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脱原発社会をめざす文学者の会
原発事故を風化させないために

書庫第一回福島訪問報告

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 南相馬市小高区で僕は生まれ育った。福島第一原発から十〜二十キロ圏内の旧警戒区域。一年以上も立入禁止だったため、沿岸部は今も津波の爪痕が生々しく残っている。震災後、帰郷するたび僕は海を見に行った。波音を腹の底で受け止めなければ、故郷に帰ったという実感が湧かないのだ。
海水浴場のあった塚原集落は少年時代の思い出の地だ。しかし津波は防風林をなぎ倒し、岸壁を駆け上がり高台の民家まで押し流し、風景を一変させた。同級生の家も多い。彼らの何人かとは連絡を取れずにいる。被害が大きかった人ほど、どこに避難しているのか消息がつかめない場合が多いのだ。
「視察に来たのが」僕ら
の横に軽トラックが止まり、浅黒い顔のおばさんが運転席から声をかけてきた。「おらぁ首まで津波に呑まれて死ぬかと思った」と笑う。荷台には季節が過ぎたので抜いてきたという、仮設住宅で育てていた草花を山のように積んでおり、たくましい避難生活をうかがわせた。
 些細なエピソードかもしれないが、被災地で笑顔に出会うことなど滅多にない。沈鬱な顔ばかり見てきただけに、土臭いおばさんの生活力に満ちた笑顔に僕は明るい兆しを感じた。政治家がどんな計画を立てようと、知識人が知恵を絞ろうと、普通の人々の日常を取り戻そうとする意思がなければ復興は実現しない。もしくは歪んだものになるはずだ。
この集落の住民が書いたブログを思い出した。〈春に帰宅したら畑にフキノトウが生えていた。この辺りの放射線量は国が定めた基準値以下なので天ぷらにして食べた。春を感じた。嬉しかった〉という内容だ。
 とんでもない、とあなたは目を剥くだろうか。しかし、一見素朴な身辺雑記に筆者が込めた、健康な反骨精神こそ読み取るべきだ。本物の希望はこういう精神から生まれるはずだと、僕は信じる。
錦秋の景色と黒い袋  岳真也


得がたい体験であった。まずは、ものものしい警備態勢。福島市側のゲートをはじめ、浪江町内にはいくつかの検問所があって、そこを通過するたびに車を止められる。私達は入域許可証を携えてきていたが、それには六名全員の名が連ねられていて、めいめい運転免許証などを提示しなければならないのだ。そうして町に入り、山際の津島地区に差しかかった時、さらに仰天させられることが起こった。その辺りの線量が極めて高いことは知らされていたが、それまでチチッと虫の鳴くような音を出していたガイガーカウンターが突然、ピーピピピーッとけたたましい音を発して、止まらなくなったのである。折しも紅葉の季節で、右手には請戸川に沿って、見事な錦繍の景色が続く。左手の道端には、放射能汚染の廃棄物がつまった黒い袋の山(たぶん半永久的に動かせない)……この「落差」は何なのか。だが、そのあと私はもっと恐ろしい光景を見た。それは浪江の駅前である。常磐線は走らず、繁華だった筈の駅前通りの店は軒並みシャッターを下ろし、壊れた建物は手つかずのままで、人の匂いがまるでない。私は鳥肌が立ってくるのを覚えた。
 貴重な出会いもあった。南相馬村小高地区出身の志賀泉氏の父御さん。「八十年間、休む暇なく働いて建てた家に戻れないなんて」仮設住宅で聞いた言葉が辛かった。実際今、本当に怖いのは、眼に見える事物ではない。帰宅できない、新しい土地になじめない、ストレスがたまる、アルコールやパチンコ依存症、子どもらの苛めにDV、自殺。精神の荒廃こそが、何よりも問題なのだ。そうした物心両面の荒廃や危険を原発の建設前から察知し、詩や短文にして訴え続けてきた現地在住の反骨詩人、若松丈太郎氏。かの金子光晴の「後ろを向いたオットセイ」への共感で一致した。そして「無意味な殺処分」に抵抗し、原発の間近で被爆した牛達を飼育し続ける吉沢正巳氏。めげることなく連帯したいと思う。
原発さえなかったらーー被災地の時間は止まったまま


雑誌20141月号から転載
 
 視察旅行の終りに、浪江の「希望の牧場」に寄り、牧場主の吉沢正巳しとお会いした。
 吉沢さんの牧場は、阿武隈山中にあって、原発から約14キロの距離にある。線量は高く、牧場内は低いところでも、0・40マイクロシーベルトはある。高いところでは4・0マイクロシーベルトもある。いまも周辺の森や林は、ところによっては10マイクロシーベルトもある高濃度被曝地域だ。
 原発爆発後、国から瀕死時地域に指定され、約300頭もいる牛を殺処分して避難するように指示された。
 吉沢さんは牛たちの殺処分を拒否、避難もせずに被曝覚悟で、牧場に残って牛の世話をした。牛は被曝しているので、売り物にはならない。だが、吉沢さんは牛が死ぬまで飼い続けるつもりだ。
「なぜ、みんな国や東電に怒らないのか。この国を変えようと声を上げないのか。暴力ではなく、言論による民衆の力で政治を変える。『原発一揆』を起こそう」
 吉沢さんの言葉は穏やかだが鋭さがある。私たちの心に痛いほど突き刺さる。
 牛は生かし続けることで国や東電がやったことの生き承認とする。その牛にも次第に放射能の影響らしい兆候が出始めている。これまで100頭ほどの牛が死んだ。
 吉沢さんも被曝している。いつか、その影響は出るだろう。
「あと5年、おれはがんばる。おれは牛と運命をともにするよ」
 吉沢さんの命懸けの決意に、私たちは頭が下がった。私たちは何とか吉沢さんに応えなければならないと心底思った。
 別れ際、牛たちは牧草を黙々と食みながら、私たち私たちを穏やかな目で見ていた。
 私は吉沢さんの「希望の牧場」に、ひとつの光明を見た思いで帰途についた。
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        吉沢さんの思いについては、針谷勉著『ゲンパツ一揆警戒区域で闘い続ける〝ベコ屋〟の記録』(株式会社サイゾー)が詳しい。

