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放射能汚染で震災直後の姿のまま
(雑誌「創」2014年1月号から転載 1~5回)
橘氏の案内で見た浪江町は、あまりにも無惨な姿だった。放射能汚染のせいで、まったくの手つかず、震災直後の姿のままだった。
人気の途絶えた駅前通り、駅の自転車置場には、放置された自転車が持ち主が帰ってくるのを待ち受けていた。草はぼうぼうの赤錆びた線路。電車の来ない無人のホーム。
家々の庭は雑草に覆われ、自信で壊れた家屋は傾いたまま、家の内部を晒している。家は鼠や猪に侵入され、荒れ放題だ。
放射線量は0・30〜0・40マイクロシーベルトあり、とても人が住める状態ではない。
「避難した町民の多くも、この現状を目の前にして、もう町へは戻れないと覚悟したようです」と橘氏はため息をつく。
海岸側にある浪江町の請戸小学校は、福島原発から7キロほどしか離れていないが、幸い放射能雲は通っていなかったらしく、それほど線量は高くはなかった。だが、津波で壊された校舎は、そのまま無惨な姿を晒していた。校庭の瓦礫は片付けられず、野積みされたままだった。
請戸小学校の黒板には、救援活動に駆け付けた消防隊員や自衛隊員、警察官、ボランティアたちの思いや激励の言葉が、チョークでさまざま書き残されていた。
その中に「原発ゼロの日本に、未来の子供たちのために」と大書された言葉があった。誰がかいたのかは分からない。おそらく、被災地を目の当たりにして、心からそう思ったことを書き記したものだろう。
並榎町の北に接する南相馬市小高地区の海側の地域も津波の被害が甚大で、いまも、生々しく津波の爪痕が残っていた。
津波が押し押せた田圃は水が引いても手付かずで、辺り一面、丈の高いセイタカアワダチソウの群生に覆われていた。
小高地区は浪江町ほど線量は高くないので避難指示解除地域にされていた。小高町から仮設住宅に避難している志賀氏のご両親は、私たちにしみじみと、早く自宅に帰りたいと話していた。
だが、戻っても一度ばらばらになった隣人や知人が町へ戻ってくるものかどいうか、はたして昔のような生活を取り戻せるかどうか、不安を抱えている。
放射能汚染を考えると、若者や子供は戻るべきではない。そうなると戻るのはお年寄りばかりで、もし地域を復興させても、活性化は失われ、未来は先細りだ。
原発さえなかったら……。
原発は人と人のつながりを分断し、町や村の共同体を破壊する。原発と人や生き物は共存することは出来ない。
哲学者梅原武氏は、東日本大震災と原初事故被災者は「文明災」だといった。
南相馬市で会った詩人若松丈太郎さんは「核災」と呼んだ。言葉でもって3・11事態を語らねば……
その夜、若松丈太郎氏にお会いし、脱原発の思いを語り合った。
私たちは文学に携わるものとして、言葉でもって、この3・11事態を語り、この現実の悲惨さと破滅の予兆を、いつか文字にせねばならない。
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2014年03月19日
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