かった。実際今、本当に怖いのは、眼に見える事物ではない。帰宅できない、新しい土地になじめない、ストレスがたまる、アルコールやパチンコ依存症、子どもらの苛めにDV、自殺。精神の荒廃こそが、何よりも問題なのだ。そうした物心両面の荒廃や危険を原発の建設前から察知し、詩や短文にして訴え続けてきた現地在住の反骨詩人、若松丈太郎氏。かの金子光晴の「後ろを向いたオットセイ」への共感で一致した。そして「無意味な殺処分」に抵抗し、原発の間近で被爆した牛達を飼育し続ける吉沢正巳氏。めげることなく連帯したいと思う。
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