放射能汚染で震災直後の姿のまま
 
雑誌「創」2014年1月号から転載  1~5回)

 橘氏の案内で見た浪江町は、あまりにも無惨な姿だった。放射能汚染のせいで、まったくの手つかず、震災直後の姿のままだった。
 人気の途絶えた駅前通り、駅の自転車置場には、放置された自転車が持ち主が帰ってくるのを待ち受けていた。草はぼうぼうの赤錆びた線路。電車の来ない無人のホーム。
 家々の庭は雑草に覆われ、自信で壊れた家屋は傾いたまま、家の内部を晒している。家は鼠や猪に侵入され、荒れ放題だ。
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 放射線量は0・30〜0・40マイクロシーベルトあり、とても人が住める状態ではない。
「避難した町民の多くも、この現状を目の前にして、もう町へは戻れないと覚悟したようです」と橘氏はため息をつく。
 海岸側にある浪江町の請戸小学校は、福島原発から7キロほどしか離れていないが、幸い放射能雲は通っていなかったらしく、それほど線量は高くはなかった。だが、津波で壊された校舎は、そのまま無惨な姿を晒していた。校庭の瓦礫は片付けられず、野積みされたままだった。
 請戸小学校の黒板には、救援活動に駆け付けた消防隊員や自衛隊員、警察官、ボランティアたちの思いや激励の言葉が、チョークでさまざま書き残されていた。
 その中に「原発ゼロの日本に、未来の子供たちのために」と大書された言葉があった。誰がかいたのかは分からない。おそらく、被災地を目の当たりにして、心からそう思ったことを書き記したものだろう。
 並榎町の北に接する南相馬市小高地区の海側の地域も津波の被害が甚大で、いまも、生々しく津波の爪痕が残っていた。
 津波が押し押せた田圃は水が引いても手付かずで、辺り一面、丈の高いセイタカアワダチソウの群生に覆われていた。
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 小高地区は浪江町ほど線量は高くないので避難指示解除地域にされていた。小高町から仮設住宅に避難している志賀氏のご両親は、私たちにしみじみと、早く自宅に帰りたいと話していた。
 だが、戻っても一度ばらばらになった隣人や知人が町へ戻ってくるものかどいうか、はたして昔のような生活を取り戻せるかどうか、不安を抱えている。
 放射能汚染を考えると、若者や子供は戻るべきではない。そうなると戻るのはお年寄りばかりで、もし地域を復興させても、活性化は失われ、未来は先細りだ。
 原発さえなかったら……。
 原発は人と人のつながりを分断し、町や村の共同体を破壊する。原発と人や生き物は共存することは出来ない。
 哲学者梅原武氏は、東日本大震災と原初事故被災者は「文明災」だといった。
 南相馬市で会った詩人若松丈太郎さんは「核災」と呼んだ。

言葉でもって3・11事態を語らねば……
 
 その夜、若松丈太郎氏にお会いし、脱原発の思いを語り合った。
 私たちは文学に携わるものとして、言葉でもって、この3・11事態を語り、この現実の悲惨さと破滅の予兆を、いつか文字にせねばならない。

原発さえなかったらーー被災地の時間は止まったまま

雑誌「創」2014年1月号から転載  1~5回)

 3・11東日本大震災と東電福島第一原発事故から210カ月も経つ。
 腹立たしいことだが、東京オリンピック招致のお祭り騒ぎや、アベノミックスとやらの景気浮揚幻想に浮かれて、世の中は、3・11事態のことなど、あたかもなかったかのように忘れさろうとしている。
 正直、そう嘆く私とて、3・11事態のことは絶対忘れまいと心に誓ったはずなのに、時間が経つとともに震災と原発事故の記憶が次第に色褪せてきている。
 これではいけないと、私たち「脱原発社会をめざす文学者の会(略称脱原発文学者の会)」は、まず私たち自身が、原発災害を風化させぬよう、福島の被災地の視察をすることにしたのである。(これは視察第一回であり、今後も訪問視察を続けていく)
 これまで警戒地域の浪江町や南相馬市小高地区など高レベルの放射能被曝地域には立入り出来なかった。
 その警戒地域が、2012年4月に一部解除され、避難指示解除準備地域となり、条件付きだが立入り出来ることになったので、私たちも被災者の帰郷に同行し、現状はどうなっているのか、自分たちの目で見て回ることにしたのである。
 私たちが福島市から来るまで被曝地に入ったのは、1115日から16日だった。
 南相馬小高地区出身の作家志賀泉氏と、浪江町から埼玉県に避難しているシンガーソングライター橘光顕氏(被災者の会ひまわり代表)の二人に案内をお願いし、川村湊(文芸評論家)、岳真也(作家)、山本源一(編集者)と私、森詠の四人が同行した。
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