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脱原発社会をめざす文学者の会
原発事故を風化させないために

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 脱原発をめざす文学者の会というと、いかめしい印象がある。実際、何をやっているのだろうと思われる人も多いだろう。具体的には、いつも集まると「話」をしている。だいたいある日の夕刻に幹事と呼ばれる人々が集って来て、これからの活動について打ち合わせる。この1部が1時間ぐらいで、その後が馴染みの酒場に席を移して2部が始まる(基本的に誰でも参加できる)。そして、会の集まりでおもしろいのは、個人的には2部である。ここでは酒とおいしい肴が出るせいか、中身の濃い「話」が聴ける。中でも僕が楽しみにしているのは、加賀乙彦さんの「話」だ。
 加賀さんは、会の長老格で、これまでにも活動の核になるような発言をされてきた。会の立ち上げ当初、「脱原発文学賞をつくりましょう」と、会の性格を決めるようなこともおっしゃった。また、ぽつりと「こんな狭い国に原発は要りません。なくても日本はやっていけます」ともいわれた。
 このあいだの2部では、「話」の流れもあって、加賀さんは熱弁をふるわれた。実は、僕はアルコールがだめなので、おいしい肴をつまみながら、その場の「記憶係」として、みなの「話」を聴いている。僕の記憶だけに留めておくのはもったいないと思われる「話」を紹介したい。
 加賀さんは、「文学は、本来、一番弱い者、苦しんでいる者の側にあって、彼らに寄り添って書かれなければならない」とおっしゃった。「いま福島の人々は、大きな苦しみを受けている。だから、文学はこれを書くべきです。
 脱原発というと、難しく聴こえるが、そうではない。原発で儲ける者と、そうでない者がいるだけで、文学はこれをきちんと描き分けることが重要なんです。マルクスの資本論は生きている。原発に人が群がる理由が、きちんと書かれている」
 これまでの仕事を回想して、こんな話もされた。
「僕は、死刑廃止の小説を書くのに十年間、いろいろと調べた。その結論は単純なものだった。人が人を殺してはいけない、ということですよ。脱原発も同じことだと思う。きちんと調べるのには何年かかかるだろうが、結論はマネーよりも人の命のほうが大切だ、ということになるでしょう。
 脱原発社会とは、みなが相互に信頼し合って生きることのできる社会ですよ」
 加賀さんは、好物の赤ワインを召し上がりながら、そういうことを話された。また、いま4000枚の長篇を書いている。医師から、余命はあと4、5年と宣告されたので、5年にしてくれ、と頼んだら、努力するといわれた。長篇は生きているうちには完成しないだろから、編集者と家族宛てに、未完で終わった場合の指示をしてある、というようなことも述べられた。
脱原発の話とともに、文学者としての覚悟を教えられた気がして、帰りがけ、今日のお話は心に残りました、仕事の糧になります、といったら、加賀さんは、僕の肩に軽くグーパンチを見舞って、「マルクスを読みなさいよ」といわれた。資本論は若い頃に読んだが、今度、加賀さんと会う時までに、再読するつもりでいる。
脱原発をめざす文学者の会は、こんなふうに行われている。ぜひ、一度、参加してみてください。まずは、2部からね。
 今年九十二になったわたしの母は、広島に原爆が投下される一日前までその地にいた。たまたま里にを逃れたが、仲がよかった幼染みの女性は、母の、一ろうといういを断り被爆した。

 家にった彼女は、次の日から自分が卒した学校に、トラックにめられた被者たちがやってきたのを見た。友人のことがにかかってしかたがなかったらしい。それで数週間後に広島に行ってみると、相手の女性はの町の病院にいて手当を受けていた。
 れたや皮て二人で泣いたらしい。彼女は田では珍しい幼洗礼を受けた女性で、美歌を歌う声がきれいだったと、今でも母は言う。それからキリストさんの国でも、あんなむごいことをやるんだねとつぶやく。
 直にその女性は亡くなったが、被爆しなかった母は、夫が早く亡くなっても、ある
いはこどもたちが意にそぐわない生き方をしても、なにも言わない。一度も勉をし
ろと言われたことがないし、なにかに失しても、注意をしてやれと言った。たった
一日のいで生き延びた彼女は、どんなことがあっても、生きている自分は幸福だと
える。人は生きているだけでいいと言うのだ。
 そんな母ので育ったので、わたしには原爆や原しての潜在的なアレルギ
がある。多少は史のこともわかるので、原動機も考える。一バレル一ド
ルだった石油を入し、沖縄から北海道まであった石炭事はみな山となった。そ
の石油が上がりすれば、またほかの代替エネルギを考えねばならない。
 それが今日の日本の姿ということになるが、いつのにかこの国は原大国になってしまった。この「小さな太」を手に入れた日本は、逆に魔と握手をしたことになる。いつも不安と恐怖の中に身を置いて生きなければいけなくなった。産業発展や安易な利便性のために、消すことのできない不安と怖れを受したのだ。
 十年以上も前、絶対に行きたくないと言っていた広島に妻や息子と一に行った。陽気だった彼女が街中に入ると、急に分がくなった。車酔いでもしたのかと思っていると、原爆投下されたときのことがフラッシュバックしてきのだと言った。それならと街中をけると、また元になった。わたしはそのときはじめて原爆や争の恐ろしさを知り、なにも言えなかった。
 世の中には忘れなければいけないものもある。また忘れてはいけないものもある。原爆のことも原事故のことも忘れてはいけないことなのだ。どんな理由があるとしても、わたしたち人やかに暮らすことができないものが身近にあれば、それは突きむよりも後退し、の道をむしか方法はないはずだ。人工の「小さな太」は必ずいつかまた破する。わたしたちはそのことを忘れてはいけないのだ。
 老いた母は、こんなに原爆念日やお父さんの供ができるとは思わなかったと言ったが、八月の原爆投下の日は父の命日でもあるのだ。いけないものはいけないというい声が日本人には不足しているのではないか。

