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南相馬市小高区で僕は生まれ育った。福島第一原発から十〜二十キロ圏内の旧警戒区域。一年以上も立入禁止だったため、沿岸部は今も津波の爪痕が生々しく残っている。震災後、帰郷するたび僕は海を見に行った。波音を腹の底で受け止めなければ、故郷に帰ったという実感が湧かないのだ。
海水浴場のあった塚原集落は少年時代の思い出の地だ。しかし津波は防風林をなぎ倒し、岸壁を駆け上がり高台の民家まで押し流し、風景を一変させた。同級生の家も多い。彼らの何人かとは連絡を取れずにいる。被害が大きかった人ほど、どこに避難しているのか消息がつかめない場合が多いのだ。 「視察に来たのが」僕らの横に軽トラックが止まり、浅黒い顔のおばさんが運転席から声をかけてきた。「おらぁ首まで津波に呑まれて死ぬかと思った」と笑う。荷台には季節が過ぎたので抜いてきたという、仮設住宅で育てていた草花を山のように積んでおり、たくましい避難生活をうかがわせた。 些細なエピソードかもしれないが、被災地で笑顔に出会うことなど滅多にない。沈鬱な顔ばかり見てきただけに、土臭いおばさんの生活力に満ちた笑顔に僕は明るい兆しを感じた。政治家がどんな計画を立てようと、知識人が知恵を絞ろうと、普通の人々の日常を取り戻そうとする意思がなければ復興は実現しない。もしくは歪んだものになるはずだ。 |
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2014年03月25日
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