会報2号

渡辺一枝トークの会『福島の声を聞こう!』を聞きに行く
                            志賀 泉
 
「文学者の目的は歴史を創ることではない。歴史を生きることだ」(映画『最後の人間』)
 原発被災地に入り自分の眼で現場を見ても、人は自分の見たいようにしか見ない。自分の聴きたい話しか聴かないものだ。
 被災者は常に多種多様なジレンマを抱えて生きている。これが真実、これが正義と割り切れるものではない。ジレンマを枝葉末節として刈り取れば歯切れのよい主張も出来そうだが、文学者の仕事はむしろ、枝葉末節をいかに拾うかに掛かっているはずだ。
 原発事故関連の講演会や記録映画上映会があれば出来るだけ参加しているが、混乱した頭を抱えて帰ることも多い。被曝の危険度にしても、除染の有効性にしても、復興計画にしても、現地の声と外部の意見は乖離している。見方によって何が正しいのかはころころ変わる。けれど僕はその混乱にあえて答えを出さずにいる。混乱を生きることが、僕にとっての「歴史を生きること」だからだ。
 八月三十一日、神楽坂セッションハウスで開かれた渡辺一枝トークの会『福島の声を聞こう!』に参加した。一枝さんが被災当事者をゲストに招き、話を聞く会だ。十二回目のこの日は趣向を変え、南相馬市でボランティア活動をしている東京出身の若者がゲストだった。ちなみに南相馬市は僕の出身地だ。
 畑仕事からライブ演奏まで「何でも屋」の通称かまけんと、全国から手紙を集めて被災者に渡す活動を続けている小山謹子さん。二人に共通しているのは、被災者/支援者の垣根を越えて人間同士のコミュニケーションを築いているところだ。二人の報告には僕の両親が暮らしている仮設住宅も出てきて、元気な婆さん達の話を聞くのは楽しかった。
 しかし陽気で闊達な婆さんも夜は睡眠薬なしでは眠れないという。かまけんは「笑ってねえど死んじまう」と、婆さんが洩らした本音を聞いた。切実な言葉だ。マスコミが報道する被災者の姿は一面でしかない。しかし悲劇のみを強調するのも同様に一面的なのだ。
「フクシマの真実」などと言うけど、「真実」なんてないことは現地にいればわかる。小山さんはそう語った。それは僕も以前から考えていたことだ。自分のアイデンティティーのため、所属する団体のために自分の「真実」をぶつけ合っている。それでは進展がないという彼女の意見に、僕は強く賛同する。
 
 
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「会場で買った仮設住宅の婆さまの手芸品」
飯舘村は何を失ったのか?
川村湊
                                                                       
福島県飯舘村は、放射能被災の村として知られている。二〇一一年三月十一日、高原の山村に突然、放射能雲が流れ込み、山林や田畑、牧場や農家や村役場など、まどろむような田園の村を、三十キロ以上も離れた福島第一原子力発電所から発散された放射性物質の放射線が汚染したのである。村には、原発立地の近隣の市町村から、避難民が続々と押し寄せてきた。浪江町、南相馬市小高地区、着のみ着のままのそれらの人々に、飯舘村の人々は、温かい汁やおにぎりを提供した。放射線が降り注ぐ外気を吸い、汚染された雨に打たれて。もちろん、避難民を助けるより、まず自分たちが避難すべきであったことを、まったく考えにも及ばずに。
避難が指示された。田畑の耕作の準備もしないままに、牛舎に牛を残したままに、豚も鶏も犬も猫も、憎らしいが憎めきれない鼠たちを残して、自分たちのためのおにぎりも持たずに、村人たちは全員、家、村から離れなければならなかったのである。天明の時代に、凶作の飢饉によって、田畑や家屋敷から逃散しなければならなかった時のように。
村には、逃散、離村の歴史の記憶があった。新開の山田もあれば、牧畜業の開拓もあった。歴史と伝統と思い出があった。それは、日本の山の村のどこにでも共通するような歴史であると同時に、飯舘村の独自の、かけがえのない伝承であり、風俗でもあり、風土を作り出してきた時間の堆積でもあったのである。
原発立地でもないのに、原発事故の災厄だけを引き受けなければならなかった不運な村。しかし、それを自分たちの頭の上に降りかかってきた不運や不幸なことだけとして甘んじるわけ(耐えるだけ)にはゆかない。それをまた、村の歴史の一部として、解決し、乗り越え、伝えてゆかなければいけないのである。
三・一一以前には、村はどうであったのか。なくなったもの、失われたものは何であったのか。それはどのように回復されるべきか、あるいは諦めるべきなのか。復興するためには、何が復興されなければならないのかという問が必要だ。そして決定的に失われたものを数え直し、新たにもたらされなければならなものを要求することが(誰に? もちろん、憎むべき事故を起こした者たちに)。
村の大部分を占める山林は、緑濃く繁っている。平年と変わらぬ緑の山の風景だ。だが、決定的に変わったことがある。生きものの気配がほとんどないことだ。もちろん、猪や兎や山鳥たちはいるはずだ。しかし、彼らはひっそりと気配を殺して、姿を見せない。彼らを追う人々の影がなくなったのだから、もっと村里や田畑や牧場にも下りてきてもいいのに。山の神は、どこに行ったのか。どこに、姿を隠しているのか。
山は死んでしまったのだろうか、村も同様に?  飯舘村の歴史を復元し、村の姿を昔のままに思い起こすこと。それが復興や再生につながることを信じて。

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